† 福音書対観 「エジプト避難と幼児殺戮」 マタイ2:13~18
マタイ2:13~18
Matt.2:18「叫び泣く大いなる悲しみの声が
ラマで聞えた。
ラケルはその子らのためになげいた。
子らがもはやいないので、
慰められることさえ願わなかった」。
口語訳聖書
† 日本語訳聖書 Matt.2:18
【漢訳聖書】
Matt.2:18 在拉馬聞悲哀號泣重憂之聲、拉結氏哭子、以其無存、故不受安慰。
【明治元訳】
Matt.2:18 歎(なげ)き悲(かなし)み甚(いた)く憂(うれふ)る聲(こゑ)ラマに聞(きこ)ゆラケル其(その)兒子(こども)を歎(なげ)き其(その)兒子(こども)の無(なき)によりて慰(なぐさめ)を得(え)ずと云(いひ)しに應(かな)へり
【大正文語訳】
Matt.2:18 『聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり。 ラケル己が子らを歎き、 子等のなき故に慰めらるるを厭ふ』
【ラゲ訳】
Matt.2:18 曰く「ラマに聲あり、歎にして大なる叫なりけり、ラケル其子等を歎き、彼等の亡きに因り敢て慰を容れず」と。
【口語訳】
Matt.2:18 「叫び泣く大いなる悲しみの声が/ラマで聞えた。ラケルはその子らのためになげいた。子らがもはやいないので、慰められることさえ願わなかった」。
【新改訳改訂3】
Matt.2:18 「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」
【新共同訳】
Matt.2:18 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
【フランシスコ会訳】
Matt.2:18 「ラマで声が聞こえた。嘆きと大きな悲しみの声が、子らのために泣くラケルの声が。彼女は慰めを受けつけない。子らはもはやいないのだから」
【日本正教会訳】
Matt.2:18 ラマに 悲み 哭き 甚しく 號ぶ 聲は 聞ゆ、 ラヒリは 其子の 爲に 哭きて、 慰むるを 欲せず、 子の 無きが 故なりと。
【塚本虎二訳】
Matt.2:18 “声がラマに聞えた、──(ラケルの)”はげしい“わめきと、なげきの声である。ラケルはその子らのために泣くばかりで、慰められようとしない、子らがもういないので。”
【前田護郎訳】
Matt.2:18 「声がラマに聞こえた、それは大きななげきと叫びであった。ラケルはその子らを思って泣き、慰められようとしなかった、子らはもはやいなかったから」と。
【永井直治訳】
Matt.2:18 大なる哭と悲の聲、ラマにて聞えたり。ラケルその兒等のために歎きて慰めらるるを欲せざりき。そは彼等のあらざりしが故なり。
【詳訳聖書】
Matt.2:18 「ラマで声が聞こえた。号泣であり、大声の悲嘆である。ラケルが自分の子どもたちのために泣くのである。彼女は慰められるのを拒んだ。子どもたちがもはや、いなくなったからである」。
【山浦玄嗣訳】
Matt.2:18 ラマに声あり。身も世もなく泣き叫ぶ声なり。子らを悲しみて、ラケル泣き、慰めの言葉に耳を貸すことなし。愛し子らは、最早なければ。
† 聖書引照 Matt.2:18
Matt.2:18 『聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり。 ラケル己が子らを歎き、 子等のなき故に慰めらるるを厭ふ』
[聲ラマにありて聞ゆ] エレ31:15; Ramah
[慟哭なり、いとどしき悲哀なり] エレ4:31; 9:17~21; エゼ2:10; 黙示8:13
[ラケル己が子らを歎き] 創世35:16~20
[子等のなき故に慰めらるるを厭ふ] 創世37:30,33~35; 42:36; ヨブ14:10
† ギリシャ語聖書 Matt.2:18
Stephens 1550 Textus Receptus
φωνη εν ραμα ηκουσθη θρηνοσ και κλαυθμος και οδυρμος πολυς ραχηλ κλαιουσα τα τεκνα αυτης και ουκ ηθελεν παρακληθηναι οτι ουκ εισιν
Scrivener 1894 Textus Receptus
