† 福音書対観 「幸い」 マタイ5:3~12
マタイ5:3~12ルカ6:20~26
マタイ5:3~12
Matt.5:4悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。(あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。ルカ6:21)口語訳聖書
† 日本語訳聖書 Matt.5:4
(ラゲ訳、バルバロ訳はマタイ5:5を4節に、5:4を5節に置く。本書では他の聖書に沿って、両聖書の位置を入れかえた)
【漢訳聖書】
Matt.5:4 哀慟者福矣、以其將受慰也。
【明治元訳】
Matt.5:4 哀(かなし)む者(もの)は福(さいはひ)なり其(その)人(ひと)は安慰(なぐさめ)を得(う)べければ也(なり)
【大正文語訳】
Matt.5:4 幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。
【ラゲ訳】
Matt.5:4 福なるかな泣く人、彼等は慰めらるべければなり。
【口語訳】
Matt.5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
【新改訳改訂3】
Matt.5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
【新共同訳】
Matt.5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
【バルバロ訳】
Matt.5:4 悲しむ人は幸せである、彼らは慰めを受けるであろう。
【フランシスコ会訳】
Matt.5:4 悲しむ人は幸いである、その人は慰められるであろう。
【日本正教会訳】
Matt.5:4 泣く者は福(さいはひ)なり、彼等慰(なぐさめ)を得んとすればなり。
【塚本虎二訳】
Matt.5:4 ああ幸いだ、“悲しんでいる人たち、”、(かの日に)“慰めていただく”のはその人たちだから。
【前田護郎訳】
Matt.5:4 さいわいなのは悲しむ人々、彼らは慰められようから。
【永井直治訳】
Matt.5:4 福なる者は悲しむ者〔なり〕。そは彼等は慰めらるべければなり。
【詳訳聖書】
Matt.5:4 悲しむ者は祝福されている<うらやましいほど幸福である>[その幸福は神の愛顧の経験から生じたもの、特に神の比類のない恵みの啓示によって与えられたものである]。なぜなら、その人たちは慰められるからである。
† 聖書引照 Matt.5:4
Matt.5:4 幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。
[幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん] 詩篇6:1~9; 13:1~5; 30:7~11; 32:3~7; 40:1~3; 69:29~30; 116:3~7; 126:5,6; イザ12:1; 25:8; 30:19; 35:10; 38:14~19; 51:11,12; 57:18; 61:2,3; 66:10; エレ31:9~12,16,17; エゼ7:16; 9:4; ゼカ12:10~14; 13:1; ルカ6:21,25; 7:38,50; 16:25; ヨハ16:20~22; Ⅱコリ1:4~7; 7:9,10; ヤコ1:12; 黙示7:14~17; 21:4
† ギリシャ語聖書 Matt.5:4
Stephens 1550 Textus Receptus
μακαριοι οι πενθουντες οτι αυτοι παρακληθησονται
Scrivener 1894 Textus Receptus
μακαριοι οι πενθουντες οτι αυτοι παρακληθησονται
Byzantine Majority
μακαριοι οι πενθουντες οτι αυτοι παρακληθησονται
Alexandrian
μακαριοι οι πενθουντες οτι αυτοι παρακληθησονται
Hort and Westcott
μακαριοι οι πενθουντες οτι αυτοι παρακληθησονται
† ギリシャ語聖書 品詞色分け
Matt.5:4
μακάριοι οἱ πενθοῦντες, ὅτι αὐτοὶ παρακληθήσονται.
† ヘブライ語聖書 Matt.5:4
Matt.5:4
אַשְׁרֵי הָאֲבֵלִים, כִּי הֵם יְנֻחָמוּ
† ラテン語聖書 Matt.5:4
Latin Vulgate
Matt.5:4
Beati mites: quoniam ipsi possidebunt terram. (Latin Vulgate マタイ5:4は通常聖書ではマタイ5:5である)
Blessed are the meek, for they shall possess the earth.
