マタイによる福音書5章8節

マタイによる福音書
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† 福音書対観 「幸い」 マタイ5:3~12

マタイ5:3~12ルカ6:20~26
マタイ5:3~12

Matt.5:8心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。口語訳聖書

† 日本語訳聖書 Matt.5:8

【漢訳聖書】
Matt.5:8 淸心者福矣、以其將得見神也。

【明治元訳】
Matt.5:8 心(こころ)の清(きよ)き者(もの)は福(さいはひ)なり其(その)人(ひと)は神(かみ)を見(みる)ことを得(う)べければ也(なり)

【大正文語訳】
Matt.5:8 幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。

【ラゲ訳】
Matt.5:8 福なるかな心の潔き人、彼等は神を見奉るべければなり。

【口語訳】
Matt.5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

【新改訳改訂3】
Matt.5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

【新共同訳】
Matt.5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

【バルバロ訳】
Matt.5:8 心の清い人は幸せである、彼らは神を見るであろう。

【フランシスコ会訳】
Matt.5:8 心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう。

【日本正教会訳】
Matt.5:8 心の淸(きよ)き者は福なり、彼等神を見んとすればなり。

【塚本虎二訳】
Matt.5:8 ああ幸いだ、“心の清い人たち、”(御国に入って)神にまみえるのはその人たちだから。

【前田護郎訳】
Matt.5:8 さいわいなのは心の清い人々、彼らは神を見ようから。

【永井直治訳】
Matt.5:8 福なる者は心に於て淨(きよ)き者〔なり〕。そは彼等は神の國を目(ま)のあたり見るべければなり。

【詳訳聖書】
Matt.5:8 心のきよい者は祝福されている<幸福である、うらやましいほど幸いである、霊的に栄えている[すなわち、外側の状態にはかかわりなく神の愛顧の経験から生じ、特に神の啓示によって与えられる幸福を得ている]>。なぜなら、その人たちは神を見るからである。

† 聖書引照 Matt.5:8

Matt.5:8 幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。

[幸福なるかな、心の清き者]  マタ23:25~28; Ⅰ歴代29:17~19; 詩篇15:2; 18:26; 24:4; 51:6,10; 73:1; 箴言22:11; ゼカ36:25~27; 使徒15:9; Ⅱコリ7:1; テト1:15; ヘブ9:14; 10:22; ヤコ3:17; 4:8; Ⅰペテ1:22
[その人は神を見ん]  創世32:30; ヨブ19:26,27; Ⅰコリ13:12; ヘブ12:14; Ⅰヨハ3:2,3

† ギリシャ語聖書 Matt. 5:8

Stephens 1550 Textus Receptus
μακαριοι οι καθαροι τη καρδια οτι αυτοι τον θεον οψονται

Scrivener 1894 Textus Receptus
μακαριοι οι καθαροι τη καρδια οτι αυτοι τον θεον οψονται

Byzantine Majority
μακαριοι οι καθαροι τη καρδια οτι αυτοι τον θεον οψονται

Alexandrian
μακαριοι οι καθαροι τη καρδια οτι αυτοι τον θεον οψονται

Hort and Westcott
μακαριοι οι καθαροι τη καρδια οτι αυτοι τον θεον οψονται

† ギリシャ語聖書 品詞色分け

Matt.5:8

μακάριοι οἱ καθαροὶ τῇ καρδίᾳὅτι αὐτοὶ τὸν θεὸν ὄψονται.

† ヘブライ語聖書 Matt.5:8

Matt.5:8

אַשְׁרֵי בָּרֵי לֵבָב, כִּי הֵם יִרְאוּ אֶת אֱלֹהִים

† ラテン語聖書 Matt.5:8

Latin Vulgate
Matt.5:8

Beati mundo corde: quoniam ipsi Deum videbunt.
Blessed are the pure in heart, for they shall see God.

† 私訳(詳訳)Matt.5:8

【私訳】 「心<理解力、感情、思考、精神、真情、魂、意志、活力>の清い<混じりけのない、本当の、汚れていない、純粋な、汚れていない>人々は幸い<羨ましい、祝福されている、幸福、至福>である、なぜなら、その人たちは神を見る<見て知る、経験する、味わう、理解する、悟る、分る>からである」

† 新約聖書ギリシャ語語句研究

Matt.5:8

μακάριοι οἱ καθαροὶ τῇ καρδίᾳ, ὅτι αὐτοὶ τὸν θεὸν ὄψονται.

