† 福音書縦観 「幸い」 マタイ5:3~12
マタイ5:3~12ルカ6:20~26
† 福音書対観 「幸い」 マタイ5:3~12
マタイ5:3~12ルカ6:20~26
マタイ5:3~12
Matt.5:3「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。(あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである ルカ6:20)
† 日本語訳聖書 Matt.5:3
【漢訳聖書】
Matt.5:3 虛心者福矣、以天國乃其國也。
【明治元訳】
Matt.5:3 心(こころ)の貧(まづ)しき者(もの)は福(さいはひ)なり天國(てんこく)は即(すなは)ち其(その)人(ひと)の有(もの)なれば也(なり)
【大正文語訳】
Matt.5:3 『幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。
【ラゲ訳】
Matt.5:3 福なるかな心の貧しき人、天國は彼等の有なればなり。
【口語訳】
Matt.5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
【新改訳改訂3】
Matt.5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
【新共同訳】
Matt.5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
【バルバロ訳】
Matt.5:3 「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである。
【フランシスコ会訳】
Matt.5:3 「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである。
【日本正教会訳】
Matt.5:3 神(しん)の貧しき者は福(さいはひ)なり、天國は彼等の有(もの)なればなり。
【塚本虎二訳】
Matt.5:3 ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち、”天の国はその人たちのものとなるのだから。
【前田護郎訳】
Matt.5:3 「さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。
【永井直治訳】
Matt.5:3 福なる者は靈に於て貧しき者〔なり〕。そは天國は彼等のものなればなり。
【詳訳聖書】
Matt.5:3 「霊において貧しい者<自分をつまらない者と評価する謙そんな人>は祝福されている<幸福である、うらやましい状態にある、霊的に栄えている[すなわち、外側の状態にかかわりなく神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている]>。なせなら、天の国はその人たちのものだからである。
† 聖書引照 Matt.5:3
Matt.5:3 『幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。
[幸福なるかな] マタ5:4~11; 11:6; 13:16; 24:46; 詩篇1:1; 2:12; 32:1,2; 41:1; 84:12; 112:1; 119:1,2; 128:1; 146:5; 箴言8:32; イザ30:18; ルカ6:20,21; etc.; ルカ11:28; ヨハ20:29; ロマ4:6~9; ヤコ1:12; 黙示19:9; 22:14
[心の貧しき者] マタ11:25; 18:1~3; レビ26:41,42; 申命8:2; Ⅱ歴代7:14; 33:12,19,23; 34:27; ヨブ42:6; 詩篇34:18; 51:17; 箴言16:19; 29:23; イザ57:15; 61:1; 66:2; エレ31:18~20; ダニ5:21,22; ミカ6:8; ルカ4:18; 6:20; 18:14; ヤコ1:10; 4:9,10
[天國はその人のものなり] マタ3:2; 8:11; マル10:14; ヤコ2:5
† ギリシャ語聖書 Matt.5:3
Stephens 1550 Textus Receptus
μακαριοι οι πτωχοι τω πνευματι οτι αυτων εστιν η βασιλεια των ουρανων
Scrivener 1894 Textus Receptus
μακαριοι οι πτωχοι τω πνευματι οτι αυτων εστιν η βασιλεια των ουρανων
Byzantine Majority
μακαριοι οι πτωχοι τω πνευματι οτι αυτων εστιν η βασιλεια των ουρανων
Alexandrian
μακαριοι οι πτωχοι τω πνευματι οτι αυτων εστιν η βασιλεια των ουρανων
Hort and Westcott
μακαριοι οι πτωχοι τω πνευματι οτι αυτων εστιν η βασιλεια των ουρανων
† ギリシャ語聖書 品詞色分け
Matt.5:3
Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.
† ヘブライ語聖書 Matt.5:3
Matt.5:3
אַשְׁרֵי עֲנִיֵּי הָרוּחַ, כִּי לָהֶם מַלְכוּת הַשָּׁמַיִם
† ラテン語聖書 Matt.5:3
Latin Vulgate
Matt.5:3
Beati pauperes spiritu: quoniam ipsorum est regnum cælorum.
“Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
† 私訳(詳訳)Matt.5:3
【私訳】 「霊<息、風、心、精神、(生命力としての、生のエネルギーの根源としての)息、聖霊>において貧しい<窮乏している、無一物の、決定的に貧しい、他人の援助に頼る>人々は幸い<羨ましい、祝福されている、幸福、至福>である、なぜなら、天の国<神の統治、支配>はすでにその人たちのものだからである」
† 新約聖書ギリシャ語語句研究
Matt.5:3
Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.
【心の】 πνεύματι πνεῦμα プネウマ pneuma {pnyoo‘-mah} (n-dn-s 名詞・与中単)
< πνέω 呼吸する、吹く、風が吹く
1)風、運動している空気 2)(生命力としての、生のエネルギーの根源としての)息、気息、息吹、呼吸、3)精神、心、(知、情、意を代表する 精神生活の座としての)霊 4)霊、霊的存在、悪霊 5)神、(神の霊、キリストの霊、聖霊)
(G4151 πνεῦμα From 4154 a current of air, that is, breath (blast) or a breeze; by analogy or figuratively a spirit, that is, (human) the rational soul, (by implication) vital principle, mental disposition, etc., or (superhuman) an angel, daemon, or (divine) God, Christ’s spirit, the Holy spirit: -ghost, life, spirit (-ual, -ually), mind. Compare 5590. Internet Sacred Text Archive)
マタ1:18; 27:50; マル2:8; ヨハ3:8; 4:24; 使徒16:7; ロマ8:9; Ⅰコリ2:11,12,14; 3:16; 6:11; Ⅱコリ7:1; ガラ4:6; コロ2:5; Ⅱテサ2:8; ヘブ1:14; Ⅰヨハ4:2; 黙示11:11
【貧しい人々は】 πτωχοὶ πτωχός プトーこス ptōchos {pto-khos‘} (ap-nm-p 形容詞・主男複)
< πτώσσω すくむ、かがむ、ちじこまる
1)乞食のような、窮乏する、決定的に貧しい、無一物、物乞い、他人の援助に頼る者 2)貧乏な、乏しい、不足している 3)乞食
(G4434 πτωχός From πτώσσω ptōssō (to crouch; akin to 4422 and the alternate of 4098 ; a beggar (as cringing), that is, pauper (strictly denoting absolute or public mendicancy, although also used in a qualified or relative sense; whereas 3993 properly means only straitened circumstances in private), literally (often as noun) or figuratively (distressed): – beggar (-ly) Internet Sacred Text Archive)
マタ5:3; 11:5; 10:21; 26:9,11; マル10:21; 12:42;,43; 14:5,7; ルカ4:18; 6:20; 7:23; 14:13,21; 16:20,22;18:23; 10:8; 21:3; ヨハ12:5,6,8; 13:29 etc.
【幸いである】 Μακάριοι μακάριος マカリオス makarios {mak-ar‘-ee-os} (a–nm-p 形容詞・主男複)
< μακαρίζω 幸福と考える 幸福とみなす
1)祝福されるべき、羨むべき、幸福な、めぐまれた、幸いな、うらやむべき、至福の 2)ねえ君 3)幸多き者(内村鑑三)
ヘブル語の「幸い」は「אַשְׁרֵי ‘esher {eh’-sher} うまく行く、進む」である
「μακάριος マカリオス」は元来、不安、労働、死のない至福の状態を指す言葉。「μακαριτής マカリテース」は「祝福された者」で「最近死んだ者」を指す。聖書においては主に霊的な祝福に用いられる。
(G3107 μακάριος A prolonged form of the poetical μάκαρ makar (meaning the same); supremely blest; by extension fortunate, well off: – blessed, happy (X -ier). Internet Sacred Text Archive)
マタ5:2,3,4,5,6,7,8; 5:9,10,11; 11:6; 13:16; 16:17; 24:46; ルカ1:45; 6:20,21,22; 7:23; 10:23; 11:27,28; 12:37,38,43; 14:14,15; 23:29; ヨハ13:17; 20:29 etc.