φωνη εν ραμα ηκουσθη θρηνοσ και κλαυθμος και οδυρμος πολυς ραχηλ κλαιουσα τα τεκνα αυτης και ουκ ηθελεν παρακληθηναι οτι ουκ
Byzantine Majority
φωνη εν ραμα ηκουσθη θρηνοσ και κλαυθμος και οδυρμος πολυς ραχηλ κλαιουσα τα τεκνα αυτης και ουκ ηθελεν παρακληθηναι οτι ουκ
Alexandrian
φωνη εν ραμα ηκουσθη κλαυθμος και οδυρμος πολυς ραχηλ κλαιουσα τα τεκνα αυτης και ουκ ηθελεν παρακληθηναι οτι ουκ εισιν
Hort and Westcott
φωνη εν ραμα ηκουσθη κλαυθμος και οδυρμος πολυς ραχηλ κλαιουσα τα τεκνα αυτης και ουκ ηθελεν παρακληθηναι οτι ουκ εισιν
† ギリシャ語聖書 品詞色分け
Matt.2:18
Φωνὴ νἐ ῾Ραμὰ ἠκούσθη, κλαυθμὸς καὶ ὀδυρμὸς πολύς ῾Ραχὴλ κλαίουσα τὰ τέκνα ατὐῆς, καὶ οὐκ ἤθελεν παρακληθῆναι, ὅτι οὐκ εἰσίν.
† ヘブライ語聖書 Matt.2:18
Matt.2:18
“קוֹל בְּרָמָה נִשְׁמָע, נְהִי בְּכִי תַמְרוּרִים, רָחֵל מְבַכָּה עַל־בָּנֶיהָ, מֵאֲנָה לְהִנָּחֵם כִּי אֵינָם.”
† ラテン語聖書 Matt.2:18
Latin Vulgate
Matt.2:18
Vox in Rama audita est ploratus, et ululatus multus: Rachel plorans filios suos, et noluit consolari, quia non sunt.
“A voice has been heard in Ramah, great weeping and wailing: Rachel crying for her sons. And she was not willing to be consoled, because they were no more.”
~ Notice that the words ‘ploratus, plorans’ are translated differently, as ‘weeping, crying.’ It sometimes happens that the same word used twice is translated by two different words in English, or that two different words in Latin are translated by the same word in English. To translated the same word in Latin by always the same word in English would result in a translation that was, at best, stilted, and, at worst, inaccurate or incorrect.
† 私訳(詳訳)Matt.2:18
【私訳】 「ラマで叫び声<声、騒音>が聞こえた。激しく<大きく、強い、夥しい>嘆き<悼み、悲嘆、悲痛、哀悼、悩み>、そして、悲しみ<悲痛、嘆き、悲嘆、哀悼、悩み>の声。ラケルはその子供たち<息子、子孫>のことで声を出して泣き<泣き叫び、死を悼み>、慰め<慰めてもらう、励まされる、力づけられる、なだめられる>を拒んだ。なぜなら、〔子供たちは〕もういない<存在していない>から」
† 新約聖書ギリシャ語語句研究
Matt.2:18
Φωνὴ νἐ ῾Ραμὰ ἠκούσθη, κλαυθμὸς καὶ ὀδυρμὸς πολύς ῾Ραχὴλκλαίουσα τὰ τέκνα ατὐῆς, καὶ οὐκ ἤθελεν παρακληθῆναι, ὅτι οὐκ εἰσίν.
