マタイによる福音書5章7節

マタイによる福音書
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† 福音書対観 「幸い」 マタイ5:3~12

マタイ5:3~12ルカ6:20~26
マタイ5:3~12

Matt.5:7あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。口語訳聖書

† 日本語訳聖書 Matt.5:7

【漢訳聖書】
Matt.5:7 矜恤者福矣、以其將得見矜恤也。

【明治元訳】
Matt.5:7 矜恤(あはれみ)ある者(もの)は福(さいはひ)なり其(その)人(ひと)は矜恤(あはれみ)を得(う)べければ也(なり)

【大正文語訳】
Matt.5:7 幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。

【ラゲ訳】
Matt.5:7 福なるかな慈悲ある人、彼等は慈悲を得べければなり。

【口語訳】
Matt.5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

【新改訳改訂3】
Matt.5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

【新共同訳】
Matt.5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

【バルバロ訳】
Matt.5:7 あわれみのある人は幸せである、彼らもあわれみを受けるであろう。

【フランシスコ会訳】
Matt.5:7 あわれみ深い人は幸いである、その人はあわれみを受けるであろう。

【日本正教会訳】
Matt.5:7 矜恤(あはれみ)ある者は福(さいはひ)なり、彼等矜恤(あはれみ)を得んとすればなり。

【塚本虎二訳】
Matt.5:7 ああ幸いだ、憐れみ深い人たち、(かの日に)憐れんでいただくのはその人たちだから。

【前田護郎訳】
Matt.5:7 さいわいなのはあわれみの人々、彼らはあわれまれようから。

【永井直治訳】
Matt.5:7 福なる者は愍深き者〔なり〕。そは彼等は愍を見出だすべければなり。

【詳訳聖書】
Matt.5:7 あわれみ深い者は祝福されている<幸福である、うらやましい状態にある、霊的に栄えている[それは、外側の状態にはかかわりなく神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている]>。なぜなら、その人たちはあわれみを受けるからである。

† 聖書引照 Matt.5:7

Matt.5:7 幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。

[幸福なるかな、憐憫ある者] マタ6:14,15; 18:33~35; Ⅱサム22:26; ヨブ31:16~22; 詩篇18:25; 37:26; 41:1~4; 112:4,9; 箴言11:17; 14:21; 19:17; イザ57:1; 58:6~12; ダニ4:27; ミカ6:8; マル11:25; ルカ6:35; エペ4:32; 5:1; コロ3:12; ヤコ3:17
[その人は憐憫を得ん] ホセ1:6; 2:1,23; ロマ11:30; Ⅰコリ7:25; Ⅱコリ4:1; 1テモ1:13,16; Ⅱテモ1:16~18; ヘブ4:16; 6:10; ヤコ2:13; Ⅰペテ2:10

† ギリシャ語聖書 Matt.5:7

Stephens 1550 Textus Receptus
μακαριοι οι ελεημονες οτι αυτοι ελεηθησονται

Scrivener 1894 Textus Receptus
μακαριοι οι ελεημονες οτι αυτοι ελεηθησονται

Byzantine Majority
μακαριοι οι ελεημονες οτι αυτοι ελεηθησονται

Alexandrian
μακαριοι οι ελεημονες οτι αυτοι ελεηθησονται

Hort and Westcott
μακαριοι οι ελεημονες οτι αυτοι ελεηθησονται

† ギリシャ語聖書 品詞色分け

Matt.5:7

μακάριοι οἱ ἐλεήμονες, ὅτι αὐτοὶ ἐλεηθήσονται.

† ヘブライ語聖書 Matt.5:7

Matt.5:7

אַשְׁרֵי הָרַחֲמָנִים, כִּי הֵם יְרֻחָמוּ

† ラテン語聖書 Matt.5:7

Latin Vulgate
Matt.5:7

Beati misericordes: quoniam ipsi misericordiam consequentur.
Blessed are the merciful, for they shall obtain mercy.

† 私訳(詳訳)Matt.5:7

【私訳】 「憐れみ深い<恵みに富む、慈悲深い、同情深い、人を助ける、人に施す>人々は幸い<羨ましい、祝福されている、幸福、至福>である、なぜなら、その人たちは憐れみ<恵み、慈悲、同情、ほどこし、助け>を受けるからである」

† 新約聖書ギリシャ語語句研究

Matt.5:7

μακάριοι οἱ ἐλεήμονες, ὅτι αὐτοὶ ἐλεηθήσονται.