【なぜなら】 ὅτι ὅτι ホティ hoti {hot‘-ee} (ch 接続詞・完)
1)~ということ 2)なぜなら~だから、というのは~だから、すなわち 3)~であるから 4)というのは
(G3754 ὅτι Neuter of 3748 as conjugation; demonstrative that (sometimes redundant); causatively because: – as concerning that, as though, because (that), for (that), how (that), (in) that, though, why. Internet Sacred Text Archive)
【天の国は】 ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν
【天の】 οὐρανῶν οὐρανός ウーラノス ouranos {oo-ran-os‘} (n-gm-p 名詞・属男複)
1)空、大空、蒼穹、丸天井 2)天の、天にある、天、天界 3)神の座、神のいますところ、神のみ住まい 4)王権 5)宇宙
ユダヤ人は天が幾層もあると考えた
(G3772 οὐρανός Perhaps from the same as 3735 (through the idea of elevation); the sky; by extension heaven (as the abode of God); by implication happiness, power, eternity; specifically the Gospel (Christianity): – air, heaven ([-ly]), sky. Internet Sacred Text Archive)
マタ3:2,17; 5:35,48; 6:9,20,26; 7:11; 24:29; マル1:11; 13:25; 16:19; ルカ2:1311:13; 12:33; 15:18; 24:51; ヨハ1:51 etc.
【国は】 βασιλεία βασιλεία バシれイア basileia {bas-il-i‘-ah} (n-nf-s 名詞・主女単)
1)統治、支配、王位、主権 2)王権、王国、王権
「天の国」は「神の支配」を意味する
(G932 βασιλεία From 935 properly royalty, that is, (abstractly) rule, or (concretely) a realm (literally or figuratively): – kingdom, + reign. Internet Sacred Text Archive)
マタ6:33; 12:25; 21:31; 24:7; 25:34; 26:29; マル1:15; 11:10; 13:8; 14:25; ルカ4:43; 9:62; 11:17;13:18;17:21: 18:29; 21:25 ヨハ3:3; 18:36 etc.
【その人たちのもの】 αὐτῶν αὐτός アウトス autos {ow-tos‘} (npgn3p 代名詞・属男3)
1)彼、彼女、それ(三人称の代名詞) 2)自身で、自分から、自分として(強調用法) 3)同じ同一の 4)まさに、ちょうど
(G846 αὐτός From the particle αὖ au (perhaps akin to the base of 109 through the idea of a baffling wind; backward); the reflexive pronoun self, used (alone or in the compound of 1438 of the third person, and (with the proper personal pronoun) of the other persons: – her, it (-self), one, the other, (mine) own, said, ([self-], the) same, ([him-, my-, thy-]) self, [your-] selves, she, that, their (-s), them ([-selves]), there [-at, -by, -in, -into, -of, -on, -with], they, (these) things, this (man), those, together, very, which. Compare 848. Internet Sacred Text Archive)
【である】 ἐστιν εἰμί エイミ eimi {i-mee‘} (vipa–3s 動詞・直・現・能・3単)
1)ある、いる、~である、~です、~だ 2)行われる、おこる、生ずる、現れる、来る 3)いる、滞在する、とどまる 4)存在する 5)生きている
(G1510 εἰμί First person singular present indicative; a prolonged form of a primary and defective verb; I exist (used only when emphatic): – am, have been, X it is I, was. See also 1488 1498 1511 1527 2258 2071 2070 2075 2076 2771 2468 5600. Internet Sacred Text Archive)
† 英語訳聖書 Matt.5:3
King James Version
5:3 Blessed [are] the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.
New King James Version
5:3 “Blessed are the poor in spirit,For theirs is the kingdom of heaven.
American Standard Version
5:3 Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.
New International Version
5:3 “Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
Bible in Basic English
5:3 Happy are the poor in spirit: for the kingdom of heaven is theirs.
Today’s English Version
5:3 “Happy are those who know they are spiritually poor; /the Kingdom of heaven belongs to them!
Darby’s English Translation
5:3 Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of the heavens.
Douay Rheims
5:3 Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.
Noah Webster Bible
5:3 Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.
Weymouth New Testament
5:3 ‘Blessed are the poor in spirit, for to them belongs the Kingdom of the Heavens.
World English Bible
5:3 ‘Blessed are the poor in spirit, for theirs is the Kingdom of Heaven.
Young’s Literal Translation
5:3 ‘Happy the poor in spirit — because theirs is the reign of the heavens.
