† 福音書対観 「幸い」 マタイ5:3~12
マタイ5:3~12ルカ6:20~26
マタイ5:3~12
Matt.5:6義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。(あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。ルカ6:21)口語訳聖書
† 日本語訳聖書 Matt.5:6
【漢訳聖書】
Matt.5:6 飢渴慕者福矣、以其將得飽也。
【明治元訳】
Matt.5:6 餓(うゑ)渇(かわく)ごとく義(ぎ)を慕(したふ)者(もの)は福(さいはひ)なり其(その)人(ひと)は飽(あく)ことを得(う)べければ也(なり)
【大正文語訳】
Matt.5:6 幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。
【ラゲ訳】
Matt.5:6 福なるかな義に飢渇く人、彼等は飽かさるべければなり。
【口語訳】
Matt.5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
【新改訳改訂3】
Matt.5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
【新共同訳】
Matt.5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
【バルバロ訳】
Matt.5:6 正義に飢え渇く人は幸せである、彼らは飽かされるであろう。
【フランシスコ会訳】
Matt.5:6 義に飢えかわく人は幸いである、その人は満たされるであろう。
【日本正教会訳】
Matt.5:6 義に飢ゑ渇く者は福(さいはひ)なり、彼等飽くを得んとすればなり。
【塚本虎二訳】
Matt.5:6 ああ幸いだ、(神の)義に飢え渇いている人たち、(かの日に)満足させられるのはその人たちだから。
【前田護郎訳】
Matt.5:6 さいわいなのは義に飢え渇く人々、彼らは満ち足らわされようから。
【永井直治訳】
Matt.5:6 福なる者は義に飢ゑ且つ渇く者〔なり〕。そは彼等は饜(あ)かさるべければなり。
【詳訳聖書】
Matt.5:6 義<まっすぐであることと、神のみ前での正しい身分>に飢えかわく者は祝福されている<幸いである<幸福である<霊的に栄えている>[すなわち、新生した神の子たちが神の愛顧と救いを享受している状態]>。なぜなら、その人たちは十分に満足させられるからである。
† 聖書引照 Matt.5:6
Matt.5:6 幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。
[幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者] 詩篇42:1,2; 63:1,2; 84:2; 107:9; アモ8:11~13; ルカ1:53; 6:21,25; ヨハ6:27
[その人は飽くことを得ん] 詩篇4:6,7; 17:15; 63:5; 65:4; 145:19; 雅歌5:1; イザ25:6; 41:17; 44:3; 49:9,10; 55:1~3; 65:13; 66:11; ヨハ4:14; 6:48~58; 7:37; 黙示7:16
† ギリシャ語聖書 Matt.5:6
Stephens 1550 Textus Receptus
μακαριοι οι πεινωντες και διψωντες την δικαιοσυνην οτι αυτοι χορτασθησονται
Scrivener 1894 Textus Receptus
μακαριοι οι πεινωντες και διψωντες την δικαιοσυνην οτι αυτοι χορτασθησονται
Byzantine Majority
μακαριοι οι πεινωντες και διψωντες την δικαιοσυνην οτι αυτοι χορτασθησονται
Alexandrian
μακαριοι οι πεινωντες και διψωντες την δικαιοσυνην οτι αυτοι χορτασθησονται
Hort and Westcott
μακαριοι οι πεινωντες και διψωντες την δικαιοσυνην οτι αυτοι χορτασθησονται
† ギリシャ語聖書 品詞色分け
Matt.5:6
μακάριοι οἱ πεινῶντες καὶ διψῶντες τὴν δικαιοσύνην, ὅτι αὐτοὶ χορτασθήσονται.
† ヘブライ語聖書 Matt.5:6
Matt.5:6
אַשְׁרֵי הָרְעֵבִים וְהַצְּמֵאִים לְצֶדֶק, כִּי הֵם יִשְׂבָּעוּ
† ラテン語聖書 Matt.5:6
Latin Vulgate
Matt.5:6
Beati, qui esuriunt, et sitiunt iustitiam: quoniam ipsi saturabuntur.
Blessed are those who hunger and thirst for justice, for they shall be satisfied.
† 私訳(詳訳)Matt.5:6
【私訳】 「義<正義、公正、正しい、神の目から見ての正しさ、信仰の義>に飢え<切望し、渇望し、熱望する、欲求する、欠けている、足りない>、そして、渇く<渇望、捜し求める、欠けている、渇き求める>人々は幸い<羨ましい、祝福されている、幸福、至福>である、なぜなら、その人たちは充分に満たされる<満腹する、十分に食べさせ満腹させる、飽食する、腹いっぱい食べさせる>からである」
† 新約聖書ギリシャ語語句研究
Matt.5:6
μακάριοι οἱ πεινῶντες καὶ διψῶντες τὴν δικαιοσύνην, ὅτι αὐτοὶ χορτασθήσονται.
