マタイによる福音書4章1節

マタイによる福音書
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
カテゴリーで絞込

† 福音書対観 「荒野の試み」 マタイ4:1~11

マタイ4:1~11  マルコ1:12~13  ルカ4:1~13
マタイ4:1~11

Matt.4:1さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた(それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。マルコ1:12)。悪魔に試みられるためである。 (4:1さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、 4:2荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。ルカ4:1~2)口語訳聖書

† 日本語訳聖書 Matt. 4:1

【漢訳聖書】
Matt. 4:1 當時、耶穌被聖靈導之適野、致見試於魔鬼、

【明治元訳】
Matt. 4:1 偖(さて)イエス聖靈(せいれい)に導(みちび)かれ惡魔(あくま)に試(こころみ)られん爲(ため)に野(の)に往(ゆけ)り

【大正文語訳】
Matt. 4:1 ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり。

【ラゲ訳】
Matt. 4:1 然てイエズス、惡魔に試みられん為、[聖]霊によりて荒野に導かれ給ひしが、

【口語訳】
Matt. 4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。

【新改訳改訂3】
Matt. 4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

【新共同訳】
Matt. 4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

【バルバロ訳】
Matt. 4:1 さて、イエズスは悪魔に試みられようとして、霊によって荒野に導かれた。

【フランシスコ会訳】
Matt. 4:1 さて、イエズスは霊に導かれて荒れ野に行かれた。それは悪魔によって試みられるためであった。

【日本正教会訳】
Matt. 4:1 當時(そのとき)イイスス神に導かれて野に適(ゆ)けり、惡魔に試みられんとするなり。

【塚本虎二訳】
Matt. 4:1 間もなくイエスは悪魔の誘惑にあうため、御霊につれられて荒野に上られた。

【前田護郎訳】
Matt. 4:1 そこでイエスは荒野へと霊に導かれた。悪魔に試みられるためであった。

【永井直治訳】
Matt. 4:1 そのときイエス惡魔より試みらるべく、荒野にまで靈に連れ往かれ給へり。

【詳訳聖書】
Matt. 4:1 その時、イエスは悪魔に試みられる<すなわち、試験される、ためされる>ために<聖>霊に導かれた<道案内された>。

† 聖書引照 Matt. 4:1

Matt. 4:1 ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり。

[ここにイエス]  マル1:12,13; etc.; ルカ4:1; etc.; ロマ8:14
[御靈によりて荒野に導かれ給ふ]  Ⅰ列王18:12; Ⅱ列王2:16; エゼ3:12,14; 8:3; 11:1,24; 40:2; 43:5; 使徒8:39 創世3:15; ヨハ14:30; ヘブ2:18; 4:15,16
[惡魔に試みられんとするなり]  創世3:15; ヨハ14:30; ヘブ2:18; 4:15,16

† ギリシャ語聖書 Matt. 4:1

Stephens 1550 Textus Receptus
τοτε ο ιησους ανηχθη εις την ερημον υπο του πνευματος πειρασθηναι υπο του διαβολου

Scrivener 1894 Textus Receptus
τοτε ο ιησους ανηχθη εις την ερημον υπο του πνευματος πειρασθηναι υπο του διαβολου

Byzantine Majority
τοτε ο ιησους ανηχθη εις την ερημον υπο του πνευματος πειρασθηναι υπο του διαβολου

Alexandrian
τοτε ο ιησους ανηχθη εις την ερημον υπο του πνευματος πειρασθηναι υπο του διαβολου

Hort and Westcott
τοτε ο ιησους ανηχθη εις την ερημον υπο του πνευματος πειρασθηναι υπο του διαβολου

† ギリシャ語聖書 Interlinear

Matt. 4:1

Τότε ὁ ᾽Ιησοῦς ἀνήχθη εἰς τὴν ἔρημον ὑπὸ τοῦ πνεύματος πειρασθῆναι ὑπὸ τοῦ διαβόλου.