【ラマで】 ἐν Ραμ῾ὰ
【ラマ】 ῾Ραμὰ ῾Ραμά ラマ Rhama {hram-ah‘} (n-df-s 名詞・与女単)
ラマ ヘブル語 「高き所」
エルサレムの北8キロに位置し、バビロンの王ネブカデザルがエルサレムを占領したとき、ここでイスラエル人の殺害が行なわれ、人々はバビロンの捕囚となった。ラマの「ベツレヘムへの道」にラケルの墓があった(Ⅰサムエル10:2)
マタ2:18;
【で】 ἐν ἐν エン en {en} (pd 前置詞・属)
1)~の中に、~の間に 2)~の上に 3)ところに、のそばに 4)で 3)よって 5)に
【声が】 Φωνὴ φωνή ふォーネー phōnē {fo-nay‘} (n-nf-s 名詞・主女単)
1)音声、声、音、響き、鳴き声 2)言葉、言語、国語 3)叫び、響き 4)騒音、物音
マタ3:17; 12:19; 17:5; マル1:3,11; ルカ1:42; 9:35; ヨハ1:23: 10:3;,4,16,27: 12:30; 18:37; 使徒9:1; 22:14; 24:14; ガラ4:20; Ⅰテサ4:16; Ⅱペテ1:17; 2:16; 黙示1:10; 3:20
【聞こえた】 ἠκούσθη ἀκούω アクーオー akouō {ak-oo‘-o} (viap–3s 動詞・直・1アオ・受・3)
1)聞く、傾聴する、伝え聞く 2)耳に入る、知らせを受け取る、聞こえる 3)耳を傾ける、聞き従う、理解する 4)~と呼ばれる
マタ2:3,9; 7:24; 13:15; 17:5; マル7:14; 8:18; ルカ2:46; 5:1; 7:22; 8:18; 9:35; 19:48; 20:45; ヨハ5:24;9:31; 使徒3:22; 4:19; 12:13; 13:16; 15:12; 22:1; ロマ10:17; ガラ3:2,5; etc.
【激しく】 πολύς πολύς ポりゆス polus polos {pol-oos‘} (a–nm-s 形容詞・主男単)
1)(数が)多い、よリ多く、余る、余分にある、十分過ぎる、ほどである、余裕がある、余計である 2)(大きさ、強さ、程度の)大きい、激しい、大いなる、非常な、重大な、3)おびただしい、幾多の、幾つもの、大量の 4)より永い、より先の 5)価値の高い、より優れた、より大切な
【嘆き】 κλαυθμςὸ κλαυθμός クらウトモス klauthmos {klowth-mos‘} (n-nm-s 名詞・主男単)
< κλάω 泣き叫ぶ、なげく
1)声を出して泣く、泣くこと、泣き叫ぶこと、泣き悲しむ 2)死を嘆く 3)悼む、嘆く
マタ2:18; 8:12; 使徒20:37
【そして】 καὶ καί カイ kai {kahee} (cc 接続詞・等位)
1)~と、~も、そして 2)~さえ、でさえも 3)しかし 4)しかも、それは 5)それでは、それだのに 6)そうすれば、すなわち 7)のみならず、もまた
【悲しむ】 ὀδυρμςὸ ὀδυρμός オドゆルモス odurmos {od-oor-mos‘} (n-nm-s 名詞・主男単)
< ὀδύρομαι 嘆く
1)嘆き、悲しむ 2)悲嘆、悲痛、哀悼 3)悩み
マタ2:18; Ⅱコリ:7:7
【激しく嘆き悲しむ声】 原文「大いなる嘆きと悲しみの声」永井訳。
【ラケルは】 ῾Ραχλὴ ῾Ραχήλ ラけーる Rhachēl {hrakh-ale‘} (n-nf-s 名詞・主女単)
ラケル ヘブル名「牝羊」
マタ2:18
【子供たちのことで】 τ τέκνα αὰὐτςῆ
【彼女の】 ατὐῆς αὐτός アウトス autos {ow-tos‘} (npgf3s 代名詞・属女3)
1)彼、彼女、それ(三人称の代名詞) 2)自身で、自分から、自分として(強調用法) 3)同じ同一の 4)まさに、ちょうど
【子供たちのことで】 τέκνα τέκνον テクノン teknon {tek‘-non} (n-an-p 名詞・対中複)
< τίκτω 生まれたもの
1)子、子ども 2)息子 3)弟子 4)子孫
マタ2:18; 3:9; 7:11;10:21; 15:25; マル7:27; 12:19; 13:12; ルカ1:17; 3:8; 14:26; 使徒7:5; 21:5 etc.