【義に】 δικαιοσύνην δικαιοσύνη ディカイオスゆネー dikaiosunē {dik-ah-yos-oo‘-nay} (n-af-s 名詞・対女単)
1)義、正義、公正、正直、正しい 2)神の目から見て正しい、神に嘉納される義、神の義と合致してること、信仰の義 3)神のことばを守る
「δίκαιος 正しい」は元来 「δίκη 正義」を遵守する者の意味で、「δίκη 正義」はギリシャ神話のゼウスとテミスの娘で刑罰と復讐を司る正義の女神「Δίκη ディケー 正義」からきている。
(G1343 δικαιοσύνη From 1342 equity (of character or act); specifically (Christian) justification: -righteousness. Internet Sacred Text Archive)
マタ3:15; 5:6,10,20; 6:1,33; 21:32; ルカ1:75; ヨハ10:8,10; 使徒10:35; 13:10; 17:31; ロマ1:17;3:5,21,22,25,26; 4:3,5,6,9,11,13,22; 5:17,21; 6:13,16,18,19,20; 8:10; 9:30,31; 10:3,5,6; 14:17 etc.
【飢え】 πεινῶντες πεινάω ペイナオー peinaō {pi-nah‘-o} (vppanm-p 分詞・現能主男複)
< πεῖνα 飢え
1)飢える、食を求める、飢える 2)飢え求める、切望する、渇望する、熱望する、欲求する 3)空腹である 4)欠けている、足りない
(G3983 πεινάω From the same as 3993 (through the idea of pinching toil; “pine”); to famish (absolutely or comparatively); figuratively to crave: – be an hungered. Internet Sacred Text Archive)
マタ4:2; 5:6; 12:1,3; 21:18; 25:35,37,42,44; マル2:25; 11:12; ルカ1:53; 4:2; 6:3;,21,25; ヨハ6:35 etc.
【そして】 καὶ καί カイ kai {kahee} (cc 接続詞・等位)
1)~と、~も、そして 2)~さえ、でさえも 3)しかし 4)しかも、それは 5)それでは、それだのに 6)そうすれば、すなわち 7)のみならず、もまた
(G2532 καί Apparently a primary particle, having a copulative and sometimes also a cumulative force; and, also, even, so, then, too, etc.; often used in connection (or composition) with other particles or small words: – and, also, both, but, even, for, if, indeed, likewise, moreover, or, so, that, then, therefore, when, yea, yet. Internet Sacred Text Archive)
【渇く人々は】 διψῶντες διψάω ディプサオー dipsaō {dip-sah‘-o} (vppanm-p 分詞・現能主男複)
1)渇く、渇き求める 2)渇望する、捜し求める 3)狩り出す
(G1372 διψάω From a variation of 1373 to thirst for (literally or figuratively): – (be, be a-) thirst (-y). Internet Sacred Text Archive)
マタ5:6; 25:35,37,42,44; ヨハ4:13,14,15; 6:35; 7:37; 19:38; ロマ12:20; Ⅰコリ4:11; 黙示7:16; 21:6: 22:17
【幸いである】 μακάριοι μακάριος マカリオス makarios {mak-ar‘-ee-os} (a–nm-p 形容詞・主男複)
< μακαρίζω 幸福と考える 幸福とみなす
1)祝福されるべき、羨むべき、幸福な、めぐまれた、幸いな、うらやむべき、至福の 2)ねえ君 3)幸多き者(内村鑑三)
ヘブル語の「幸い」は「אַשְׁרֵי ‘esher {eh’-sher} うまく行く、進む」である
「μακάριος マカリオス」は元来、不安、労働、死のない至福の状態を指す言葉。「μακαριτής マカリテース」は「祝福された者」で「最近死んだ者」を指す。聖書においては主に霊的な祝福に用いられる。
(G3107 μακάριος A prolonged form of the poetical μάκαρ makar (meaning the same); supremely blest; by extension fortunate, well off: – blessed, happy (X -ier). Internet Sacred Text Archive)
マタ5:2,3,4,5,6,7,8; 5:9,10,11; 11:6; 13:16; 16:17; 24:46; ルカ1:45; 6:20,21,22; 7:23; 10:23; 11:27,28;12:37,38,43; 14:14,15; 23:29; ヨハ13:17; 20:29 etc.
