マタイによる福音書9章13節

マタイによる福音書
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† 福音書縦観 「レビ(マタイ)の招き」 マタイ9:9~13 

マタイ9:9~13 マルコ2:13~17 ルカ5:27~32
マタイ9:9~13

Matt.9:13『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである(罪人を招いて悔い改めさせるためである」 ルカ5:32)」。  口語訳聖書

本節はホセア6:6の引用である。「わたしが喜ぶのは愛であって、いけにえではない。神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」

† 日本語訳聖書 Matt.9:13 

【漢訳聖書】
Matt.9:13 有言云、我欲矜恤、而不欲祭祀、爾宜往、學其意何歟、蓋我來非招義人、乃招罪人悔改也。

【明治元訳】
Matt.9:13 われを欲(このみ)て祭祀(さいし)を欲(このま)ずといふ此(こ)は如何(いか)なる意(こころ)か往(ゆき)て學(まな)ぶべし夫(そは)わが來(きた)るは義(ただしき)人(ひと)を招(まねく)ために非(あら)ず罪(つみ)ある人(ひと)を招(まね)きて悔(くい)改(あらため)させんが爲(ため)なり

【大正文語訳】
Matt.9:13 なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』

【ラゲ訳】
Matt.9:13 汝等往きて「我が好むは憫なり、犠牲に非ず」とは何の謂なるかを學べ。夫我來りしは義人を召ぶ為に非ず、罪人を召ぶ為なり、と。

【口語訳】
Matt.9:13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

【新改訳改訂3】
Matt.9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

【新共同訳】
Matt.9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

【バルバロ訳】
Matt.9:13 <私が望むのはあわれみであって、いけにえではない>とはどんな意味かを学びに行け。私が来たのは、義人を招くためではなく罪人を招くためである」と言われた。

【フランシスコ会訳】
Matt.9:13 『わたしが望むのはいけにえではなく、あわれみである』ということは何を意味するか、学んで来なさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」。

【日本正教会訳】
Matt.9:13 爾等往きて、我矜恤を欲して祭祀を欲せずと、云ふ事の意如何を學べ、蓋我が來りしは、義人を召す爲に非ず、乃罪人を召して悔改せしめん爲なり。

【塚本虎二訳】
Matt.9:13 “わたしは憐れみを好み、犠牲を好まない”という(神の言葉の)意味を、行って、勉強したがよかろう。わたしは正しい人を招きに来たのではない、罪人を招きに来たのである。」

【前田護郎訳】
Matt.9:13 出かけて学びなさい、『わが欲するはあわれみでいけにえではない』とは何か、を。わたしが招きに来たのは義人をではなく罪びとをである」と。

【永井直治訳】
Matt.9:13 されば往きて、われ愍を欲して犠牲を〔欲せ〕ず、とは何〔の意〕なるかを學べ。そは我は義しき者を召すために來れるにあらず、されど罪人を悔い改に至らしめんためなればなり。

【詳訳聖書】
Matt.9:13 『私は、あわれみ[すなわち、苦しんでいる人々をいつでもすぐに助ける心]を欲して、犠牲<犠牲の動物>を欲しない』ということはなんの意味か、行って、学びなさい。私は義人<まっすぐで、神のみ前での正しい身分の人々>を[悔い改めに]召す<招く>ために来たのではなく、むしろ罪びと<罪を犯している人々<罪から自由でないすべての人々>を[召すために来たのである]」。

† 聖書引照 Matt.9:13 

Matt.9:13 なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』

[なんぢら往きて學べ]  マタ12:3,5,7; 19:4; 21:42; 22:31,32; マル12:26; ルカ10:26; ヨハ10:34
[「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ]  箴言21:3; ホセ6:6; ミカ6:6~8
[我は正しき者を招かんとにあらで]  マタ18:11~13; マル2:17; ルカ5:32; 15:3~10; 19:10; ロマ3:10~24; Ⅰコリ6:9~11; Ⅰテモ1:13~16
[罪人を招かんとて來れり』]  マタ3:2,8; 4:17; 11:20,21; 21:28~32; イザ55:6,7; ルカ15:7; 24:47; 使徒2:38; 3:19; 5:31; 11:18; 17:30,31; 20:21; 26:18~20; ロマ2:4~6; Ⅰテモ1:15; Ⅱテモ2:25,26; Ⅱペテ3:9