【憐れみ深い人々は】 ἐλεήμονες  ἐλεήμων  エれエーモーン  eleēmōn {el-eh-ay‘-mone} (ap-nm-p 形容詞・主男複)

1)恵みに富む 2)憐れみ深い、あわれむ 3)同情する、助ける 4)ほどこす

ヘブル2:17 「イエスは神の御前において憐れみ深い」

ヘブル語の「憐れみ」は「chesed ケセド」で「他人の心の中にまで入って、その人の立場でものを見、考え、感じること、一緒に経験する」ことである(バークレー)

(G1655  ἐλεήμων From 1653 compassionate (actively): – merciful.  Internet Sacred Text Archive)

マタ5:7;  ヘブ2:7

【幸いである】 μακάριοι  μακάριος  マカリオス  makarios {mak-ar‘-ee-os} (a–nm-p 形容詞・主男複)

< μακαρίζω 幸福と考える 幸福とみなす

1)祝福されるべき、羨むべき、幸福な、めぐまれた、幸いな、うらやむべき、至福の 2)ねえ君 3)幸多き者(内村鑑三)

ヘブル語の「幸い」は「אַשְׁרֵי  ‘esher {eh’-sher} うまく行く、進む」である

「μακάριος マカリオス」は元来、不安、労働、死のない至福の状態を指す言葉。「μακαριτής マカリテース」は「祝福された者」で「最近死んだ者」を指す。聖書においては主に霊的な祝福に用いられる。

(G1343 δικαιοσύνη From 1342 equity (of character or act); specifically (Christian) justification: -righteousness.  Internet Sacred Text Archive)

マタ5:2,3,4,5,6,7,8; 5:9,10,11; 11:6; 13:16; 16:17; 24:46;  ルカ1:45; 6:20,21,22; 7:23; 10:23; 11:27,28;12:37,38,43; 14:14,15; 23:29; ヨハ13:17; 20:29 etc.

【なぜなら】 ὅτι  ὅτι  ホティ hoti {hot‘-ee} (cs 接続詞・従)

1)~ということ 2)なぜなら~だから、というのは~だから、すなわち 3)~であるから 4)というのは

G3754  ὅτι Neuter of 3748 as conjugation; demonstrative that (sometimes redundant); causatively because: – as concerning that, as though, because (that), for (that), how (that), (in) that, though, why.  Internet Sacred Text Archive)

【その人々は】 αὐτοὶ  αὐτός  アウトス autos {ow-tos‘}  (npnm3p 代名詞・主男3)

1)彼、彼女、それ(三人称の代名詞) 2)自身で、自分から、自分として(強調用法) 3)同じ同一の 4)まさに、ちょうど

(G846 αὐτός From the particle αὖ au (perhaps akin to the base of 109 through the idea of a baffling wind; backward); the reflexive pronoun self, used (alone or in the compound of 1438 of the third person, and (with the proper personal pronoun) of the other persons: – her, it (-self), one, the other, (mine) own, said, ([self-], the) same, ([him-, my-, thy-]) self, [your-] selves, she, that, their (-s), them ([-selves]), there [-at, -by, -in, -into, -of, -on, -with], they, (these) things, this (man), those, together, very, which. Compare 848.  Internet Sacred Text Archive)

【憐れみを受ける】 ἐλεηθήσονται  ἐλεέω  エれエオー  eleeō {el-eh-eh‘-o} (vifp–3p 動詞・直・未来・受・3複)

1)憐れむ、憐れみを示す 2)同情する 3)助ける 4)ほどこす

(G1653  ἐλεέω From 1656 to compassionate (by word or deed, specifically by divine grace): – have compassion (pity on), have (obtain, receive, shew) mercy (on).  Internet Sacred Text Archive)

マタ5:6;  ロマ11:30,31;  Ⅱコリ4:1;  Ⅰテモ1:13,16;  Ⅰペテ2:10;

† 英語訳聖書 Matt.5:7

King James Version
5:7 Blessed [are] the merciful: for they shall obtain mercy.