【心の】 καρδίᾳ  καρδία  カルディア  kardia {kar-dee‘-ah} (n-df-s 名詞・与女単)

1)心、精神生活の中心、内的生命 2)理解力、感情、気持ち 3)精神、思考、真情、心 4)人格、性格、たましい、意思、活力 5)中心 6)心臓

(G2588 καρδία Prolonged from a primary κάρ kar (Latin cor , “heart”); the heart, that is,

(figuratively) the thoughts or feelings (mind); also (by analogy) the middle: – (+ broken-) heart (-ed).  Internet Sacred Text Archive)マタ5:8,28; 6:21; 9:4; 11:29; 12:34; 13:15,19; 15:8,13,19; 18:35;: 22:37; 24:48;  マル2:6,8; 3:5; 6:52;7:6,19,21; 8:17; 11:23; 13:30,33 etc.

【清い人々は】 καθαροὶ  καθαρός  カたロス katharos {kath-ar-os‘} (ap-nm-p 形容詞・主男複)

1)清い、潔白である、純粋な、きれいな、清らかな、清澄な、清浄な、清新正銘の、汚れていない 2)まじりけがない 3)本当の

(G2513 καθαρός Of uncertain affinity; clean (literally or figuratively): – clean, clear, pure. Internet Sacred Text Archive)

マタ5:8; 23:26; 27:59;  ルカ11:41;  ヨハ13:10,11; 15:3 etc.

【幸いである】 Μακάριοι  μακάριος  マカリオス  makarios {mak-ar‘-ee-os} (a–nm-p 形容詞・主男複)

< μακαρίζω 幸福と考える 幸福とみなす

1)祝福されるべき、羨むべき、幸福な、めぐまれた、幸いな、うらやむべき、至福の 2)ねえ君 3)幸多き者(内村鑑三)

ヘブル語の「幸い」は「אַשְׁרֵי  ‘esher {eh’-sher} うまく行く、進む」である

「μακάριος マカリオス」は元来、不安、労働、死のない至福の状態を指す言葉。「μακαριτής マカリテース」は「祝福された者」で「最近死んだ者」を指す。聖書においては主に霊的な祝福に用いられる。

(G3107 μακάριος A prolonged form of the poetical μάκαρ makar (meaning the same); supremely blest; by extension fortunatewell off: – blessed, happy (X -ier).  Internet Sacred Text Archive)

マタ5:2,3,4,5,6,7,8; 5:9,10,11; 11:6; 13:16; 16:17; 24:46;  ルカ1:45; 6:20,21,22; 7:23; 10:23; 11:27,28;12:37,38,43; 14:14,15; 23:29; ヨハ13:17; 20:29 etc.

【なぜなら】 ὅτι  ὅτι  ホティ hoti {hot‘-ee} (ch 接続詞・完)

1)~ということ 2)なぜなら~だから、というのは~だから、すなわち 3)~であるから 4)というのは

(G3754  ὅτι Neuter of 3748 as conjugation; demonstrative that (sometimes redundant); causatively because: – as concerning that, as though, because (that), for (that), how (that), (in) that, though, why.  Internet Sacred Text Archive)

【その人々は】 αὐτοὶ  αὐτός  アウトス autos {ow-tos‘}  (npnm3p 代名詞・主男3)

1)彼、彼女、それ(三人称の代名詞) 2)自身で、自分から、自分として(強調用法) 3)同じ同一の 4)まさに、ちょうど

(G846 αὐτός From the particle αὖ au (perhaps akin to the base of 109 through the idea of a baffling wind; backward); the reflexive pronoun self, used (alone or in the compound of 1438 of the third person, and (with the proper personal pronoun) of the other persons: – her, it (-self), one, the other, (mine) own, said, ([self-], the) same, ([him-, my-, thy-]) self, [your-] selves, she, that, their (-s), them ([-selves]), there [-at, -by, -in, -into, -of, -on, -with], they, (these) things, this (man), those, together, very, which. Compare 848.  Internet Sacred Text ArchiveSacred Text Archive)

【神を】 θεὸν  θεός てオス  theos {theh‘-os} (n-am-s 名詞・対男単)