† ギリシャ語聖書 Matt.9:13 

Stephens 1550 Textus Receptus
πορευθεντες δε μαθετε τι εστιν ελεον θελω και ου θυσιαν ου γαρ ηλθον καλεσαι δικαιους αλλ αμαρτωλους εισ μετανοιαν

Scrivener 1894 Textus Receptus 
πορευθεντες δε μαθετε τι εστιν ελεον θελω και ου θυσιαν ου γαρ ηλθον καλεσαι δικαιους αλλ αμαρτωλους εισ μετανοιαν

Byzantine Majority
πορευθεντες δε μαθετε τι εστιν ελεον θελω και ου θυσιαν ου γαρ ηλθον καλεσαι δικαιους αλλα αμαρτωλους εισ μετανοιαν

Alexandrian
πορευθεντες δε μαθετε τι εστιν ελεοσ θελω και ου θυσιαν ου γαρ ηλθον καλεσαι δικαιους αλλα αμαρτωλους

Hort and Westcott 
πορευθεντες δε μαθετε τι εστιν ελεοσ θελω και ου θυσιαν ου γαρ ηλθον καλεσαι δικαιους αλλα αμαρτωλους

† ギリシャ語聖書 品詞色分け 

Matt.9:13

πορευθέντες δὲ μάθετε τί ἐστιν῎Ελεος θέλω καὶ οὐ θυσίαν οὐ γὰρ ἦλθον καλέσαι δικαίους ἀλλὰ ἁμαρτωλούς.

† ヘブライ語聖書 Matt.9:13 

Matt.9:13

וְאַתֶּם צְאוּ וְלִמְדוּ מַה מַּשְׁמַע ‘חֶסֶד חָפַצְתִּי וְלֹא־זֶבַח’, כִּי לֹא בָּאתִי לִקְרֹא לַצַּדִּיקִים כִּי אִם לַחוֹטְאִים

† ラテン語聖書 Matt.9:13 

Latin Vulgate
Matt.9:13

Euntes autem discite quid est: Misericordiam volo, et non sacrificium. Non enim veni vocare iustos, sed peccatores.
So then, go out and learn what this means: ‘I desire mercy and not sacrifice.’ For I have not come to call the just, but sinners.”

† 私訳(詳訳)Matt.9:13 

【私訳】 「では、行って、『わたしが求める<欲する、望む>のは憐れみ<恵み、慈悲、同情、いたわり>であって、いけにえ<供え物、犠牲、燔祭>ではない』とは何かを学びなさい<理解しなさい、聞いて学びなさい>。わたしが来たのは正しい人<義人、潔白な人、正義の人>ではなく、むしろ、罪人<汚れた人、異教徒、不信者、罪深い人>を招く<呼び出す、呼び寄せる、大声で呼ぶ>ためである」

† 新約聖書ギリシャ語語句研究 

Matt.9:13

πορευθέντες δὲ μάθετε τί ἐστιν, ῎Ελεος θέλω καὶ οὐ θυσίαν οὐ γὰρ ἦλθον καλέσαι δικαίους ἀλλὰ ἁμαρτωλούς.

【また】 δὲ  δέ  デ de {deh} (cc 接続詞・等位)

1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ

(G1161 δέ A primary particle (adversative or continuative); butand, etc.: – also, and, but, moreover, now [often unexpressed in English].  Internet Sacred Text Archive)

【行って】 πορευθέντες  πορεύομαιポレウオマイ  poreuomai {por-yoo‘-om-ahee}  (vraonm2p 動詞・命・1アオ・能欠・2複)

< πόρος 徒渉できる浅瀬、渡し

1)進ませる、歩かせる 2)渡す、越えていく、通り過ぎる 3)旅する、旅に出る、行く、歩く、進む、旅を続ける、~から去る 4)生きる、日を過ごす 5)去る、逝く、死ぬ

(G4198 πορεύομαι Middle voice from a derivative of the same as 3984 to traverse, that is, travel (literally or figuratively; especially to remove [figuratively die], live, etc.): – depart, go (away, forth, one’s way, up), (make a, take a) journey, walk.  Internet Sacred Text Archive)

マタ2:8; 17:27; 19:15; 24:1; 25:41;  マル16:12; ルカ1:39; 2:41; 4:42; 13:31; 22:39;  使徒8:39 etc.