【泣き】 κλαίουσα κλαίω クらイオー klaiō {klah‘-yo} (vppanf-s 分詞・現能主女単)
1)声を出して泣く、泣く、泣き叫ぶ 2)死を嘆く、悼む
マタ2:18; 26:75; マル5:38;,39; 14:72; 16:10; ルカ6:21,25; 7:13,32,35; 8:52; 19:41; 22:62; 23:23; ヨハ11:33; 16:20; 20:11 etc.
【そして】 καὶ καί カイ kai {kahee} (cc 接続詞・等位)
1)~と、~も、そして 2)~さえ、でさえも 3)しかし 4)しかも、それは 5)それでは、それだのに 6)そうすれば、すなわち 7)のみならず、もまた
【慰めて】 παρακληθναιῆ παρακαλέω パラカれオー parakaleō {par-ak-al-eh‘-o} (vnap 不定詞・1アオ)
< παρά 傍らに + καλέω 呼ぶ
1)傍らに招く、側に呼ぶ、側へ呼び寄せる、呼び求める、呼び掛ける 2)さとす、慰める、励ます、力づける、なだめる 3)要求する、必要とする 4)懇願する、嘆願する、願う
マタ2:18; 5:4; ルカ16:25; 使徒20:12; Ⅱコリ1:4,5; 2:7; 7:6,7,13; 13:11; Ⅰテサ3:7 eyc.
【もらおうともしない】 οκ ὐἤθελεν
【したいと思う】 ἤθελεν θέλω てろー thelō ethelō {thel‘-o, eth-el‘-o} (viia–3s 動詞・直・未完・能・3単)
1)欲する、望む、願望する、したいと思う、主張する 2)~の気がある、気が向く、用意がある、~しようとする、心に持つ、(~する)つもりである、志す、決意する 3)好む 4)心に持つ 5)惑わす、呪縛する
マタ1:19; 2:18; 5:40; 9:23; 12:38; 13:28; 23:4; マル3:13; 6:22; ルカ1:62; 10:29;15:28; ヨハ5:21; etc.
【しない】 οκὐ οὐ ウー ou {oo} (qn 不変化詞・否定)
1)否 2)~ない 3)~でない
【子供たちはもういないからだ】 ὅτι οκ εὐἰσίν
【なぜなら】 ὅτι ὅτι ホティ hoti {hot‘-ee} (cs 接続詞・従位)
1)~ということ 2)なぜなら~だから、というのは~だから、すなわち 3)~であるから 4)というのは
【子どもたちがいる】 εσίνἰ εἰμί エイミ eimi {i-mee‘} (vipa–3p 動詞・直・現・能・3複)
1)ある、いる、~である、~です、~だ 2)行われる、おこる、生ずる、現れる、来る 3)いる、滞在する、とどまる 4)存在する 5)生きている
【ない】 οκὐ οὐ ウー ou {oo} (qn 不変化詞・否定)
1)否 2)~ない 3)~でない
† 英語訳聖書 Matt.2:18
King James Version
2:18 In Rama was there a voice heard, lamentation, and weeping, and great mourning, Rachel weeping [for] her children, and would not be comforted, because they are not.
American Standard Version
2:18 A voice was heard in Ramah, Weeping and great mourning, Rachel weeping for her children; And she would not be comforted, because they are not.
New International Version
2:18 ”A voice is heard in Ramah, weeping and great mourning, Rachel weeping for her children and refusing to be comforted, because they are no more.”
Bible in Basic English
2:18 In Ramah there was a sound of weeping and great sorrow, Rachel weeping for her children, and she would not be comforted for their loss.