Amplified Bible
5:3 “Blessed [spiritually prosperous, happy, to be admired] are the poor in spirit [those devoid of spiritual arrogance, those who regard themselves as insignificant], for theirs is the kingdom of heaven [both now and forever].
† 細き聲 聖書研究ノート
<幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり>
マタイ5:3~12「九つの幸い」の第一は「心の貧しき者」の幸いであり、それは「天の幸い」の全体への序章になるものである。神の国は彼らのものである。
<幸福なるかな>
「幸いなるかな μακάριος マカリオス」は「羨むべき」の意味。「心の貧しい人々」は「なんと、うらやむべき、祝福された、幸大き人なのだろう!」という。
<心の貧しき者>
「心に貧しきものなり。心に貧しきを感ずるものなり。おのれのたよりなきを感じ、罪ふかきを感じるものなり。心に貧しきものとは貧をいきどおるものにあらず。貧を悲しむものなり」 (内村鑑三『聖書注解全集8』)
「心」と訳される言葉はギリシャ語で 「πνεῦμα プネウマ」で「風」「(生命力としての、生のエネルギーの根源としての)息」をあらわし、「霊」「精神」「心」の意味に用いられる。
「神を知り、神と交わる力であり、神の創造されたいのちを生きる力、すなわち、人をして人間たらしめる力」である
「貧しい πτωχός プトーこス」は「すくむ、かがむ、ちぢこまる」からくる言葉で「決定的に貧しい、無一物」の意味で、それゆえに「他人の援助に頼る者」のことである。
「心の貧しい人々」は「神を知り、神とまじわり、神の創造されたいのちを生きる力」を決定的に失い、自分が無一物の者であることを知るがゆえに、強くそれを求める者のことである。
「心の貧しい人」は「心の富、心の財産といふものをもたない人です。自分の胸の中に、誇るべき何ものをも見いださない人、却って様々の恥づべき霊的ガラクタのゆえに我ながら愛憎を盡かしている人、自分は罪人の首だということのできる人、そのたましいが陶器(せと)の断片(かけら)のやうに砕けてしまった人、そういふ人がほんとうに幸福(さひはひ)なのです」(藤井武『信仰生活』)
「貧しい人 πτωχός プトーこス」はラテン語の paupers で「貧しい、哀れな、惨めな」の意味である。
カール大帝は817年の修道院勅令に「施物として教会また修道院に与えられたもののすべてから十分の一が貧者(pauperes)たちに与えられるべきこと」と定めた。「貧者(pauperes)たち」には身体的障害をもつ者、孤児、捨て子、寡婦、老人、旅人などが含まれていた。
<天國はその人のものなり>
「これを天国と称するは、天上の高きにあるがゆえにあらず、地上の王国と、その性質を全く異にするがゆえなり」(内村鑑三 『聖書注解全集8』)
<マタイ5:3~12 9つの幸い>
マタイ5:3~12 に9つの幸いが教えられる。9つをもって幸福と考えて、これを求め、一巡しても幸福にはなれないだろう。人にとって幸福と考えられるのなら、9つの外にいくらでも存在する。
9つに共通するのはいずれも幸福とよべるものから遠い。それらはいずれも幸いとしては求め難いものであるが、求める必要もなく、すでに「私」の現実として「私」を悩ましている。しかし、この不幸をすら含むそれらは、すでに一つの幸福なのだ。
これらの多くは意味なきものとして捨てられ、退けられてきた。しかし、意味なきものは決定的な意味を含んでいる。意味は意味なきものから生まれ、不幸は幸いの動因である。
<エビオン派>
2世紀に「エビオン派」と呼ばれるキリスト教の一派があらわれた。「エビオン」はヘブライ語「貧しい者」からとられた名称で、禁欲的でトーラーを守った。エビオン派は、イエスはヨセフとマリアの間に生まれた人間であったが、洗礼を受けて神の子になったとしてイエスの処女降誕や神性を否定したため教会によって「異端」とされ、3~4世紀には消滅した。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」 マタイ5:3 大正文語訳聖書
「福(さいはひ)なる者は靈に於て貧しき者[なり]。そは天國は彼等のものなればなり」 永井直治訳聖書
「本物の乞食」
山頭火は「乞食にも見放された家、そういう家がある」と日記に書く。その家は「貧富にかかわらず」どこにもあって、「そこは人間らしからぬ人間が住んでいる家だ、私も時々そういふ家に立ったことがある」という。(山頭火『日記一』)
心の貧しい者は乞食に見放されたりはしない。人間らしい人間は決して「貧しさ」を手放しはしない。本物の乞食がいなくなると、本物の家もわからない。