【なぜなら】 ὅτι ὅτι ホティ hoti {hot‘-ee} (cs 接続詞・従)
1)~ということ 2)なぜなら~だから、というのは~だから、すなわち 3)~であるから 4)というのは
(G3754 ὅτι Neuter of 3748 as conjugation; demonstrative that (sometimes redundant);causatively because: – as concerning that, as though, because (that), for (that), how (that), (in)that, though, why. Internet Sacred Text Archive)
【その人々は】 αὐτοὶ αὐτός アウトス autos {ow-tos‘} (npnm3p 代名詞・主男3)
1)彼、彼女、それ(三人称の代名詞) 2)自身で、自分から、自分として(強調用法) 3)同じ同一の 4)まさに、ちょうど
(G846 αὐτός From the particle αὖ au (perhaps akin to the base of 109 through the idea of abaffling wind; backward); the reflexive pronoun self, used (alone or in the compound of 1438 of the third person, and (with the proper personal pronoun) of the other persons: – her, it (-self), one, the other, (mine) own, said, ([self-], the) same, ([him-, my-, thy-]) self, [your-] selves, she, that, their (-s), them ([-selves]), there [-at, -by, -in, -into, -of, -on, -with], they, (these) things, this (man), those, together, very, which. Compare 848. Internet Sacred Text Archive)
【満たされる】 χορτασθήσονται Χορτάζω こルタゾー chortazō {khor-tad‘-zo} (vifp–3p 動詞・直・未来・受・3複)
< χόρτος 草、餌場、食物、囲い
1)飼料を与える、食べさせる 2)十分に食べさせ満腹させる、飽食する、腹いっぱい食べさせる
(G5526 Χορτάζω From 5528 to fodder, that is, (genitive case) to gorge (supply food in abundance): – feed, fill, satisfy. Internet Sacred Text Archive)
マタ5:6; 14:20; 15:33,37; マル6:42; 7:27; 8:4,8; ルカ6:21; 9:17; 16:21; ヨハ6:26; ピリ4:12; ヤコ2:12; 黙示19:21
† 英語訳聖書 Matt.5:6
King James Version
5:6 Blessed [are] they which do hunger and thirst after righteousness: for they shall be filled.
New King James Version
5:6 Blessed are those who hunger and thirst for righteousness,For they shall be filled.
American Standard Version
5:6 Blessed are they that hunger and thirst after righteousness: for they shall be filled.
New International Version
5:6 Blessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they will be filled.
Bible in Basic English
5:6 Happy are those whose heart’s desire is for righteousness: for they will have their desire.
Today’s English Version
“Happy are those whose greatest desire is to do what God requires; /God will satisfy them fully!
Darby’s English Translation
5:6 Blessed they who hunger and thirst after righteousness, for they shall be filled.
Douay Rheims
5:6 Blessed are they that hunger and thirst after justice: for they shall have their fill.
Noah Webster Bible
5:6 Blessed are they who hunger and thirst for righteousness: for they shall be filled.
Weymouth New Testament
5:6 ‘Blessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they shall be completely satisfied.
World English Bible
5:6 ‘Blessed are those who hunger and thirst after righteousness, for they shall be filled.
Young’s Literal Translation
5:6 ‘Happy those hungering and thirsting for righteousness — because they shall be filled.
Amplified Bible
5:6 “Blessed [joyful, nourished by God’s goodness] are those who hunger and thirst for righteousness [those who actively seek right standing with God], for they will be [completely] satisfied.