New King James Version
5:7 Blessed are the merciful,For they shall obtain mercy.

American Standard Version
5:7 Blessed are the merciful: for they shall obtain mercy.

New International Version
5:7 Blessed are the merciful, for they will be shown mercy.

Bible in Basic English
5:7 Happy are those who have mercy: for they will be given mercy.

Today’s English Version
5:7 “Happy are those who are merciful to others; /God will be merciful to them!

Darby’s English Translation
5:7 Blessed the merciful, for they shall find mercy.

Douay Rheims
5:7 Blessed are the merciful: for they shall obtain mercy.

Noah Webster Bible
5:7 Blessed are the merciful: for they shall obtain mercy.

Weymouth New Testament
5:7 ‘Blessed are the compassionate, for they shall receive compassion.

World English Bible
5:7 ‘Blessed are the merciful, for they shall obtain mercy.

Young’s Literal Translation
5:7 ‘Happy the kind — because they shall find kindness.

Amplified Bible
5:7 “Blessed [content, sheltered by God’s promises] are the merciful, for they will receive mercy.

† 細き聲 聖書研究ノート

<幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん>

マタイ5:3~12「九つの幸い」の第五は「憐憫ある者」である。その人は「憐憫を得る」。

<幸福なるかな、憐憫ある者>

「あわれみ深い人」のラテン語 misericordes は「慈悲深い」の意味。英語 merciful である。

ラテン語 misericorde には、修道院の「特免、特免室」の意味に用いられた。中世騎士のとどめの短剣もmisericordeと呼ばれた。「情けの剣」である。

「憐れみ深い人々 ἐλεήμων  エれエーモーン」は「恵みに富む、憐れみ深い、慈悲深い」人。パウロは「慈善(あわれみう)を行う人は、快く(快き心をもて)行いなさい」(ロマ12:8)とすすめる。(永井訳 「あわれみをなす者は、快き心をもって(せよ)」)

「慈善」とは「快き心をもって」他人の心の中に入り、その人の立場でものを見、考え、感じること、一緒に経験する」ことである。

「人を想ひやるこころ、可哀想だ気の毒だといふこころの先立つ人、責めるよりもまづ赦さうとする人、自分を忘れ、自分を棄て、自分を犠牲にして、人を立てようとする人」 (藤井武 『信仰生活』)

<その人は憐憫を得ん>

人に憐れみ深くありたいが、憐れみを受けたくはないというのは謙遜ではない。

人に憐れみ深くあることが祝福であるように、憐れみを受けることも祝福に生きる人の姿である。

「あわれみも、また訓練を要す。われらは人をあわれんで、みずからあわれまれるときに、あわれみをあわれみとして受くるの準備をすべきなり」 (内村鑑三『聖書注解全集8』)

† 心のデボーション

「幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん」 マタイ5:7 大正文語訳聖書

「あわれみ深い人は幸いである、その人はあわれみを受けるであろう」 フランシスコ会訳聖書

「憐れみ深い人々」

「憐れみ深い人々 ἐλεήμων  エれエーモーン」は憐れみを与えるばかりでなく、「憐れみを受ける ἐλεέω  エれエオー」ことのできる人である。成熟した人はその両方に魂が開かれている。憐れみは与えるが、受けたくないというのは傲慢である。

† 心のデボーション

「幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん」 マタイ5:7 大正文語訳聖書

「あわれみ深い人は幸いである、その人はあわれみを受けるであろう」 フランシスコ会訳聖書

「快き助け」

「憐れみ深い人々 ἐλεήμων  エれエーモーン」は憐れみを与えるばかりでなく、「受ける ἐλεέω  エれエオー」ことのできる人々である。成熟した人はその両方に魂が開かれている。憐れみは与えるが、受けたくないというのは傲慢である。

快き心をもて助ける人は、快き助けを受ける。「快き助け」を拒むな。

† 心のデボーション

「幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん」 マタイ5:7 大正文語訳聖書

「あわれみ深い人は幸いである、その人はあわれみを受けるであろう」 フランシスコ会訳聖書

「矜恤(あはれみ)ある者は福(さいはひ)なり、彼等矜恤(あはれみ)を得んとすればなり」 日本正教会訳聖書

「矜恤 きょうじゅつ」

明治15年、日本正教会の司祭に選出されたティト小松韜蔵司祭が初めて色丹島へ巡回したとき、その辛労に対して「府下各教会の信徒から7月末までに、矜恤品・矜恤金が続々と寄せられた」「矜恤金で砂糖その他の物品を購入して色丹へ直ちに送った」と記録されている。(『日本正教会伝道誌』)