【わたしが求めるのは】 θέλω  θέλω  てろー  thelō ethelō {thel‘-o, eth-el‘-o}  (vipa–1s 動詞・直・現・能・1単)

1)欲する、望む、願望する、したいと思う、主張する 2)~の気がある、気が向く、用意がある、~しようとする、心に持つ、(~する)つもりである、志す、決意する 3)好む 4)心に持つ 5)惑わす、呪縛する

(G2309 θέλω Either the first or the second form may be used. In certain tenses θελέω theleō thel-eh‘-o (and ἐθέλέω etheleō eth-el-eh‘-o ) are used, which are otherwise obsolete; apparently strengthened from the alternate form of 138 to determine (as an active voice option from subjective impulse; whereas 1014 properly denotes rather a passive voice acquiescence in objective considerations), that is, choose or prefer (literally or figuratively); by implication to wish, that is, be inclined to (sometimes adverbially gladly); impersonally for the future tense, to be about to; by Hebraism to delight in: – desire, be disposed (forward), intend, list, love, mean, please, have rather, (be) will (have, -ling, -ling [ly]).  Internet Sacred Text Archive)

マタ1:19; 2:18; 5:40; 9:23; 12:38; 13:28; 23:4;  マル3:13; 6:22;  ルカ1:62; 10:29;15:28;  ヨハ5:21; etc.

【憐れみ】 ῎Ελεος  ἔλεος  エれオス  eleos {el‘-eh-os} (n-an-s 名詞・対中単)

1)あわれみ 2)恵み 3)同情 4)慈悲 5)善意 6)いたわり

(G1656  ἔλεος Of uncertain affinity; compassion (human or divine, especially active): – (+ tender) mercy.  Internet Sacred Text Archive)

マタ9:13; 12:7; 23:23;  ルカ1:50,55,58,72,78; 10:37, etc.

【であって】 ἐστιν  εἰμί エイミ  eimi {i-mee‘} (vipa–3s 動詞・直・現・能・3単)

1)ある、いる、~である、~です、~だ 2)行われる、おこる、生ずる、現れる、来る 3)いる、滞在する、とどまる 4)存在する 5)生きている

(G1510 εἰμί  First person singular present indicative; a prolonged form of a primary and defective verb; I exist (used only when emphatic): – am, have been, X it is I, was. See also 1488 1498 1511 1527 2258 2071 2070 2075 2076 2771 2468 5600.  Internet Sacred Text Archive)

【しかし】 καὶ καί カイ kai {kahee} (cc 接続詞・等位)

1)~と、~も、そして 2)~さえ、でさえも 3)しかし 4)しかも、それは 5)それでは、それだのに 6)そうすれば、すなわち 7)のみならず、もまた

(G2532 καί Apparently a primary particle, having a copulative and sometimes also a cumulative force; and, also, even, so, then, too, etc.; often used in connection (or composition) with other particles or small words: – and, also, both, but, even, for, if, indeed, likewise, moreover, or, so, that, then, therefore, when, yea, yet.  Internet Sacred Text Archive)

【いけにえ】 θυσίαν\  θυσία  とゆシア thusia {thoo-see‘-ah} (n-af-s 名詞・対女単)

1)犠牲 2)いけにえ、いけにえの動物 3)供え物 4)祭禮 5)燔祭

(G2378 θυσία From 2380 sacrifice (the act or the victim, literally or figuratively): – sacrifice.  Internet Sacred Text Archive)

マタ9:13; 12:7;  マル12:33;  ルカ2:24; 13:1; etc.

【ではない】 οὐ οὐ  ウー ou {oo} (qn 不変化詞・否定)

1)否 2)~ない 3)~でない

(G3756 οὐ Also οὐκ ouk ook used before a vowel and οὐχ ouch ookh before an aspirate. A primary word; the absolutely negative (compare 3361 adverb; no or not: – + long, nay, neither, never, no (X man), none, [can-] not, + nothing, + special, un ([-worthy]), when, + without, + yet but. See also 3364 3372.  Internet Sacred Text Archive)

【また】 γὰρ  γάρ  ガル gar {gar} (cs 接続詞・従位)

1)なぜなら、というのは、その理由は、だから 2)すなわち、では、いったい、結局 4)確かに、もちろん、だって

(G1063 γάρ A primary particle; properly assigning a reason (used in argument, explanation or intensification; often with other particles): – and, as, because (that), but, even, for indeed, no doubt, seeing, then, therefore, verily, what, why, yet.  Internet Sacred Text Archive)

【わたしが来たのも】 ἦλθον  ἔρχομαι エルこマイ  erchomai {er‘-khom-ahee} (viaa–1s 動詞・直・2アオ・能・1単)