† 私訳(詳訳)Matt.5:4
【私訳】 「泣き悲しむ<嘆く、悼む、泣く、泣き悲しむ、悲嘆する>人々は幸い<羨ましい、祝福されている、幸福、至福>である、なぜなら、その人たちは慰められる<傍に呼ばれる、〔神の傍に〕招かれる、力づけられる、必要とされる>からである」
† 新約聖書ギリシャ語語句研究
Matt.5:4
μακάριοι οἱ πενθοῦντες, ὅτι αὐτοὶ παρακληθήσονται.
【悲しむ人々は】 πενθοῦντες πενθέω ペンてオー pentheō {pen-theh‘-o} (vppanm-p 分詞・現能主男複)
1)泣き悲しむ、悲嘆する 2)嘆く 3)悼む 4)悲しむ
(G3996 πενθέω From 3997 to grieve (the feeling or the act): – mourn, (be-) wail. Internet Sacred Text Archive)
マタ5:4; 9:15; マル16:10; ルカ6:25; Ⅰコリ5:2; Ⅱコリ12:21; ヤコ4:9; 黙示18:11,15,19
【幸いである】 μακάριοι μακάριος マカリオス makarios {mak-ar‘-ee-os} (a–nm-p 形容詞・主男複)
< μακαρίζω 幸福と考える 幸福とみなす
1)祝福されるべき、羨むべき、幸福な、めぐまれた、幸いな、うらやむべき、至福の 2)ねえ君 3)幸多き者(内村鑑三)
ヘブル語の「幸い」は「אַשְׁרֵי ‘esher {eh’-sher} うまく行く、進む」である
「μακάριος マカリオス」は元来、不安、労働、死のない至福の状態を指す言葉。「μακαριτής マカリテース」は「祝福された者」で「最近死んだ者」を指す。聖書においては主に霊的な祝福に用いられる。
(G3107 μακάριος A prolonged form of the poetical μάκαρ makar (meaning the same); supremely blest; by extension fortunate, well off: – blessed, happy (X -ier). Internet Sacred Text Archive)
マタ5:2,3,4,5,6,7,8; 5:9,10,11; 11:6; 13:16; 16:17; 24:46; ルカ1:45; 6:20,21,22; 7:23; 10:23; 11:27,28;12:37,38,43; 14:14,15; 23:29; ヨハ13:17; 20:29 etc.
【なぜなら】 ὅτι ὅτι ホティ hoti {hot‘-ee} (cs 接続詞・従)
1)~ということ 2)なぜなら~だから、というのは~だから、すなわち 3)~であるから 4)というのは
(G3754 ὅτι Neuter of 3748 as conjugation; demonstrative that (sometimes redundant); causatively because: – as concerning that, as though, because (that), for (that), how (that), (in) that, though, why. Internet Sacred Text Archive)
【その人々は】 αὐτοὶ αὐτός アウトス autos {ow-tos‘} (npnm3p 代名詞・主男3)
1)彼、彼女、それ(三人称の代名詞) 2)自身で、自分から、自分として(強調用法) 3)同じ同一の 4)まさに、ちょうど
(G846 αὐτός From the particle αὖ au (perhaps akin to the base of 109 through the idea of a baffling wind; backward); the reflexive pronoun self, used (alone or in the compound of 1438 of the third person, and (with the proper personal pronoun) of the other persons: – her, it (-self), one, the other, (mine) own, said, ([self-], the) same, ([him-, my-, thy-]) self, [your-] selves, she, that, their (-s), them ([-selves]), there [-at, -by, -in, -into, -of, -on, -with], they, (these) things, this (man), those, together, very, which. Compare 848. Internet Sacred Text Archive)
【慰められる】 παρακληθήσονται παρακαλέω パラカれオー parakaleō {par-ak-al-eh‘-o} (vifp–3p 動詞・直・未来・受・3)
< παρά 傍らに + καλέω 呼ぶ
1)傍らに招く、側に呼ぶ、側へ呼び寄せる、呼び求める、呼び掛ける 2)さとす、慰める、励ます、力づける、なだめる 3)要求する、必要とする 4)懇願する、嘆願する、願う
(G3870 παρακαλέω From 3844 and 2564 to call near, that is, invite, invoke (by imploration, hortation or consolation): – beseech, call for, (be of good) comfort, desire, (give) exhort (-ation), intreat, pray. Internet Sacred Text Archive)
マタ2:18; 5:4; ルカ16:25; 使徒20:12; Ⅱコリ1:4,5; 2:7; 7:6,7,13; 13:11; Ⅰテサ3:7 eyc
† 英語訳聖書 Matt.5:4
King James Version
5:4 Blessed [are] they that mourn: for they shall be comforted.