Τότε  ὁ ᾽Ιησοῦς  ἀνήχθη  εἰς   τὴν  ἔρημον    ὑπὸ   τοῦ   πνεύματος
Then   Jesus   was led up into  the  wilderness   by    the     Spirit

πειρασθῆναι   ὑπὸ  τοῦ    διαβόλου.
to be tempted   by    the     devil.

† ギリシャ語聖書 品詞色分け

Matt. 4:1

Τότε ὁ ᾽Ιησοῦς ἀνήχθη εἰς τὴν ἔρημον ὑπὸ τοῦ πνεύματος πειρασθῆναι ὑπὸ τοῦ διαβόλου.

† ラテン語聖書 Matt. 4:1

Latin Vulgate
Matt. 4:1

Tunc Iesus ductus est in desertum a Spiritu, ut tentaretur a diabolo.
Then Jesus was led by the Spirit into the desert, in order to be tempted by the devil.

† ヘブライ語聖書 Matt. 4:1

Matt. 4:1

ד אָז הוֹבִילָה הָרוּחַ אֶת יֵשׁוּעַ אֶל הַמִּדְבָּר לְהִתְנַסּוֹת עַל־יְדֵי הַשָֹטָן

† 私訳(詳訳)

【私訳】 「そのとき、イエスは悪魔<中傷者、偽って告訴する者、サタン>から試みられる<誘惑を受ける、試験を受ける、力を試される、経験する>ため、霊<神の霊、〔神、聖霊〕>によって、荒れ野<砂漠、無人の地、寂しいところ、人の住まない地、人里離れた孤独の地、文明の失われた地>に連れて行かれた<運ばれた、導かれた、案内された>」

† 新約聖書ギリシャ語語句研究

Matt. 4:1

Τότε ὁ ᾽Ιησοῦς ἀνήχθη εἰς τὴν ἔρημον ὑπὸ τοῦ πνεύματος πειρασθῆναι ὑπὸ τοῦ διαβόλου.

【さて】 Τότε  τότε トテ tote {tot‘-eh}  (ab 副詞)

1)そのとき 2)それから 3)そうすれば 4)そのあとで 5)そこで 6)その時間に 7)次に 8)同時に

【イエスは】 ᾽Ιησοῦς  ᾽Ιησοῦς イエースウース  Iēsous {ee-ay-sooce‘ } (n-nm-s 名詞・主男単)

イエス 意味は「ヤㇵウェは救いである」

「イエス」はヘブル語「 יְהוֺשׁוּעַ イェホーシュア Yehowshuwa` {yeh-ho-shoo’-ah} ”Jehovah is salvation” 主は救い、ヨシュア」の ギリシャ名

マタ16:16;  マル5:7;  ルカ1:32;  ヨハ1:29,36; 14:6; 6:33,51;  ロマ1:16; 3:29; 11:26; 14:9;  Ⅰコリ1:24; 2:8; 15:45;  Ⅰテモ6:15;  ヘブ2:10; 3:6; 9:11,15; 12:24;  黙示1:5,8; 2:8; 3:14 etc.

【悪魔】 διαβόλου  διάβολος  ディアボろス  diabolos {dee-ab‘-ol-os } (ap-gm-s 形容詞・属男単)

< διάβαλλω 中傷する < διά + βόλος 投網を投げる

1)悪く言いふらす、偽って告訴する者、中傷する 2)中傷者、誹謗者 3)悪魔

マタ4:1,5,8,11; 13:39; 25:41;  ルカ2,3,55,13; 8:12;  ヨハ6:70; 8:44; 13:2 etc.

【から】 ὑπὸ  ὑπό ヒゆポ hupo {hoop-o‘} (pg 前置詞・属)

1) 下に、~の下から 2)~の下に、下の 3)によって 4)~の故に 5)と共に

【誘惑を受けるために】 πειρασθῆναι  πειράζω  ペイラゾー  peirazō {pi-rad‘-zo} (vnap 不定詞・1アオ受)

1)試みる、試験する、誘惑する、やってみる、企てる、探りを入れる 2)力を試す、試す、襲う、戦う 3)経験する、体験する、体験して知る、確かめる 4)誘惑する、誘う、試みえる

英語「誘惑 seduction」はラテン語「seducer わきに導く」に由来する

マタ4:1,3; 16:1; 19:3; 22:18,35;  マル1:13; 8:11; 10:2; 12:15;  ヨハ6:6; 8:6 etc.