1)来る、やってくる、~しにやってくる 2)近づく、臨む、達する 3)着く、到着する 4)現れる 5)上がる、下る

(G2064 ἔρχομαι Middle voice of a primary verb (used only in the present and imperfect tenses, the others being supplied by a kindred [middle voice] word, ἐλεύθομαι eleuthomai or ἕλθω elthō ; which do not otherwise occur); to come or go (in a great variety of applications, literally and figuratively): – accompany, appear, bring, come enter, fall out, go, grow, X light, X next, pass, resort, be set.  Internet Sacred Text Archive)

【正しい人のため】 δικαίους  δίκαιος ディカイオス  dikaios {dik‘-ah-yos} (ap-am-p 形容詞・対男複)

< δίκη 正義

1)正しい、義しい、正義の 2)公平な、公正な、正当な、適正な、役に立つ 3)義人、神の目から見て正しい」 4)真の、本当の 5)罪のない、潔白な 6)神に嘉納される

「δίκαιος正しい」は元来 「δίκη 正義」を遵守する者の意味で、「δίκη 正義」はギリシャ神話のゼウスとテミスの娘で刑罰と復讐を司る正義の女神「Di,kh ディケー 正義」からきている。

「正しい人 δίκαιος ὢν ディカイオス オーン」は神の義しさに由来し、「δίκαιος ὢν」といえる存在は神だけである。

(G1342 δίκαιος From 1349 equitable (in character or act); by implication innocentholy (absolutely or relatively): – just, meet, right (-eous).  Internet Sacred Text Archive)

マタ1:19; 10:41; 13;43,29; 23:35; 27:19;  ルカ1:6,17; 23:47;  ヨハ5:30; 7:24; 17:25;  使徒3:14; 7:52; 22:14;  ロマ1:17; 2:13; 5:7,19; 7:12 ガラ3:11;  ヘブ10:38

【ではなく】 οὐ οὐ  ウー ou {oo} (qn 不変化詞・否定)

1)否 2)~ない 3)~でない

(G3756 οὐ Also οὐκ ouk ook used before a vowel and οὐχ ouch ookh before an aspirate. A primary word; the absolutely negative (compare 3361 adverb; no or not: – + long, nay, neither, never, no (X man), none, [can-] not, + nothing, + special, un ([-worthy]), when, + without, + yet but. See also 3364 3372.  Internet Sacred Text Archive)

【むしろ】 ἀλλὰ  ἀλλά アるら alla {al-lah‘} (ch 接続詞・完)

1)けれども、たしかに 2)しかし、それでも 3)かえって 4)むしろ、むしろ反対に、それのみか 5)以外に、そうではなくて、それどころか

(G235  ἀλλά Neuter plural of 243 properly other things, that is, (adverbially) contrariwise (in many relations): – and, but (even), howbeit, indeed, nay, nevertheless, no, notwithstanding, save, therefore, yea, yet.  Internet Sacred Text Archive)

【罪人を】 ἁμαρτωλούς  ἁμαρτωλός  ハマルトーろス  hamartōlos {ham-ar-to-los‘}  (ap-am-p 形容詞・対男複)

1)罪を犯した 2)罪のある 3)罪深い 4)罪人 5)汚れている人 6)誤った 7)異教徒、不信者

異邦人やユダヤ教の慣例を厳格には守らない人も「罪人」とよばれた

(G268  ἁμαρτωλός From 264 sinful, that is, a sinner: – sinful, sinner.  Internet Sacred Text Archive)

マタ9:11,11,13; 11:19;26:45;  マル2;15,16,17; 14:41;  ルカ5:30,32; 6:32,33,34; 7:34,39; 13:2; 15:1,2,7,10; 18:13; 19:7;  ヨハ9:24,26,31; etc.

【招くため】 καλέσαι  καλέω カれオー kaleō {kal-eh‘-o}  (vnaa 不定詞・1アオ・能)

1)呼ぶ、呼びかける、大声で呼ぶ 2)招く 3)呼び出す、呼び掛ける、呼び寄せる 4)~を~と呼ぶ、名づける 5)召喚する

(G2564 καλέω Akin to the base of 2753 to “call” (properly aloud, but used in a variety of applications, directly or otherwise): – bid, call (forth), (whose, whose sur-) name (was [called]).  Internet Sacred Text Archive)

マタ1:21; 2:15; 4:21; 9:13; 20:8; 22:3,8,9; 25:14;  マル1:20; 2:17; 3:31;  ルカ7:39; 19:13  ヨハ2:2; 10:3;  使徒4:18; 24:2;  ヘブ3:13; 11:8;  Ⅰペテ2:9 etc.