1)神 2)神性 3)唯一の神

θεός の語源は次の二語に求められる

1 τεθειχέναι 万物を自らの基の上に置く
2  θέειν 駆ける

G2316 θεός Of uncertain affinity; a deity, especially (with 3588 the supreme Divinity; figuratively a magistrate; by Hebraism very: – X exceeding, God, god [-ly, -ward].  Internet Sacred Text Archive)

【見る】 ὄψονται  ὁράω ホラオー  horao {hor-ah’-o}  (vifd–3p 動詞・直・未来・能欠・3複)

1)見る、~の方を見る、目で見る 2)知る、味わう、経験する、見て知る、洞察する、理解する、悟る、認める 3)探す、考える、心に調べる、分かる、見つける

(G3708  ὁράω Properly to stare at (compare 3700 , that is, (by implication) to discern clearly (physically or mentally); by extension to attend to; by Hebraism to experience; passively to appear: – behold, perceive, see, take heed.  Internet Sacred Text Archive)

† 英語訳聖書 Matt.5:8

King James Version
5:8 Blessed [are] the pure in heart: for they shall see God.

New King James Version
5:8 Blessed are the pure in heart,For they shall see God.

American Standard Version
5:8 Blessed are the pure in heart: for they shall see God.

New International Version
5:8 Blessed are the pure in heart, for they will see God.

Bible in Basic English
5:8 Happy are the clean in heart: for they will see God.

Today’s English Version
5:8 “Happy are the pure in heart; /they will see God!

Darby’s English Translation
5:8 Blessed the pure in heart, for they shall see God.

Douay Rheims
5:8 Blessed are the clean of heart: for they shall see God.

Noah Webster Bible
5:8 Blessed are the pure in heart: for they shall see God.

Weymouth New Testament
5:8 ‘Blessed are the pure in heart, for they shall see God.

World English Bible
5:8 ‘Blessed are the pure in heart, for they shall see God.

Young’s Literal Translation
5:8 ‘Happy the clean in heart — because they shall see God.

Amplified Bible
5:8 “Blessed [anticipating God’s presence, spiritually mature] are the pure in heart [those with integrity, moral courage, and godly character], for they will see God.

† 細き聲 聖書研究ノート

<幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん>

マタイ5:3~12「九つの幸い」の第六は「心の清き者」である。その人は「神を見る」。

<幸福なるかな、心の清き者>

心の「清い人々 καθαρός  カたロス」は「潔白な、純粋な、汚れていない」で、心にまじりけがないこと。「心の清い人々 καθαρός  カたロス」の反対はヤコブの「心に定まりなき人」であろう。(ヤコブ1:8) 「心に定まりなき人」は「δίψυχος ディプシュコス」で「δίς 二度 + ψυχή 魂」すなわち「二心」である。心が「二つの魂」の間に揺れ動き、定まりなき人である。

マタイの「心の清い人々 καθαρός  カたロス」は「魂」が分裂しておらず、一を保ち、その歩むすべての道に定めある人である。

「心が透き徹って外から見とほせる人、思ひが単純であって、裏表のない人、二心をいだかず、虚偽(いつわり)を知らない人」 (藤井武 『信仰生活』)

「心の清い人々 καθαρός  カたロス」の反対はヤコブの「心に定まりなき人」であろう。(ヤコブ1:8) 「心に定まりなき人」は「δίψυχος ディプシュコス」で「δίς 二度 + ψυχή 魂」すなわち「二心」である。心が「二つの魂」の間に揺れ動き、定まりなき人である。

<その人は神を見ん>

イエスは、「その人たちは神を見る」と約束された。Ⅰコリント13:12「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(新共同訳聖書)

神を「見る ὁράω ホラオー」は 「目で見る、理解する」こと。人は神を目で見るのではなく、目に見るのである。目に見て信じ、信じて理解する。

しかし、「私は神を自分の目で見た」という信仰の人を信用することはできない。いかなる人も神を「見る」ことはできない。イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われた。(ヨハネ20:29) 「心の清い人」は見ずして信じ、信じて「見た」のである。

† 心のデボーション

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書

「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書

「流血の声」

「正義に歩み、正しいことを語り。虐げによる利益を退け、手を振って、賄賂を拒み。耳をふさいで、流血の謀を聞かず、目を閉じて、悪を見ようとしない者。このような人は、高い所に住む。その高い塔は堅固な岩。彼の糧は備えられ、水は絶えることがない」 イザヤ33:15~16 新共同訳聖書