【霊によって】
【霊】 πνεύματος  πνεῦμα プネウマ pneuma {pnyoo‘-mah} (n-gn-s 名詞・属中単)

< πνέω 呼吸する、吹く、風が吹く

1)風、運動している空気 2)(生命力としての、生のエネルギーの根源としての)息、気息、息吹、呼吸、3)精神、心、(知、情、意を代表する 精神生活の座としての)霊 4)霊、霊的存在、悪霊 5)神、(神の霊、キリストの霊、聖霊)

【によって】  ὑπὸ  ὑπό ヒゆポ hupo {hoop-o‘} (pg 前置詞・属)

1) 下に、~の下から 2)~の下に、下の 3)によって 4)~の故に 5)と共に

【荒れ野】 ἔρημον  ἔρημος  エレーモス  erēmos {er‘-ay-mos} (ap-af-s 形容詞・対女単)

1)人の住まない所、荒野、砂漠、無人の地、だれもいない 2)荒れた、荒涼たる 3)寂しい、見捨てられた、孤独な、孤立した 4)群れをなさない、人里離れた 5)~のない、~を欠いた、~を奪われた、~を失った

「神の知識に欠けた土地、異邦人の地」(ユスティノス「ユダヤ人トリュフォンとの対話」)

マタ3:1,3; 4:1; 14:13,15; 24:26;  マル1:3,4,12,13,35,45  ルカ1:80; 3:2,4; 4:1; 8:29;  ヨハ1:23; 3:14;6:31,49; 11:54;  使徒7:30,36,38,42,44; 13:18; 21:38 etc.

【に】 εἰς  εἰς エイス  eis {ice}  (pa 前置詞・対)

1)~の中へ 2)~へ 3)~まで 4)~のために 5)~に対して 6)~に向かって 7)~を目標にして 8)の間に

【連れて行かれた】 ἀνήχθη  ἀνάγω  アナゴー  anagō {an-ag‘-o } (viap–3s 動詞・直・1アオ・受・3単)

< ἀνά + ἄγω 連れる

1)連れて行く、運び上げる 2)連れ戻す 3)上へ導く 4)導き上る 5)引き上げる

マタ4:1;  ルカ2:22; 4:5;  使徒7:41; 9:39; 12:4; 16:34; 27:2; 28:11;  ロマ10:7;  ヘブ13:20

永井訳「そのときイエス悪魔より試みらるべく、荒野にまで霊に連れ往かれ給へり」

詳訳聖書「導かれた<道案内された>」

† 英語訳聖書 Matt. 4:1

King James Version
4:1 Then was Jesus led up of the Spirit into the wilderness to be tempted of the devil.

American Standard Version
4:1 Then was Jesus led up of the Spirit into the wilderness to be tempted of the devil.

New International Version
4:1 Then Jesus was led by the Spirit into the desert to be tempted by the devil.

Bible in Basic English
4:1 Then Jesus was sent by the Spirit into the waste land to be tested by the Evil One.

Darby’s English Translation
4:1 Then Jesus was carried up into the wilderness by the Spirit to be tempted of the devil:

Douay Rheims
4:1 Then Jesus was led by the spirit into the desert, to be tempted by the devil.

Noah Webster Bible
4:1 Then was Jesus led by the Spirit into the wilderness, to be tempted by the devil.

Weymouth New Testament
4:1 At that time Jesus was led up by the Spirit into the Desert in order to be tempted by the Devil.

World English Bible
4:1 Then Jesus was led up by the Spirit into the wilderness to be tempted by the devil.