【と】 τί  τίς ティス tis {tis}  (aptnn-s 形容詞・疑主中単)

1)誰 2)何 3)どんな 4)なぜ 5)どちら 6)何故、どうして

(G5101 τίς Probably emphatic of 5100 an interrogitive pronoun, who, which or what (in direct or indirecquestions): – every man, how (much), + no (-ne, thing), what (manner, thing), where ([-by, -fore, -of, -unto, -with, -withal]), whether, which, who (-m, -se), why.  Internet Sacred Text Archive)

【学びなさい】 μάθετε  μανθάνω  マンたノー  manthanō {man-than‘-o} (vmaa–2p 動詞・命・2アオ・能・2複)

1)(知らなかったことを)知る 2)学ぶ、覚える、尋ねる 3)学問をする 4)(聞き知るために)尋ねる、聞いて学ぶ、理解する、分る 5)聞き及ぶ、知る、気づく、覚る

(G3129 μανθάνω Prolonged from a primary verb, another form of which, μαθέω matheō , is used as an alternate in certain tenses; to learn (in any way): – learn, understand.  Internet Sacred Text Archive)

マタ9:13; 11:29: 24:32;  マル13:28; etc.

† 英語訳聖書 Matt.9:13 

King James Version 
9:13 But go ye and learn what [that] meaneth, I will have mercy, and not sacrifice: for I am not come to call the righteous, but sinners to repentance.

New King James Version
9:13 “But go and learn what this means: ‘I desire mercy and not sacrifice.’ For I did not come to call the righteous, but sinners, to repentance.”

American Standard Version 
9:13 But go ye and learn what this meaneth, I desire mercy, and not sacrifice, for I came not to call the righteous, but sinners.

New International Version
9:13 But go and learn what this means: `I desire mercy, not sacrifice.’ For I have not come to call the righteous, but sinners.”

Bible in Basic English 
9:13 But go and take to heart the sense of these words, My desire is for mercy, not offerings: for I have come not to get the upright, but sinners.

Today’s English Version
9:13 Go and find out what is meant by the scripture that says: “It is kindness that I want, not animal sacrifices.’ I have not come to call respectable people, but outcasts.”

Darby’s English Translation 
9:13 But go and learn what that is — I will have mercy and not sacrifice; for I have not come to call righteous men but sinners.

Douay Rheims 
9:13 Go then and learn what this meaneth, I will have mercy and not sacrifice. For I am not come to call the just, but sinners.

Noah Webster Bible 
9:13 But go ye and learn what that meaneth, I will have mercy, and not sacrifice: for I am not come to call the righteous, but sinners to repentance.

Weymouth New Testament 
9:13 But go and learn what this means, ‘It is mercy that I desire, not sacrifice’; for I did not come to appeal to the righteous, but to sinners.’

World English Bible 
9:13 But you go and learn what this means: ‘I desire mercy, and not sacrifice,’ for I came not to call the righteous, but sinners to repentance.’

Young’s Literal Translation 
9:13 but having gone, learn ye what is, Kindness I will, and not sacrifice, for I did not come to call righteous men, but sinners, to reformation.’

Amplified Bible
9:13 Go and learn what this [Scripture] means: ‘I desire compassion [for those in distress], and not [animal] sacrifice,’ for I did not come to call [to repentance] the [self-proclaimed] righteous [who see no need to change], but sinners [those who recognize their sin and actively seek forgiveness].”

† 細き聲 聖書研究ノート 

 <なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』>

主イエスはパリサイ人に「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」ホセア6:6 から、正しい者を招くためではなく、罪人を招くために来られたことを明らかにされる。

 <なんぢら往きて學べ>

「何処に」とは言われていない。イエスについて学ぶということは、神の言葉を何ごとかの中に学ぶことである。

「学ぶ」は、神は何を求められるかを学ぶのである。

 <「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ>

「憐憫 ἔλεος  エれオス 」は「恵み、同情、慈悲、善意、いたわり」を意味し、神は人に祭壇にささげられる犠牲の供物を求め給わない。なによりも優って「恵み」を給うことを好まれる。