New King James Version
1:4 Ram begot Amminadab, Amminadab begot Nahshon, and Nahshon begot Salmon.
American Standard Version
5:4 Blessed are they that mourn: for they shall be comforted.
New International Version
5:4 Blessed are those who mourn, for they will be comforted.
Bible in Basic English
5:4 Happy are those who are sad: for they will be comforted.
Today’s English Version
5:4 “Happy are those who mourn; /God will comfort them!
Darby’s English Translation
5:4 Blessed they that mourn, for they shall be comforted.
Douay Rheims
5:4 Blessed are the meek: for they shall possess the land.
Noah Webster Bible
5:4 Blessed are they that mourn: for they shall be comforted.
Weymouth New Testament
5:4 ‘Blessed are the mourners, for they shall be comforted.
World English Bible
5:4 ‘Blessed are those who mourn, for they shall be comforted.
Young’s Literal Translation
5:4 ‘Happy the mourning — because they shall be comforted.
Amplified Bible
5:4 “Blessed [forgiven, refreshed by God’s grace] are those who mourn [over their sins and repent], for they will be comforted [when the burden of sin is lifted].
† 細き聲 聖書研究ノート
<幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん>
マタイ5:3~12「九つの幸い」の第二は「悲しんでいる者」の幸いである。彼らは神に「慰められる」。
<幸福なるかな、悲しむ者>
「悲しむ人々」は「πενθώντες ペンソーンテス」で 「πενθέω ペンてオー する人、悼み、悲嘆する者」のこと。親しい人の死に泣き、嘆き、悼む人々である。
山浦玄嗣氏は「ただ悲しいとか泣いているというのではなく、親しい人が亡くなって、その野辺送りで泣いている人々」だという(「イエスの言葉」)。
「悲しむ人々 πενθέω ペンてオー」のラテン語は lugent 「悼む、悲しむ、嘆く」で、最愛の人を失い、喪に服する者の悲しみをさす。
「さいわいなのは、悲しむ人だ。悲しんで泣いている人だ。心を何かに噛まれている人、その痛みのために呻いている、嘆きのために疲れている人、瞼は涙の為にただれ、心臓は熱の為に破れようとしている人、たましいが石のように重たくうなだれている人、そういう人は幸いです」(藤井武『信仰生活』)
<その人はいま泣くべし>
「損失をかなしみ、失敗をかなしみ、死別をかなしみ、堕落をかなしむ者、悲境を自覚するもの、悲哀の身に臨みし道徳的原因をたずねて、改悔の憂いに沈むもの、かかるものは幸いなり」「その人はいま泣くべし。されどものちにその涙をぬぐわるべし」「悲哀を知るにあらざれば、キリストを知るあたわず」(内村鑑三『聖書注解全集8』)
<その人は慰められん>
「慰める παρακαλέω パラカれオー」は「παρά 傍らに + καλέω 呼ぶ」で「傍らに招く、側へ呼び寄せる」から「さとす、慰める、励ます、力づける、なだめる」の意味である。
神は私を傍らに呼ばれ、悲しみの中にいる私を慰められる。
ルカ福音書には「笑うようになる」と記されている。
「あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである」 ルカ6:21 口語訳聖書
† 心のデボーション