Young’s Literal Translation
4:1 Then Jesus was led up to the wilderness by the Spirit, to be tempted by the Devil,

Amplified Bible

4:1 Then Jesus was led by the [Holy] Spirit into the wilderness to be tempted by the devil.

† 細き聲 聖書研究ノート

<ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり>

ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられたイエスは、直ちに「御霊に導かれて」荒野に向かわれ、サタンの試みを受けられた。

<荒野>

「荒野」は死海西岸にひろがる「ユダの荒野」である。フランシスコ会訳聖書の注解は「エルサレムとエリコの間の地域」と推定する。しかし、場所を特定することはできていない。

<荒野の試み>

「荒野 ἔρημος  エレーモス」は「試みの場」である。そこで悪魔と神の戦いがなされる。問われ、争われるのは、「人間」についてである。

<悪魔>

「悪魔 διάβολος  ディアボろス」は「中傷する者」の意味で、「偽って告訴する者」である。「διάβολος  ディアボろス」は旧約聖書の「שָׂטָן ‎サターン 」の訳にあてられる。

マタイ12:24では「悪霊の頭  Βεελζεβούλ ベエゼブーる」と呼ばれる。

<偽りの中傷>

ヨブ記でサタンは神に「汝何處より來りしや」と問われて、「地を行めぐり此彼(ここかしこ)經(へ)あるきて來れり」と答える。(ヨブ1:7)

「悪魔 διάβολος  ディアボろス」は、「此彼(ここかしこ)」を「經(へ)歩き」、中傷を集めて回る。「偽りの中傷」をばらまく効果をよく知っている。

<悪魔の誘惑と人間>

「霊の導き」もなく悪魔の試みに向かうべきではない。「悪魔の誘惑」は、人が素手で退けられるものではないからだ。

「悪魔 διάβολος  ディアボろス」という言葉は「魚網を投げる」からきている。彼は獲物に向かって網を投げ、絡めとる。「網」はどこから飛んでくるかわからない。

† 心のデボーション

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

「試み」

イエスを試みへと導いたのは「霊 πνεῦμα プネウマ」であり、同時に「悪魔 διάβολος  ディアボろス」であった。一つの試みに二つの異なる目的と導きがあるということは、「試み」には二重の意味と目的があることを示唆する。

† 心のデボーション

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

「道案内」

「導く ἀνάγω  アナゴー」は「連れて行く、運び上げる」の意味だが、詳訳聖書は<道案内された>と、この語の意味を補う。

聖霊は悪魔の試みを受けられるために、イエスを荒野に「道案内」した。「道案内」がなければ「試み」にたどり着けず、またそこから脱出することもできない。

「試み」は避けたいが、聖霊の「道案内」なら是非もない。しかし、「道案内」が聖霊か悪霊かで経験は異なる。

† 心のデボーション

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

「荒野」

「荒野 ἔρημος  エレーモス」は「人の住まない所、荒野、砂漠」を意味する。 寂しく、見捨てられた、孤独な「無人の地」である。人は内に「荒野 ἔρημος  エレーモス」をもっている。

ドイツの哲学者マックス・シュティルナー Max Stirner (本名 Johann Kasper Schmidt ヨハン・カスバー・シュミット 1806~56)は「孤独は知恵の最善の乳母」と言っている。

内なる「荒野 ρημος  エレーモス」で交わされるのは神と私の対話である。

† 心のデボーション

「偖(さて)イエス聖靈(せいれい)に導(みちび)かれ惡魔(あくま)に試(こころみ)られん爲(ため)に野(の)に往(ゆけ)り」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「そのときイエス悪魔より試みらるべく、荒野にまで靈に連れ往かれ給へり」 永井直治訳聖書

「人間の意味」

荒野でイエスは「神の子」であることの意味を試みられる。それは神に「人間」の意味を問うものでもある。人間の存在が問われるところでは、神の存在も問われている。

(†心のデボーション00088)