「犧牲 θυσία  とゆシア」は罪の告白とともに祭壇にささげられる「いけにえの動物、供え物」を指す。

「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」はホセア6:6にある。

 <我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり>

イエスが来られたのは「義人を招くためではなく、罪人を招くためである(罪人を招いて悔い改めさせるためである ルカ5:32)」 口語訳聖書

「正しき者 δίκαιος ディカイオス」は「神の目から見て正しいと認められる義人」の意味である。

「罪人 ἁμαρτωλός  ハマルトーろス」は「的をはずした矢のように誤って目的からそれた人のこと。

イエスは神の憐れみを必要としない義人よりも、存在の目的を見失って彷徨う「罪人」を招くために来られた。

† 心のデボーション   

「なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』 マタイ9:13 大正文語訳聖書

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」 新共同訳聖書

 「なんぢら往きて學べ」

イエスは弟子たちに「なんぢら往きて學べ」と言われた。「何処に」とは言われていない。

イエスについて学ぶということは、神の言葉を何事かに学ぶことである。常に目の前にある「何事か」に行けばよい。

† 心のデボーション   

「なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』 マタイ9:13 大正文語訳聖書

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」 新共同訳聖書

 「聞いて学ぶ」

イエスは弟子たちに「なんぢら往きて學べ」と言われた。「何処に」とは言われていない。

座していては、神の「θέλω  てろー 求め」を知ることはできない。「行って poreu,omai  ポレウオマイ 進み、歩き、旅し」、何かを越えて「学ぶ μανθάνω  マンたノー (知らなかったことを)知り、(聞き知るために)尋ね、聞いて学ぶ」ことをしなければならない。

私は学べるところならどこにでも「行く」。

† 心のデボーション   

「なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』 マタイ9:13 大正文語訳聖書

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」 新共同訳聖書

 「み言葉と現実」

「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」という神の言葉の意味は、経験との関連においてでしか本当には分からない。しかし、経験だけを見ては神の言葉は分からない。

神の言葉が一つの現実を作るとき、我々は言葉と現実を同時に見、それが一つであることを確認するのである。

† 心のデボーション   

「なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』 マタイ9:13 大正文語訳聖書

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」 新共同訳聖書

 「神の求め」

「求め θέλω  てろー」は「欲する、望む、願望する、したいと思う、主張する、~の気がある、気が向く、用意がある、~しようとする、心に持つ、(~する)つもりである、志す、決意する」こと。神が「θέλω  てろー 求め」るのは「憐れみ、恵み」を施すことであって、いけにえではない。

† 心のデボーション   

「なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』 マタイ9:13 大正文語訳聖書

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」 新共同訳聖書

 「悔い改めのために」

「罪人を招かんとて來れり」のルカ並行記事では、「罪人を招いて悔い改めさせるためである ルカ5:32)」となっている。

イエスは「罪人」を招くのが目的ではなく、「悔い改め」のために「罪人を招かれた」のである。

私が病人だからイエスが来られたのではなく、病を癒す医者としてイエスは病人の私にこられたのである。

† 心のデボーション   

「なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』 マタイ9:13 大正文語訳聖書

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」 新共同訳聖書

 「悔い改めた罪人」

「神は生まれながらの義人よりも悔い改めたる罪人を愛す」内村鑑三

イエスは「正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」に来られた。私は間違いなくイエスに愛されている。

† 細き聲 説教  

 「神を知ることを喜ぶ」

「なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』 マタイ9:13 大正文語訳聖書

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」 新共同訳聖書

神が喜ばれるのは祭壇に犠牲の供え物を捧げることではない。むしろ、神は「心砕かれ、へりくだった人」を喜ばれる。

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」 イザヤ57:15 新改訳聖書

心砕かれ、へりくだった人とは「神を知ることを喜ぶ人」のことである。

「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」 ホセア6:6 新共同訳聖書

神が受け入れられる「供え物」は「砕けた悔いた心」である。

「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません」詩篇51:17 口語訳聖書

(皆川誠)

† 細き聲 説教  

 「神を知ることを喜ぶ」

「なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』 マタイ9:13 大正文語訳聖書

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」 新共同訳聖書

自分が正しいと感じているとき、私は神に招かれていない。私が宗教的に正しい群れに所属し、そこで求められる生活を守ろうとしていると思うとき、しばしば、私はイエスから遠ざかっている。

私が人々から孤立し、自らの罪に打ちひしがれ、どうすることも出来ないでいるとき、私はイエスに招かれている。イエスは私に恵みを与え、私に神を知ることを喜ばせてくださる。

物事が順調にいっていると感じることが問題なのではない。それを理由に神を求めることを忘れることが問題なのである。

(皆川誠)

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