「耳をふさいで、流血の謀を聞かず、目を閉じて、悪を見ようとしない」は、流血の謀に加担せず、悪に耳もかそうとはしない者のことである。

神を見るために、流血の声に耳を塞ぎ悪に目を閉じるとすれば、彼はまやかし者であると考えざるを得ない。彼は神を求める「心の清き者」というよりも、無関心なのである。

† 心のデボーション

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書

「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書

「心のきよい人」

心のきよい人「καθαρός  カたロス」とは、「心がすっかり掃除された人」のことである。必要なものと不要なものが吹き分けられた人のことである。

† 心のデボーション

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書

「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書

「心の清き人の罪」

「心の清き人の罪」というものがある。キリスト者はしばしば「清さ」に関してどこまでも高みを求めることに疑問をもたない。しかし、自分を超えた清さは罪をはらんでいる。気づくことを拒否することでその罪は深まる。

「神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境界を越えないようにし、地の基を定められたとき」(箴言8:29~30) 神は人の「清さ」にも「境界」をおき、それを「越えないように」定められている。

† 心のデボーション

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書

「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書

「清」

『孔子家語』入官には「水至清即無レ魚、人至察則無レ徒(水が清らかすぎれば魚が住まないし、人が潔白すぎれば仲間ができない)」とある。

あまりに清廉すぎる人は、人に親しまれず孤立してしまうという。

しかし、「清」という字は「水」+「青」で、澄んだ生きた水(静流、湧水)を意味する。とすれば、「生きた水」に魚は棲めないだろうか?

問題が「清らかな水」ではなく「清らかすぎる水」にあるとすれば、「過ぎた清らかさ」を「清い人」とみるのは間違いである。

マタイの「心の清い人々 καθαρός  カたロス」は「魂」が分裂しておらず、一を保ち、その歩むすべての道に定めある人である。

「心の清い人」は孤独であるが、孤立はしない。

† 心のデボーション

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書

「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書

「心に濁り」

「悲しき時は貧する時にあらず、隣人に捨てらるゝ時にあらず、孤独此世に存在する時にあらず、無学を以て人に嗤はるゝ時にあらず、悲しき時は我心の眼に神が見えずなる時なり」 内村鑑三

神が身を隠されたのではない、私の心に濁りが生じ、神が見えなくなったのである。

† 心のデボーション

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書

「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書

「神を知る者」

「神を識らんと欲せば新たに其存在の証拠を求むるを要せず、神を識らんと欲せは行を改めよ」(内村鑑三 「所感十年」34,10)

「心の清き者」は神を見る。「神を見る者」とは「神を知る者」であり、「神を知る者」は「行を改める者」のことである。

† 細き聲 説教

「心の清い人」

「幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん」 マタイ5:8 大正文語訳聖書

「心の清い人は幸いである、その人は神を見るであろう」 フランシスコ会訳聖書

「心の清い人々 καθαρός  カたロス」は「潔白な、純粋な、汚れていない」の意味で、心にまじりけがない人である。

この言葉には「潔白な、純粋な、汚れていない」以外にも、広い意味のあることを知る必要がある。

「心の清い人々 καθαρός  カたロス」の反対はヤコブの「心に定まりなき人」であろう。(ヤコブ1:8) 「心に定まりなき人」は「δίψυχος ディプシュコス」で「δίς 二度 + ψυχή 魂」すなわち「二心」である。心が「二つの魂」の間に揺れ動き、定まりなき人である。

マタイの「心の清い人々 καθαρός  カたロス」は「魂」が分裂しておらず、一を保ち、その歩むすべての道に定めある人である。

神はモーセと「顔と顔を合わせてモーセに語られた」(出エ33:11)、しかし、モーセは「神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」(出エ3:6 新改訳聖書)。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」(出エ33:20 口語訳聖書)と言われたからである。

「心の清い人」は「神を見る」。しかし、神の御姿を直接見ることの出来る「心の清い」人間は一人としていない。

パウロは「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(Ⅰコリント13:12 新共同訳聖書)と語っている。

神を「見る ὁράω ホラオー」は 「目で見る、理解する」こと。人は神を目で見るのではなく、目に見るのである。目に見て信じ、信じて理解する。

「私は神を自分の目で見た」という信仰の人を信用することはできない。いかなる人も神を「見る」ことはできない。イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われた。(ヨハネ20:29) 「心の清い人」は見ずして信じ、信じて「見た」のである。

(皆川誠)

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