† 福音書対観 「幸い」 マタイ5:3~12
マタイ5:3~12ルカ6:20~26
マタイ5:3~12
Matt.5:9平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。口語訳聖書
† 日本語訳聖書 Matt.5:9
【漢訳聖書】
Matt.5:9 施和平者福矣、以其將稱爲神之子也。
【明治元訳】
Matt.5:9 和平(やはらぎ)を求(もとむ)る者(もの)は福(さいはひ)なり其(その)人(ひと)は神(かみ)の子(こ)と稱(となへ)らる可(べけ)ればなり
【大正文語訳】
Matt.5:9 幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。
【ラゲ訳】
Matt.5:9 福なるかな和睦せしむる人、彼等は神の子等と稱へらるべければなり。
【口語訳】
Matt.5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
【新改訳改訂3】
Matt.5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
【新共同訳】
Matt.5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
【バルバロ訳】
Matt.5:9 平和のために励む人は幸せである、彼らは神の子らと呼ばれるであろう。
【フランシスコ会訳】
Matt.5:9 平和をもたらす人は幸いである、その人は神の子と呼ばれるであろう。
【日本正教会訳】
Matt.5:9 和平(わへい)を行ふ者は福なり、彼等神の子と名づけられんとすればなり。
【塚本虎二訳】
Matt.5:9 ああ幸いだ、平和を作る人たち、神の子にしていただくのはその人たちだから。
【前田護郎訳】
Matt.5:9 さいわいなのは平和をつくる人々、彼らは神の子と呼ばれようから。
【永井直治訳】
Matt.5:9 福なる者は平和を爲す者〔なり〕。そは彼等は神の子と呼ばるべければなり。
【詳訳聖書】
Matt.5:9 平和をつくる者<維持する人>は祝福されている<うらやましいほどの幸福を享受している、霊的に栄えている[すなわち、外側の情谷はかかわりなく神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている]>。なぜなら、その人たちは神の子と呼ばれるからである。
† 聖書引照 Matt.5:9
Matt.5:9 幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。
[幸福なるかな、平和ならしむる者] Ⅰ歴代12:17; 詩篇34:12; 120:6; 122:6~8; 使徒7:26; ロマ12:18; 14:1~7,17~19; Ⅰコリ6:6; Ⅱコリ5:20; 13:11; ガラ5:22; エペ4:1; ピリ2:1~3; 4:2; コロ3:13; Ⅱテモ2:22~24; ヘブ12:14; ヤコ1:19,20; 3:16~18
[その人は神の子と稱へられん] マタ5:45,48; 詩篇82:6,7; ルカ6:35; 20:36; エペ5:1,2; ピリ2:15,16; Ⅰペテ1:14~16
† ギリシャ語聖書 Matt.5:9
Stephens 1550 Textus Receptus
μακαριοι οι ειρηνοποιοι οτι αυτοι υιοι θεου κληθησονται
Scrivener 1894 Textus Receptus
μακαριοι οι ειρηνοποιοι οτι αυτοι υιοι θεου κληθησονται
Byzantine Majority
μακαριοι οι ειρηνοποιοι οτι αυτοι υιοι θεου κληθησονται
Alexandrian
μακαριοι οι ειρηνοποιοι οτι αυτοι υιοι θεου κληθησονται
Hort and Westcott
μακαριοι οι ειρηνοποιοι οτι αυτοι υιοι θεου κληθησονται
† ギリシャ語聖書 品詞色分け
Matt.5:9
μακάριοι οἱ εἰρηνοποιοί, ὅτι αὐτοὶ υἱοὶ θεοῦ κληθήσονται.
† ヘブライ語聖書 Matt.5:9
Matt.5:9
אַשְׁרֵי רוֹדְפֵי שָׁלוֹם, כִּי בְּנֵי אֱלֹהִים יִקָּרֵאוּ
† ラテン語聖書 Matt.5:9
Latin Vulgate
Matt.5:9
Beati pacifici: quoniam filii Dei vocabuntur.
Blessed are the peacemakers, for they shall be called sons of God.
† 私訳(詳訳)Matt.5:9
【私訳】 「平和を来たらせる<創造する、生ぜしめる、うち立てる、実現する、創り出す、維持する>人々は幸い<羨ましい、祝福されている、幸福、至福>である、なぜなら、その人たちは神の子と呼ばれるからである」
† 新約聖書ギリシャ語語句研究
Matt.5:9
μακάριοι οἱ εἰρηνοποιοί, ὅτι αὐτοὶ υἱοὶ θεοῦ κληθήσονται.