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」 新共同訳聖書
「心の底から泣く者」
「心の底から泣く者は、そのとき不思議と、どこかに助けがあるように感じます」「心より泣くことは、それだけですてに慰めであります」(ホイヴェルス神父『日本人への贈り物』)
† 心のデボーション
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」 新共同訳聖書
「ユーモアへの意志」
ラテン語の格言に「Difficile est tristi fingere mente jocum 悲しみの心で冗談を作ることは困難である」という。「悲しみの心から冗談は生まれない」くらいの意味か。
V・Eフランクルはアウシュビッツで一緒に働いていた外科医の友人と、少なくとも一日に一つ愉快な話をみつけることをお互いの義務にしようと提案した。それをフランクルは「ユーモアへの意志」と呼んでいる。(V・Eフランクル『夜と霧』) 悲しみの心で冗談を作ることは困難であるが、不可能ではない。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」 新共同訳聖書
「悲しみの時代」
悲しみを表わす英語の「sad」の語源は「satiate =飽食する」である。「十分に満たされると飽きた(sated)気持ちになり、少し物悲しく(sad)なることである」(『シップリー英語語源辞典』)
「飽食の時代」とは「悲しみの時代」でもあるのだろうか。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」 新共同訳聖書
「涙」
人の「涙」は98.0%が水で,その他,約1.5%のナトリウム・カリウム・アルブミン・グロブリンなどに加えて0.5%のたん白質がふくまれている。
涙にはナトリウムが含まれているため塩辛く感じるが、それだけではなく、うれしいときや悲しいときに出る涙ストレス反応により分泌されるホルモンの一種である副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)が含まれている。
そのため、怒ったときに出る涙は、涙の量は少なくナトリウムの多い塩辛い涙になり、それにくらべて悲しみの涙はいくらか水っぽいという。
涙は体内にあるストレス物質を排出し、泣いた後はすっきりするのはそのためである。
「涙」も出ない悲しみが最もつらいかもしれない。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「哀(かなし)む者は福(さいはひ)なり其人は安慰(なぐさめ)を得(う)べければ也」 マタイ5:4 明治元訳聖書
「聲をたてずして哀け」
モンテーニュによれば、エジプト王プサムメニトゥスは戦いに負け、自分の娘が下女の装いで水汲みをさせられているのを見て友人が悲しんでも一声も洩らさなかった。彼の息子が死刑の場に連れて行かれたときも同じ態度をくずさなかった。
しかし、親しい友人の一人が囚人の間に交じっているのを見て頭を打ち叩いて悲しんだという。わけを聞かれて、「最後の悲しみだけが、どうやら涙の中に表現できたが、前の二つはどんな表現の道もこえていた」と答えたという。(モンテーニュ『エセー』)
表現を超えた悲しみというものがある。
「聲をたてずして哀け」エゼキエル24:17
† 心のデボーション
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「哀(かなし)む者は福(さいはひ)なり」 マタイ5:4 明治元訳聖書
「哀」
「哀」は「口」+「衣」で口を衣で隠してむせぶこと、せつない思いである。「哀」は「愛」であり、「愛 いとおしむ」でその人を深く思うこと。
「悲しみ」を表現にはいくつかある。「戚 せき」は憂いて悲しむこと、「哀」「悲」はあわれみ同情すること、「悼」は死者への沈痛の悲しみである。
人はさまざまに悲しむ。だが、悲しむことのできる人は幸いである。慰めの懐に抱かれるからだ。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「哀(かなし)む者は福(さいはひ)なり其人は安慰(なぐさめ)を得(う)べければ也」 明治元訳聖書
「慰め」
「慰める παρακαλέω パラカれオー」は「παρά 傍らに + καλέω 呼ぶ」で「傍らに招く、側へ呼び寄せる」から「さとす、慰める、励ます、力づける、なだめる」の意味である。
さらに「慰める παρακαλέω パラカれオー」には「必要とされる」の意味がある。神は「悲しむ者」に「あなたは必要とされている」と告げられる。「慰め」とは「自分が必要とされている」と知ることである。