Darby’s English Translation
2:18 A voice has been heard in Rama, weeping, and great lamentation: Rachel weeping for her children, and would not be comforted, because they are not.
Douay Rheims
2:18 A voice in Rama was heard, lamentation and great mourning; Rachel bewailing her children, and would not be comforted, because they are not.
Noah Webster Bible
2:18 In Rama was there a voice heard, lamentation, and weeping, and great mourning, Rachel weeping for her children, and would not be comforted, because they are not.
Weymouth New Testament
2:18 ‘A voice was heard in Ramah, wailing and bitter lamentation: It was Rachel bewailing her children, and she refused to be comforted because there were no more.’
World English Bible
2:18 ‘A voice was heard in Ramah, Lamentation, weeping and great mourning, Rachel weeping for her children; She wouldn’t be comforted, because they are no more.’
Young’s Literal Translation
2:18 ‘A voice in Ramah was heard — lamentation and weeping and much mourning — Rachel weeping for her children, and she would not be comforted because they are not.’
Amplified Bible
2:18 “A voice was heard in [f]Ramah,
Weeping and great mourning,
[g]Rachel weeping for her children;
She refused to be comforted,
Because they were no more.”
Footnotes:
[f]Ramah was located five miles north of Jerusalem, this city was a staging point for the deportation of Jews to Babylon under Nebuchadnezzar in 586 b.c.
[g]A reference to Jacob’s (Israel’s) wife Rachel as the mother of the children of Israel. Here, her grief over the slaughter of babies by Herod parallels the grief of Israel when they were conquered and deported by the Babylonians. The image is that of Rachel weeping for the children of Israel from her grave. Matthew takes Jeremiah’s words, which originally referred to grief over Babylonian captivity, and applies them to Herod’s slaughter of the babies.
† 細き聲 聖書研究ノート
<聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり。 ラケル己が子らを歎き、 子等のなき故に慰めらるるを厭ふ>
本節はエレミヤ31:15からの引用である。マタイはヘロデ王の幼児殺害によっていのちを断たれたベツレヘムの女たちの嘆きを、預言者エレミヤの苦しんで生んだ子を胸に抱くことの許されない母ラケルの慰められることを拒んで激しく泣く声と聞く。(創世記35:16~19)