【平和を実現する人々】 εἰρηνοποιοί εἰρηνοποιός エイレーノポイオス eirēnopoios {i-ray-nop-oy-os‘}
(ap-nm-p 形容詞・主男複)
< εἰρήνη 平和 + ποιέω 造る
1)平和を来らせる人 2)平和を創造する人 3)平和を生ぜしめる者 4)平和をうち立てる者
(G1518 εἰρηνοποιός From 1518 and 4160 pacificatory, that is, (subjectively) peaceable: – peacemaker. Internet Sacred Text Archive)
マタ5:9;
【幸いである】 Μακάριοι μακάριος マカリオス makarios {mak-ar‘-ee-os} (a–nm-p 形容詞・主男複)
< μακαρίζω 幸福と考える 幸福とみなす
1)祝福されるべき、羨むべき、幸福な、めぐまれた、幸いな、うらやむべき、至福の 2)ねえ君 3)幸多き者(内村鑑三)
ヘブル語の「幸い」は「אַשְׁרֵי ‘esher {eh’-sher} うまく行く、進む」である
「μακάριος マカリオス」は元来、不安、労働、死のない至福の状態を指す言葉。「μακαριτής マカリテース」は「祝福された者」で「最近死んだ者」を指す。聖書においては主に霊的な祝福に用いられる。
(G3107 μακάριος A prolonged form of the poetical μάκαρ makar (meaning the same); supremely blest; by extension fortunate, well off: – blessed, happy (X -ier). Internet Sacred Text Archive)
マタ5:2,3,4,5,6,7,8; 5:9,10,11; 11:6; 13:16; 16:17; 24:46; ルカ1:45; 6:20,21,22; 7:23; 10:23; 11:27,28;12:37,38,43; 14:14,15; 23:29; ヨハ13:17; 20:29 etc.
【なぜなら】 ὅτι ὅτι ホティ hoti {hot‘-ee} (ch 接続詞・完)
1)~ということ 2)なぜなら~だから、というのは~だから、すなわち 3)~であるから 4)というのは
(G3754 ὅτι Neuter of 3748 as conjugation; demonstrative that (sometimes redundant); causatively because: – as concerning that, as though, because (that), for (that), how (that), (in) that, though, why. Internet Sacred Text Archive)
【その人々は】 αὐτοὶ αὐτός アウトス autos {ow-tos‘} (npnm3p 代名詞・主男3)
1)彼、彼女、それ(三人称の代名詞) 2)自身で、自分から、自分として(強調用法) 3)同じ同一の 4)まさに、ちょうど
(G846 αὐτός From the particle αὖ au (perhaps akin to the base of 109 through the idea of a baffling wind; backward); the reflexive pronoun self, used (alone or in the compound of 1438 of the third person, and (with the proper personal pronoun) of the other persons: – her, it (-self), one, the other, (mine) own, said, ([self-], the) same, ([him-, my-, thy-]) self, [your-] selves, she, that, their (-s), them ([-selves]), there [-at, -by, -in, -into, -of, -on, -with], they, (these) things, this (man), those, together, very, which. Compare 848. Internet Sacred Text Archive)
【神の】 θεοῦ θεός てオス theos {theh‘-os} (n-gm-s 名詞・属男単)
1)神 2)神性 3)唯一の神
θεός の語源は次の二語に求められる
1 τεθειχέναι 万物を自らの基の上に置く
2 θέειν 駆ける
(G2316 θεός Of uncertain affinity; a deity, especially (with 3588 the supreme Divinity; figuratively a magistrate; by Hebraism very: – X exceeding, God, god [-ly, -ward]. Internet Sacred Text Archive)
【子と】 υἱοὶ υἱός フゅィオス huios {hwee-os’} (n-nm-p 名詞・主男)
1)息子、子、子供、男の子、兄 2)子孫、末裔 3)従者、弟子、仲間 4)客、深い関係にあるもの 5)(ロバの)子
「υἱός フィオス」はヘブライ語「בֵּן ベーン ben {bane} 息子」にあたり、「בֵּן ベーン ben {bane}」は「בָּנָה バーナー banah {baw-naw’} 建てる」に由来する。「家を建ち上げる、興す者」の意味である。
(G5207 υἱός Apparently a primary word; a “son” (sometimes of animals), used very widely of immediate, remote or figurative kinship: – child, foal, son. Internet Sacred Text Archive)
マタ1:1; 3:17; 16:16; 22:42,45; Ⅱコリ6:18; ガラ3:7
【呼ばれる】 κληθήσονται\ καλέω カれオー kaleō {kal-eh‘-o} (vifp–3p 動詞・直・未来・受・複)
1)呼ぶ、呼びかける、大声で呼ぶ 2)招く 3)呼び出す、呼び掛ける、呼び寄せる 4)~を~と呼ぶ、名づける 5)召喚する
(G2564 καλέω Akin to the base of 2753 to “call” (properly aloud, but used in a variety of applications, directly or otherwise): – bid, call (forth), (whose, whose sur-) name (was [called]). Internet Sacred Text Archive)
マタ1:21; 2:15; 4:21; 9:13; 20:8; 22:3,8,9; 25:14; マル1:20; 2:17; 3:31; ルカ7:39; 19:13 ヨハ2:2; 10:3; 使徒4:18; 24:2; ヘブ3:13; 11:8; Ⅰペテ2:9 etc.