† 心のデボーション

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

「霊」

イエスを悪魔の試みに導いたのは「霊 πνεῦμα プネウマ」であった。「霊 πνεῦμα プネウマ」は「悪の存在」を深く知っている。

† 心のデボーション

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

「ヴィッテンベルクのルター」

ルターはヴィッテンベルクのアイゼナッツ近くのヴァルトブルク城(ワーグナーの歌劇「タンホイザー」のモデルになった所)でエラスムス版のギリシャ語テキストを使ってドイツ語聖書の翻訳を完成させた。ルターはわずか3か月でこの仕事を完遂したが、その間しばしばサタンがあらわれ、さまざまな妨害をしたため、サタンに向かってインク壺をなげつけたという。仕事場の粗末な小さな小部屋の壁には最近までルターの作った「インクの染み」が残っていたが、見学者によって削り取られ、今はない。

サタンは翻訳の途中で、ルターの好物のヘーゼルナッツを梁の上で押しつぶして見せたりしたという。ルターはインク壺を投げてから「お前なのか。それではしかたがない」と言い、床に就いたという。

† 心のデボーション

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

「悪魔」

「悪魔 διάβολος  ディアボろス」にとって、真実の言葉に「偽り」を隠すほどたやすいことはない。英語で「誘惑 seduction」は、ラテン語「seducer わきに導く」からきた言葉である。悪魔は真実を「わきに導く」者である。

† 心のデボーション

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

「こころみ」

「こころみ」には「試み」と、「こころ+見る」から「心を見る」という語意がある。すべての「こころみ」が試すのは「こころの深く」である。

† 心のデボーション

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

「血の中傷」

ユダヤ人に対してなされた「血の中傷」と呼ばれる多くの忌まわしい事件がある。ユダヤ人が密かにキリスト教徒の子どもを殺し、その血を過越しの祭りのパンに混ぜたという噂に由来するもので、ユダヤ人への復讐の口実にされた。「血の中傷」がおこなわれ、1171年にはフランスの町ブロアで多くのユダヤ人が閉じ込められた建物が燃やされ、殺害された。歴史に残された「血の中傷」は夥しい数にのぼる。

日本では、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の際に、朝鮮人の集団が震災に乗じて婦女暴行、略奪を行っているという流言飛語が広がり、関東一円で大規模な虐殺、暴行事件が発生している。船橋で23人、神保原で86人、本庄で16人が殺害され、路上に放置された。船橋、神保原、本庄事件は全体の一部であり、6000人の犠牲者が出たとの記録が残されている。(被害者の人数については異説もあり、正確に確定することは現在もできない) この事件は日本におこった「血の中傷」であった。

「血の中傷」は「偽りの中傷」であり、それをばらまくのは「悪魔」である。しかし、それを「悪魔の仕業」とすることで人の罪が消えるものではない。「血の中傷」に動かされ、いわれなき復讐を実行するのは人間であり、犠牲となったのは罪なき民であった。私も含め、それに加担しなかった日本人はいない。

† 細き聲 説教

「御靈によりて」

「ここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり」 マタイ4:1 大正文語訳聖書

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」 新共同訳聖書

ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられたイエスは直ちに御霊に導かれた。サタンの誘惑を受けられるためであった。

信仰生活もしばしば、サタンの試みに「導かれる」。

「導く ἀνάγω  アナゴー」は「連れて行く、運び上げる」の意味だが、詳訳聖書は<道案内された>と、この語の意味を補っている。

「霊」は「神の霊」であって、「神の霊」は御霊をあらわず。

神御自身が試みの場に我らを「連れて行く、運び上げ、道案内される」。

すべての「試み」がサタンからで、神の御霊の道案内によるものとするのは誤りである。キリスト者自らが招く「試み」は少なからずあるからである。

しかし、神の御霊が導かれる試みの場と、そこに待ち受けるサタンの試みというものがあるとき、その「試み」そのものを神の御霊が見守り給うことを忘れてはいけない。

導きの御霊は「試み」への応答も先立って「道案内」し給うからである。

(皆川誠)

コメント