† 細き聲 聖書研究ノート
<幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん>
マタイ5:3~12「九つの幸い」の第四は「義に飢ゑ渇く者」であり、彼は「飽くことを得る」。
<幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者>
「飢え πεινάω ペイナオー」は「空腹である、飢え求める、切望する」で、ラテン語 esuriunt は「空腹な、貪欲な」を意味する。あまりの空腹から貪欲に求めることである。
「渇く διψάω ディプサオー」は「渇き求める」から「渇望する、捜し求める」の意味である。喉の渇きから、狩人が獲物を「狩り出す」ように、探し求めることである。
「義に飢え渇く人々」は直訳で「義に餓え、かつ、渇く人々」である。「渇く人々」の「渇き」は砂漠のラクダが渇いて水を飲むように、激しく底知れぬ渇きである。彼は「義」を切望し、「義」に渇望する人である。
「義 δικαιοσύνη ディカイオスゆネー」は「神のことばを守る」を意味する。「義を切望する人々」とは「神のことばを渇望する人々」のことである。その人々は羊飼いが満腹するまで草を食べさせるように満たされる。
「そは彼らは饗かさるべければなり」永井訳 彼らは神の食卓で「義」の饗宴にあずかる。
<魂の渇き>
渇いた地が水を吸うように、「神のことば」は「飢え渇いて求める者」にしみ込む。魂の渇きがどれほどであっても、「神のことば」は充分である。
<義に飢え渇く人々>
「牝鹿が渓川の水を慕ひあへぐやうに、熱病をわづらふ人が喉の渇きをおぼえるやうに、義を慕ひあへぐ人、何よりも先づ第一に義しくありたいとの願ひに燃えたっている人」 (藤井武『信仰生活』)
<その人は飽くことを得ん>
「満たされる Χορτάζω こルタゾー」は「草、餌場、食物、囲い」を意味するギリシャ語 χόρτος」から来たもので、「十分に食べさせ満腹させる、飽食する」の意味である。ラテン語 saturabunturには「満ち足りる、満腹する」の意味がある。
<義に飽かせられて>
「われは義に飽かせられて、これに飽くことを得るなり。義に飢え渇きてのみキリストを知るべし。しかしてキリストを知るを得て我らは義に飽かせられる」 (内村鑑三『聖書注解全集8』)
† 心のデボーション
「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」 マタイ5:6 大正文語訳聖書
「義に飢えかわく人は幸いである、その人は満たされるであろう」 フランシスコ会訳聖書
「魂に渇きを持つ人」
「義に飢え渇く人々」とは「魂に渇きを持つ人」である。渇いて地を彷徨うのは苦しい。しかし、彼らは「幸い」である。「魂に渇きのない平安」こそが「恐るべき枯渇」であろう。渇きの底に座りながら自らの渇きを知らない。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」 マタイ5:6 大正文語訳聖書
「饑渴(うゑかわく)ごとく義を慕者は福(さいはひ)なり其人は飽ことを得べければ也」 明治元訳聖書
「義に飢えかわく人は幸いである、その人は満たされるであろう」 フランシスコ会訳聖書
「渇く」
「渇く」を明治元訳聖書は「饑渴(うゑかわく)」と訳す。「飢餓」の渇きである。
犬養道子さんが砂漠で水だけでなく塩が足りなくなって困った時に、ポケットから飛行機の機内食についてくる2グラム入りの塩の小袋を開けたところ、はるかかなたにいたラクダの群れが猛烈な勢いで駆け寄ってきたという。(犬養道子『こころの座標軸』)
「渇く人」は、水の気配を感じたら、ただちに「駆け寄る」人である。渇いているのに駆け寄ることをしないのは、「渇く」ことにも躓いたのだろうか。
(†心のデボーション00051)
† 心のデボーション
「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」 マタイ5:6 大正文語訳聖書
「義に飢えかわく人は幸いである、その人は満たされるであろう」 フランシスコ会訳聖書
「義」
漢字「義」は、「羊」+「我」で美しく見事な羊のこと。物事が正しく制裁されることを意味する。聖書においては、「義 δικαιοσύνη ディカイオスゆネー」は「神のことばを守る」の意味である。
「義を切望する人々」とは「神のことばを渇望する人々」のことである。
その人々は羊飼いが満腹するまで草を食べさせるように満たされる。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」 マタイ5:6 大正文語訳聖書
「義に飢えかわく人は幸いである、その人は満たされるであろう」 フランシスコ会訳聖書
「福(さいはひ)なる者は義に飢ゑ且つ渇く者[なり]。そは彼等は饜(あ)かさるべければなり」 永井直治訳
「義の饗宴」
「その人は飽くことを得ん」は永井直治訳では「彼等は饜(あ)かさるべければなり」とある。
「饜」は「厭 えん」+「食」で「食べ飽きる、嫌になるほど食べる」である。
彼らは神の食卓で「義」の饗宴にあずかり、神のことばを、もうこれ以上腹に入らぬと思うほどに食べて満たされる。恵みの饗宴である
† 細き聲 説教
「義に餓え渇く」
「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」 マタイ5:6 大正文語訳聖書
「義に飢えかわく人は幸いである、その人は満たされるであろう」 フランシスコ会訳聖書
荒野を旅する人は熱風、砂嵐に出会う。背をまるめて、その通過を待つしかない、その間に激しい「渇き」を経験しなければならなかった。
「義に餓え渇く人々 οἱ πεινῶντες καὶ διψῶντες τὴν δικαιοσύνην」は直訳で「義に餓え、かつ、渇く人々」である。「渇く人々」の「渇き」は砂漠のラクダが渇いて水を飲むように、激しく底知れぬ渇きである。彼は「義」を切望し、「義」に渇望する人である。
「義 δικαιοσύνη ディカイオスゆネー」は「完全な義」を意味することばで、単なる「正しさ」ではなく、「神のことばを守る」ことの「完全」を意味する。「義を切望する人々」とは「神のことばを渇望する人々」のことで、その人々は羊飼いが満腹するまで草を食べさせるように満たされる。
渇いた地が水を吸うように、「神のことば」は「餓え渇いて求める」者にしみ込む。魂の渇きがどれほどであっても「神のことば」は充分である。神は「餓え渇いて求める者」に「生命の充足感」を約束される。神によって創られて在るいのちの充足である。
「義に餓え渇く人々」は、「魂に渇きを持つ」。渇いて地を彷徨うのは苦しい。しかし、彼らは「幸い」である。魂に渇きのない「平安」そこが「恐るべき枯渇」であろう。渇きの底では渇きそのものが干上がって渇くことすら知らない。
(皆川誠)
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