(†心のデボーション00154)
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「心の貧しい者」
「心の貧しい者」は「霊において貧しい者」である。彼は神と交わることの貧しさを自覚し、かすかなものに喜び、歓喜する。彼にとってすべては「恵み」である。
「天の国はその人たちのものである」 ギリシャ語「evstin」は、やがてではなく、すでにその人のものであることを示す。「心の貧しさ」を受けることの中に、すでに「神の国の豊かさ」が来ている。
「いますでにその人のものなればなり」 (内村鑑三『聖書注解全集8』)
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「無一物の者」
「心の貧しい者」とは自らを「深い霊性を持たぬ」とする者である。生命エネルギーの源である「霊」の欠乏者、「霊における無一物」を自覚する者である。「無一物の者」であるゆえに「強く求める」者である。
「心の貧しき者」は「神を知らず、天を求めない者」との認識に至った信仰者のことである。「霊的深さ」とは自らの絶望的な霊的貧困を自覚することにある。しかし霊的貧困を自覚するだけでは何ももたらさない。無一物であることによって、全体を所有し、全体はただちに人に無一物を告げる。この「深い求道」のありようを「幸い」という。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「魂に無一物の者」
真に羨むべきは、人をして真に人たらしめる能力に足りないと自ら知る者である。貧しく、尻込みし、身を屈め、求めて物乞いして歩く者、魂に無一物の者である。自分の内には、自分で満たすことのできないなにものかがあることに気づき、神との間にそれを見出し、求める者は幸いである。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「貧者の一灯」
私が聖書学塾に入校するとき、それまで下宿していた大家の老婦人がお祝いの包を持たせて送り出してくれた。その封筒には「貧者の一灯」と墨書されていた。
阿闍世王が釈迦を招待したとき、釈迦の帰る道を、たくさんの灯火でともした。それを見た貧しい老婆が、なんとかお金を工面し、やっと一本の灯火をともすことができた。
阿闍世王がともしたたくさんの灯火が消えた後も、老婆の灯火は朝になっても消えなかったという。
貧しい人の「一灯」はなんと美しいものだろうか。
(「貧者の一灯」をマルコ12:42から英語で「the widow’s mite」という。「mite」は小銭のことである。
マタイ5:5「柔和な人 πραΰς プラゆス」は「温和な、柔和な、穏やかな、素直な、優しい、おとなしい、忍耐強い、辛抱強い」人のことである。ラテン語 mites「穏やかな、柔和に」である)
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「貧しさの幸せ」
まだ自分はつかんでいないと思う。そう思える幸せがある。そう思えることの幸せに今日気づいた。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「商売上手な呉服屋」
白洲正子さんが商売上手な呉服屋の話をされている。彼によると「色々のものを買ってしまって、あきあきしたような人は難しいようで難しくない。売れ残りのありきたりのものを見せると、とても珍しいものだととびついてくる」という。(白洲正子『日月抄』)
心の貧しい人にはそのようなことはない。貧しさが必要なものが何かを教えてくれるからだ。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「生涯の終わり」
自分の生涯の終わりというものを持てる人は幸せだ。その人はどこまで行けるかと考えもしない。今を見ることで満足する。神はこの祝福を「心の貧しい者」に与えられる。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「望みを神につなぐ」
「貧しい者」とは、見に一物ももたず、乞うしかない人のことである。しかし、彼はその貧しさをむき出しにはしない。何ももたないが故に、望みを神につなぎ、神に乞う人である。誰よりも身を低くするが、その心はあきれるほどのびやかである。彼は神の応えを知っている。彼にとっては身に起こることが、そのままそっくり神からのものである。彼は「ありがとう」と貧しさを受ける。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「貧しい限りの自分」
出会いにはある程度自分をさらけ出す必要がある。その時、表現したいのは「さらけ出すに足りる自分」ではなく、「貧しい限りの自分」である。貧しくても、まぎれもなく生きている自分であり、それでこそ互いの心が響き合う。自分の貧しさを知るものだけが人と共に生きることができる。互いの心の貧しさを受け入れ、それでもいのちへの慈しみが失われない、そこに「天の御国」がある。