(†心のデボーション00883)
† 心のデボーション
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「哀(かなし)む者は福(さいはひ)なり其人は安慰(なぐさめ)を得(う)べければ也」 マタイ5:4 明治元訳聖書
「慰め」
「慰め」は英語 comfort である。Comfort の語源はラテン語 com(強意 + fort=strong (力)で「力づける」の意味である。「慰め」は生きる力を湧出させること。
英語で「誠意のない慰め」を Cold comfort という。「冷たい慰め」である。
慰めは「力づけられる」こと。「冷たい慰め」は残された力すら奪ってしまう。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」 新共同訳聖書
「不幸な人」
事故で全身の機能を失った人が、残されたわずかの機能を生かして美しいものを創る。事故に遭わなかったら、その才能は眠ったままだったかもしれない。あきらめないで、自分に残された機能に工夫を重ねていくうちに、隠れた才能が働き始めたのだと思う。
身体の機能を失うのが不幸でないはずはない。しかし、何一つ失っていないのに、それを生かす幸せも慰めも感じられないのは、もっと不幸だ。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」 新共同訳聖書
「愛するものを失った心」
愛するものを失った心の整理ができないと、離別の際に残された感情がいつまでも心に残る。心の整理には「愛する人を失った自分」というものを見つめるしかない。その慰めは苦い。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「悲しむ人は幸いである、その人は慰められるであろう」 フランシスコ会訳聖書
「幸い」
事故で全身の機能を失った人が、残されたわずかの機能を生かして美しいものを創る。事故に遭わなかったら、その才能は眠ったままだったかもしれない。あきらめないで、自分に残された機能に工夫を重ねていくうちに、隠れた才能が働き始めたのだと思う。
身体の機能を失うのが不幸でないはずはない。しかし、何一つ失っていないのに、それを生かす幸せも慰めも感じられないのは、もっと不幸だ。
(†心のデボーション00397)
† 細き聲 説教
「激しく嘆き悲しむ声」
「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん」 マタイ5:4 大正文語訳聖書
「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」 新共同訳聖書
ラマで聞こえたのは「悲しむ人 πενθώντες」の声だった。
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」(マタイ2:18)
ラケルはヨセフを生んだ後、さらにもう一人の子を求めたが、陣痛で苦しみベニヤミンを出産して後死亡し、「ラマ」に葬られた。
バビロンの王ネブカデザルがエルサレムを占領したとき、「ラマ」でイスラエル人の殺害が行なわれ、捕囚となってバビロンに連行される人々は、墓からイスラエルの母ラケルの子を失って泣く声を聞いた。(Ⅰサムエル10:2)
そして、イエスの誕生によって、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子が殺害され、人々は再びラマで母ラケルの激しく泣く声を聞いた。
ラケルは「慰められる παρακαλέω パラカれオー」ことを拒む。
「慰められる παρακαλέω パラカれオー 側に呼び寄せる」ことを強く拒む者を、どうして「傍らに招く」ことができようか。親しき者の死を悼み、側に呼び寄せられることを拒む人に、私たちは力なくうなだれるしかない。
しかし、イエスは「慰められる παρακαλέω パラカれオー」ことを拒む「悲しむ人」は「幸い μακάριος マカリオス 祝福されるべき、羨むべき者、幸福者」だと言われる。
なぜなら、誰一人「側に呼び寄せることのできない」悲しむ人をこそ、神は「パラカレオー 呼び求め、傍らに呼ばれる」からである。「悲しむ人」は神に呼び求められた人、神が傍らに呼び給う人である。神は「悲しむ人」を「悲しむまま」に抱かれる。
「悲しむ人」よ、神の中で泣け。「泣く人」よ、神の傍らにて慰めあれ。あなたはもう「慰めを拒む人」であってはならない。神が「傍らに呼び寄せられた」「マカリオス 祝福されるべき、羨むべき、幸福な人」なのだから。神に呼ばれて「魂」を見出し、自分を抱きしめたのだから。
(皆川誠)
コメント