† 英語訳聖書 Matt.5:9
King James Version
5:9 Blessed [are] the peacemakers: for they shall be called the children of God.
New King James Version
5:9 Blessed are the peacemakers,For they shall be called sons of God.
American Standard Version
5:9 Blessed are the peacemakers: for they shall be called sons of God.
New International Version
5:9 Blessed are the peacemakers, for they will be called sons of God.
Bible in Basic English
5:9 Happy are the peacemakers: for they will be named sons of God.
Today’s English Version
5:9 “Happy are those who work for peace; /God will call them his children!
Darby’s English Translation
5:9 Blessed the peace-makers, for they shall be called sons of God.
Douay Rheims
5:9 Blesses are the peacemakers: for they shall be called children of God.
Noah Webster Bible
5:9 Blessed are the peace-makers: for they shall be called children of God.
Weymouth New Testament
5:9 ‘Blessed are the peacemakers, for it is they who will be recognized as sons of God.
World English Bible
5:9 ‘Blessed are the peacemakers, for they shall be called sons of God.
Young’s Literal Translation
5:9 ‘Happy the peacemakers — because they shall be called Sons of God.
Amplified Bible
5:9 “Blessed [spiritually calm with life-joy in God’s favor] are the makers and maintainers of peace, for they will [express His character and] be called the sons of God.
† 細き聲 聖書研究ノート
<幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん>
マタイ5:3~12「九つの幸い」の第七は「平和ならしむる者」で、その人は「神の子と稱へられる」。
<幸福なるかな、平和ならしむる者>
「平和を実現する人々 εἰρηνοποιός エイレーノポイオス」は「εἰρήνη 平和 + ποιέω 造る」で平和のないところに、平和をもたらす人、平和を生ぜしめる人、平和を創造する人、平和を維持する人、平和を愛する人である。ここには、「平和」は自然に生じるものではなく、「つくり、もたらし、創造し、生ぜしめる」人の存在なしにはこないという確信がある。ラテン語 pacifici は「平和をもたらす者、調停者」の意味である。
「平和」は、平和のないところに創り出される平和のことである。
「闘争をにくむこと蛇蝎の如く、出来るならば平和を実現しようと絶えず力める人、分裂を見ては堪へがたさに心をののき、いかなる代償を払うても之を癒さなければやまない人、分裂や闘争の根本原因をつきとめて、身をもってこれを取除かうとする人、平和の殿堂のためには人柱に立つことをさへ厭わない人」 (藤井武 『信仰生活』)
<お取り仕切りの安らぎ>
山浦玄嗣訳「お取り仕切りの安らぎに誘う人は幸せだ」 山浦玄嗣氏は、「平和」を「神のお取り仕切りの安らぎ」という。
<その人は神の子と稱へられん>
復活の主の第一声は「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)であった。復活のイエスはまず弟子たちの心に「平和」を「創られ」た。
彼らは「神の子」ととなえられた。
「となえる καλέω カれオー」は「呼ばれる、呼び出される」の意味で、その人は「平和を創り出す」ために神によって呼び寄せられた人である。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん」 マタイ5:9 大正文語訳聖書
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」 新改訳聖書
「平和を来たらせる人」
原子爆弾は「平和」を実現する為という理由で広島と長崎に投下された。歴史は一つの平和を創り出すのも、破壊的行為によることを語る。