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「楽しいなー」
重い病の母親から遠い親戚にあずけられていた幼子が、鬼ごっこ遊びに夢中になって走りながら「楽しいなー」と叫んだ。母親から無理やり引き離された孤独と母親のただならぬ病の気配への不安の中で、子どもらの遊びにすべてを忘れて思わず口にする言葉だった。
イエスはそのような私たちの切ない「幸い」にも、やはり「あなたがたは幸いだ」と言ってくださるだろう。
(†心のデボーション00830)
† 心のデボーション
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
「神に乞う人」
「貧しい者」とは、見に一物ももたず、乞うしかない人のことである。しかし、彼はその貧しさをむき出しにはしない。何ももたないが故に、望みを神につなぎ、神に乞う人である。誰よりも身を低くするが、その心はあきれるほどのびやかである。彼は神の応えを知っている。彼にとっては身に起こることが、そのままそっくり神からのものである。彼は「ありがとう」と貧しさを受ける。
(心のデボーション01004)
† 細き聲 説教
「幸福なるかな、心の貧しき者」
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
イエスは山上の垂訓の冒頭に「九つの幸い」を置かれる。(マタイ5:3~12)
「九つの幸い」の第一は「心の貧しき者」の幸いであり、それは「天の幸い」の全体への基礎をなす教えである。
「幸福なるかな」
イエスは「幸い」の何たるかではなく、「あなたがたは実に幸いだ」という事実に気づかせてくれる。イエスは幸福になる方法や哲学を教えるのではなく、今、存在している幸い、現在すでにある祝福に導かれる。
イエスは、まだ見ない幸いを祈るのではなく、すでに「幸い」の只中に置かれている私というものに導いて下さる。
「心の貧しき者」
「心」と訳される言葉はギリシャ語で 「πνεῦμα プネウマ」で「風」「(生命力としての、生のエネルギーの根源としての)息」をあらわし、「霊」「精神」「心」の意味である。
「神を知り、神と交わる力であり、神の創造されたいのちを生きる力、すなわち、人をして人間たらしめる力」である
「貧しい πτωχός プトーこス」は「すくむ、かがむ、ちぢこまる」からくる言葉で「決定的に貧しい、無一物」の意味で、それゆえに「他人の援助に頼る者」のことである。
「心の貧しき者」は霊的な貧しさのことである。神を知り、神とまじわり、神の創造されたいのちを生きる力を決定的に失い、無一物の者であることを知るがゆえに、強くそれを求める者のことである。
「天國はその人のものなり」
「心が絶望的に貧しい」ことが「幸い」なのではなく、「絶望的な貧しさ」ゆえに「神に求め」、神がその「求め」に応えて「天の国(神の臨在と御支配)はその人のものである」と言われることが「幸い」である。
「絶望的な貧しさ」のなかに「神の国(神の臨在と御支配)」がある。
「至高く至上なる永遠にすめるもの聖者となづくるもの如此いひ給ふ 我はたかき所きよき所にすみ 亦こころ碎けてへりくだる者とともにすみ 謙だるものの靈をいかし碎けたるものの心をいかす」 イザヤ57:15 明治元訳聖書
† 細き聲 説教
「幸福なるかな、心の貧しき者」
「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」マタイ5:3 大正文語訳聖書
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだからである」 フランシスコ会訳聖書
真に羨むべきは、自らを人をして真に人たらしめる能力に足りないと認識する者である。貧しく、しり込みし、身を屈め、求めて物乞いして歩く者、魂に無一物の者である。自分の内には、自分を満たすことのできるものがないと気づき、神に求める者である。
「心の貧しき者 οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι」は、「霊において貧しき者」である。神と交わることの貧しさを自覚し、かすかなものに喜び、歓喜する者である。かれにとって、すべては「恵み」である。
「心の貧しき者 οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι」は、それゆえに、「強く求める」。霊的貧困を自覚するだけでは何ももたらさない。無一物によって全体を所有し、全体はただちに無一物を告げる。この深い求道のありようが「幸い」である。
(皆川誠)
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