「矜恤 きょうじゅつ」の「矜」「恤」はともに「あわれみ、めぐむ」こと。戦時中、戦地にいる兵士に送る金銭や品物を「恤兵金 じゅっぺいきん」と言った。

日本正教会訳では「矜恤」と書いて「あはれみ」と読む。各地の教会からの献金は「矜恤金 (きょうじきん)」と呼ばれている。

† 心のデボーション

「わが心わが衷にかはりて我の愛憐(あはれみ)ことごとく燃おこれり」 ホセア11:8 明治元訳聖書

「わたしは激しく心を動かされ、憐みに胸を焼かれる」 新共同訳聖書

「憐憫ある人」

イスラエルに向けて神の心は「内で沸き返り、あわれみでことごとく燃おこった」。

「憐れみ」は冷たい感情ではない。相手への燃え続く炎のような「熱い」感情である。「憐憫ある人」の心は熱い。

「われ汝の行爲を知る、なんぢは冷かにもあらず熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ。かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温(ぬる)きが故に、我なんぢを我が口より吐き出さん」 黙示3:15~16) 大正文語訳聖書

熱くもなく冷ややかでもなく、ただ「微温(ぬる)き」教会を、神は口から吐き出される。

† 心のデボーション

「幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん」 マタイ5:7 大正文語訳聖書

「あわれみ深い人は幸いである、その人はあわれみを受けるであろう」 フランシスコ会訳聖書

「矜恤(あはれみ)ある者は福(さいはひ)なり、彼等矜恤(あはれみ)を得んとすればなり」 日本正教会訳聖書

「憐憫 あわれみ」

「憐憫 あわれみ」を意味する英語 merciful 「慈悲深い、好都合の」 の語根  merc はラテン語 merere 「利益を得る、買う」である。ここから「mercon 交易する」「         commercial コマーシャル」などの言葉が派生した。

「交易」は本来「慈悲深い」行為であった。しかし、現代は「好都合」の面だけが強調されるようになったようだ。「交易」に「慈悲深さ」を求める時代は終わったのだろうか。

† 細き聲 説教

「憐れみある者」

「幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん」 マタイ5:7 大正文語訳聖書

「あわれみ深い人は幸いである、その人はあわれみを受けるであろう」 フランシスコ会訳聖書

ある国の「繁栄」は周辺のいくつかの貧しい国からもたらされたものである。

「繁栄の国」の民がその食卓にあふれるほどに並べ、食べた分だけ、周辺の貧しい国には食べることのできない貧困が生まれる。

「繁栄の国の民」が日々口に運ぶ食料は、貧しい国の食卓から直接運ばれたものである。

なるほど、「繁栄の国」の民は、「正当な対価」を払っていると言う。だが、貧しい国では「対価」が平等に配られることは決してない。「繁栄の国」の民の支払う「対価」の大部分は「繁栄の国」の支配者が受け取るのである。

こうして、繁栄が続く限り、地上から貧困が消えることは決してない。

イエスは「幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん」(マタイ5:7 大正文語訳聖書) と教えられた。

「憐れみ深い人々 ἐλεήμων  エれエーモーン」のヘブル語は「chesed ケセド」で「他人の心の中にまで入って、その人の立場でものを見、考え、感じること、一緒に経験する」(バークレー)の意味である。

「憐れみある人」は「世界を自分に経験する人」である。豊かな食卓につくときに、貧しい国の人々の食卓を想うことのできる人である。貧しい国の人々をその立場にたって思考し、経験できる人である。たとえ豊かさの中にいても、貧しさとその価値を見失わない人である。世界と共に生きるために限りない欲望を制限することのできる人である。

地が続く限り、富と貧困の問題は解決することはないかもしれない。だが、人から「憐れみ」の思いがある限り、富と貧困は、どちらかに属するかという問題ではなく、「私」の問題として私を導き、私を育てるのである。

(皆川誠)

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