「平和を来たらせる人」は同時に「破壊する人」たる自己を認識せざるをえない。「平和を来たらせる人」によってもたらされる「平和」は、何かを破壊しなければ実現しない。人はそのことを自覚しつつ「平和」を創造しなければならない。この悲しみを知らずして「平和」を論ずることはできない。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん」 マタイ5:9 大正文語訳聖書
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」 新改訳聖書
「平和を実現する人々」
英語の聖書ではpeacemakerとなっている場合が多い。アメリカの銃器メーカーコルト社が1873年に発売した6連発銃コルト・シングルアクション・アーミー(Colt Single Action Army)は通称peacemakerと呼ばれた。拳銃によって実現する平和。なんという皮肉、皮肉を越えた言葉の暴力か。平和という言葉に対する冒涜である。
この拳銃が「西部開拓」という名のもとに多くの先住民を苦しめる武器であったことはいうまでもない。
「開拓者」にとっての平和は、被征服者にとっての殺戮だった。狩猟に使うライフルではなく、人に向けるために作られた拳銃にpeacemaker「平和を実現するもの」と名づける恐ろしさを感じとることのできない人はいないと私は信じている。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん」 マタイ5:9 大正文語訳聖書
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」 新改訳聖書
「積極的平和主義」
「平和ならしむる者」は、安倍政権下における「積極的平和主義」の形で、議論の的になっている。
政治学者ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)によって提唱された「積極的平和」(positive peace)は、安倍首相によって「proactive contribution to peace」と呼ばれている。日本国民はpositive とproactiveの違いを正確に理解する必要がある。それはまた、マタイ5:9との違いを正確に理解する必要があるということでもある。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん」 マタイ5:9 大正文語訳聖書
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」 新改訳聖書
「平和の調停者」
「平和ならしむる者」はラテン語 pacifici 「平和をもたらす者・調停者」である。
ラゲ訳 「和睦せしむる人」
永井直治訳 「平和を爲す者」
平和は自然に生じない。造り、生ぜしめる人の存在なくしてはもたらされない。
「ああ美しきかな、善き事を告ぐる者の足よ」 ロマ10:15 大正文語訳聖書
† 細き聲 説教
「平和ならしむる者」
「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん」 マタイ5:9 大正文語訳聖書
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」 新改訳聖書
いつの時代にも、平和は人類の祈りである。しかし、いつの時代にも平和は破壊者によって失われてきた。
英語 peaceの語源は、ラテン語の pax で、「pax」は、「武力による平和」という意味である。
日本語の「平和」は漢語「和平」を倒置して創作された漢語で、和することによって平ぐ、つまり戦争状態である両者が和睦して平静が訪れることを意味する。ここにも前提として戦争状態がある。
聖書の「平和」はギリシャ語 εἰρήνη エイレーネー にも「戦争のないこと、平穏、和、一致、和睦、和合、融和」の意味があるが、またこの語は「神との平和、霊的平安、心の平安」の意味に用いられ、「救い」をさす重要なことばである
私たちは「地の平和」を希求するととも、その基としての「神との平和、霊的平安、心の平安」を何よりも第一の祈りとする者である。
「幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん」 マタイ5:9 大正文語訳聖書
ここで「神の子」と称えられる者は「平和ならしむる者」と呼ばれている。
「平和ならしむる者 εἰρηνοποιός エイレーノポイオス」は「εἰρήνη 平和 + ποιέω 造る」で「平和のないところに平和をもたらす人、平和を生ぜしめる人、平和を創造する人、平和を維持する人、平和を愛する人」の意味である。
ここには「平和」は自然に生じるものではなく、「つくり、もたらし、創造し、生ぜしめる」人の存在なしにはこないという確信がある。ラテン語 pacifici は「平和をもたらす者、調停者」の意味である。
「平和」は、平和のないところに創り出される平和のことである。
私たちは自らの周囲に「平和」を見出すだけで満足しない。「平和」に対して、それを「ならしむる」という日々の信仰の営みとするのでなければいけない。
「神との平和」は「地の平和とならしむる」思いへと私たちを促して止まない。
(皆川誠)
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