<ラマ>
ラケルはヨセフを生んだ後、さらにもう一人の子を求めたが、陣痛で苦しみベニヤミンを出産して後死亡し、ラマに葬られた。ラマはイスラエルがバビロン捕囚の時の集合地でもあった。(エレミヤ40:1)イスラエルは「ラマ」に集結し、そこからバビロンに連行された。このとき、人々の胸に我が子イスラエルを抱くことができずに嘆く母ラケルの声が悲しく響いたのである。(ラマは現在の「ラモット Lamothe」で、街の北西に預言者サムエルの墓があり、その上に教会が建てられていたが、その後、イスラム教のモスクに改築され、現在は同じ建物にモスクとシナゴーグがある。)
<人は声を上げて泣き、黙して泣く>
「泣く κλαίω クらイオー」は「声を上げて泣き叫ぶ」。「嘆く」は「悲痛、悲嘆」である。大切な存在を失って、人は声を上げて泣き、黙して泣く。
<君は「ラマ」を知っているか>
君は「ラマ」を知っているか。聞こえるのは「激しく πολύς ポりゆス 大きな」「嘆き klauqmo,j クラウトモス 声を出してなく、死を嘆く、悼む、泣き叫び」「悲しむ ὀδυρμός オドゆルモス 嘆き、悲しむ、悲嘆、悲痛、哀悼」の声だ。「ラマ」は祈りの地である。
「ラマ」を訪ねるな。「ラマ」は君に近いところなのだし、君のいるところからしか見えないのだから。
<慰めを拒む>
「慰め παρακαλέω パラカれオー」は「傍らに呼ぶ」こと。ラケルは「慰められることを拒み」、傍らに呼び寄せる者の胸の中で泣く。深い悲しみは「慰め」を拒む。悲しみや痛みをできるだけ早く終わらせよとしないこと。イエスに「傍らに呼ばれる」まで、悲しみに心を開き、痛みに深く傷つくままにまかせること。
<小さな殉教者>
ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子が殺害された。ローマ兵はドアを開けた母親の腕に眠る嬰児を奪い剣で受け止めた。わが子を殺害された悲しみはいつまでも親の心を締めつける。救い主の誕生による最初の犠牲者は、その数も定かでない「小さな殉教者」であった。
† 心のデボーション
「聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり。 ラケル己が子らを歎き、 子等のなき故に慰めらるるを厭ふ」 マタイ2:18 大正文語訳聖書
「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」 新改訳聖書
「葡萄の涙」
春に、剪定されたぶどうの枝先から樹液が落ちるのを「葡萄の涙」という。スペインでは収穫したぶどうは長靴をはいた足で踏み潰し、「ラグリマ lagrima 涙」と呼ばれる最初の糖度の高いブドウ・ジュースを絞り出す。男たちはそれを飲みながら作業をする。これがスペインの「葡萄の涙 Lagrimas de uvas」である。
「葡萄の涙」は厳寒の冬を過ごして、眠っていたぶどうが活動をはじめて流す苦しみの涙であり、やがてそれは甘いぶどうに凝縮される。ぶどうの樹が流した涙は糖度の高いぶどう液になる。
子を失った母の流す涙は、いつ糖度の高いぶどう酒に醸成されるのだろか。
(†心のデボーション00151)
† 心のデボーション
「聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり。 ラケル己が子らを歎き、 子等のなき故に慰めらるるを厭ふ」 マタイ2:18 大正文語訳聖書
「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」 新改訳聖書
「慟哭の声」
人々はラマで「慟哭 (どうこく)」の声を聞いた。
「慟哭」の「慟」は「心」+「動」で、身体を上に下に激しく動かして泣くこと。「哭」は「口」が二つに「犬」と書き、犬は元々激しく吠える動物で、その口が二つで、「はばかることなく激しく泣く」こと。子を失った母の悲哀の声である。
† 心のデボーション
「聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり。 ラケル己が子らを歎き、 子等のなき故に慰めらるるを厭ふ」 マタイ2:18 大正文語訳聖書
「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」 新改訳聖書
「ラケルの涙」
ラケルは子がなく長い間悲しんだが、ついにヨセフとベニヤミンの二人の子を生んだ。出産にあたり、ひどい陣痛に襲われベニヤミン出産直後にラケルは亡くなった。「ラケルの涙」は生まれた子を胸に抱くことを許されなかった母親の嘆きである。
† 心のデボーション
「聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり。 ラケル己が子らを歎き、 子等のなき故に慰めらるるを厭ふ」 マタイ2:18 大正文語訳聖書
「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」 新改訳聖書
「ラマで声がする」
ラケルは二人目の男の子ベニヤミンを出産するときひどい陣痛に苦しみ、出産の後に死亡した。ラマにラケルの墓があった。イスラエルの民がラマからバビロニアに捕囚として連行される時、民はラケルの墓から我が子を失って泣くラケルの声を聞いた。
母は自分が亡くなった後も、「我が子」を見守り、「私の子どもがいない」と声を上げて泣く。
天では神が「わたしの子がいない」と泣かれる。
(†心のデボーション00229)
† 心のデボーション
「ヱホバかくいひ給ふ汝の聲を禁(とどめ)て哭(なく)こと勿れ汝の目を禁(とどめ)て涙を流すこと勿れ汝の工(わざ)に報(むくい)あるべし彼らは其敵の地より歸らんとヱホバいひたまふ 汝の後の日に望あり兒子(こども)等その境に歸らんとヱホバいひたまふ」 エレミヤ31:16~17 明治元訳聖書
「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰ってくる」 新共同訳聖書
「後の日に望(のぞみ)あり」
マタイはヘロデに我が子を殺害されて悲しむベツレヘムの母親たちに「ヱホバかくいひ給ふ汝の聲を禁(とどめて哭(なく)こと勿れ汝の目を禁(とどめ)て涙を流すこと勿れ」「兒子(こども)等その境に歸らんとヱホバい
ひたまふ」とエレミヤの言葉を語る。
エレミヤは「後の日」に殺害された子どもたちが復活し、いのちが回復すると告げる。
「汝の後の日に望(のぞみ)あり」エレミヤ31:17
そして、マタイは「後の日の望み」がイエスであることを示す。
「後の日に望み有り」と信じて、望みなき日々を生きる。
(†心のデボーション00152)
† 細き聲 説教
「芥川龍之介の『手巾 はんけち』」
「聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり。 ラケル己が子らを歎き、 子等のなき故に慰めらるるを厭ふ」 マタイ2:18 大正文語訳聖書
「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」 新改訳聖書
芥川龍之介の『手巾 はんけち』で、東京帝国法科大学教授、長谷川謹造先生はある日、西山篤子と名乗る女性の訪問を受ける。彼女の息子は長谷川先生の教え子だったが、腹膜炎に罹り大学病院に入院していた。たが、婦人は「あれもとうとう、いけませんでした」と息子の死を「落ち着いた、滑らかな調子で」先生に告げる。
自分の息子の死を語っているのに、その目に涙もなく、その上「微笑さえ浮かべて」いる。「先生にはこれが不思議」であった。
しかし、何かの拍子に団扇が椅子から落ちた。半身をのり出して床に手を伸ばしたとき、テーブルの下に、偶然婦人の膝が見え、膝の上には、「手巾 はんけち」を持った手がのっており、その手が「はげしく、ふるえている」のに気がついた。膝の上の「手巾 はんけち」を、両手で裂かんばかりに「堅く、握っていた」。
「婦人は、顔でこそ笑つていたが、實はさつきから、全身で泣いてゐたのである」。
長谷川先生はこの事件を材料に、所感を書いてある雑誌に送ろうと思いながら、読みかけのストリントベルクの言葉に目を止める。そこにはハイベルク夫人の「手巾 はんけち」について「顔は微笑していながら、手は手巾を二つに裂くという、二重の演技であった。それを我等は今、臭味(メツツヘン)と名づける」とあった。
長谷川先生の心に「平穏な調和を破ろうとする、得体の知れない何物か」がひろがる。
(芥川龍之介 『手巾 はんけち』 文中の長谷川謹造先生は、『武士道』を書いた新渡戸稲造がモデルである)
いかなる「悲しみ」もそれが表現されるとき、いささかの「臭味(メツツヘン)」がする。うその匂いだ。すべての感情は表現されたとき純粋さを失う。だが、そのような感情表現であっても、それを笑うことも、恥じることもすまい。
「人は外の貌(かたち)を見 ヱホバは心をみるなり」Ⅰサムエル16:7
それがいささかの「臭味(メツツヘン)」のする哀しみであれ、神はその「心」を見たもう。
「かれは侮られて人にすてられ 悲哀の人にして病患をしれり また面をおほひて避ることをせらるる者のごとく侮られたり われらも彼をたふとまざりき まことに彼はわれらの病患をおひ我儕のかなしみを擔へり 然るにわれら思へらく彼はせめられ神にうたれ苦しめらるるなりと」 イザヤ53:3∼4
それは神御自身が「哀の人にして病患をしり」、「われらの病患をおひ我儕のかなしみを擔い」給うからである。
「然どヱホバ言たまふ 今にても汝ら斷食と哭泣と悲哀とをなし心をつくして我に歸れ」 ヨエル2:12
「心を尽くし、断食と、涙と、嘆き」をもって神に立ち返れ。
(皆川誠)
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