マタイによる福音書1章14節

マタイによる福音書
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† 福音書対観 「イエスの系図」 マタイ1:1~17

マタイ1:1~17  ルカ3:23~38  (ヨハネ1:1~18)
マタイ1:1~17

Matt. 1:14アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、口語訳聖書

† 日本語訳聖書 Matt. 1:14

【漢訳聖書】
Matt. 1:14 亞所生撒鐸、撒鐸生亞金、亞金生以律、

【明治元訳】
Matt. 1:14 アゾル、ザドクを生(うみ)ザドク、アキムを生(うみ)アキム、エリウデを生(うみ)

【大正文語訳】
Matt. 1:14 アゾル、サドクを生み、サドク、アキムを生み、アキム、エリウデを生み

【ラゲ訳】
Matt. 1:14 アゾル サドクを生み、サドク アキムを生み、アキム エリユドを生み、

【口語訳】
Matt. 1:14 アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、

【新改訳改訂3】
Matt. 1:14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、

【新共同訳】
Matt. 1:14 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、

【バルバロ訳】
Matt. 1:14 アゾルはサドクを生み、サドクはアキムを生み、アキムはエリウドを生み、

【フランシスコ会訳】
Matt. 1:14 アゾルの子はサドク、サドクの子はアキム、アキムの子はエリウデ、

【日本正教会訳】
Matt. 1:14 アゾルはサドクを生み、サドクはアヒムを生み、アヒムはエリウドを生み、

【塚本虎二訳】
Matt. 1:14 アゾルの子はサドク、サドクの子はアキム、アキムの子はエリウデ、

【前田護郎訳】
Matt. 1:14 アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、

【永井直治訳】
Matt. 1:14 またアゾルはザドクを生めり。またザドクはアキムを生めり。またアキムはエリウデを生めり。

【詳訳聖書】
Matt. 1:14 アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、

† 聖書引照 Matt. 1:14

Matt. 1:14 アゾル、サドクを生み、サドク、アキムを生み、アキム、エリウデを生み
旧約聖書にこれらの人物についての記述はない。

† ギリシャ語聖書 Matt. 1:14

Stephens 1550 Textus Receptus
αζωρ δε εγεννησεν τον σαδωκ σαδωκ δε εγεννησεν τον αχειμ αχειμ δε εγεννησεν τον ελιουδ

Scrivener 1894 Textus Receptus
αζωρ δε εγεννησεν τον σαδωκ σαδωκ δε εγεννησεν τον αχειμ αχειμ δε εγεννησεν τον ελιουδ

Byzantine Majority
αζωρ δε εγεννησεν τον σαδωκ σαδωκ δε εγεννησεν τον αχειμ αχειμ δε εγεννησεν τον ελιουδ

Alexandrian
αζωρ δε εγεννησεν τον σαδωκ σαδωκ δε εγεννησεν τον αχειμ αχειμ δε εγεννησεν τον ελιουδ

Hort and Westcott
αζωρ δε εγεννησεν τον σαδωκ σαδωκ δε εγεννησεν τον αχειμ αχειμ δε εγεννησεν τον ελιουδ

† ギリシャ語聖書 品詞色分け

Matt. 1:14

᾽Αζὼρ δὲ ἐγέννησεν τὸν ΣαδώκΣαδὼκ δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Αχίμ᾽Αχὶμ δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ελιούδ,

† ヘブライ語聖書 Matt. 1:14

Matt. 1:14

עַזּוּר הוֹלִיד אֶת צָדוֹק, צָדוֹק הוֹלִיד אֶת יָכִין וְיָכִין הוֹלִיד אֶת אֱלִיהוּד.

† ラテン語聖書 Matt. 1:14

Latin Vulgate
Matt. 1:14

Azor autem genuit Saddoc Saddoc autem genuit Achim Achim autem genuit Eliud
And Azor conceived Zadok. And Zadok conceived Achim. And Achim conceived Eliud.

† 私訳(詳訳)Matt. 1:14

【私訳】 「またアゾルはサドクをもうけた、またサドクはアキムをもうけた、またアキムはエリウドをもうけた」

† 新約聖書ギリシャ語語句研究

Matt. 1:14

᾽Αζὼρ δὲ ἐγέννησεν τὸν Σαδώκ, Σαδὼκ δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Αχίμ, ᾽Αχὶμ δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ελιούδ,

【また】 δὲ  δέ  デ de {deh} (cc 接続詞・等位)

1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ

【アゾルは】 ᾽Αζώρ  ᾽Αζώρ  アゾール Azōr {ad-zore‘}  (n-nm-s 名詞・主男単)

アゾル  ヘブル名 意味不明

マタ1:13,14

【サドクを】 Σαδώκ  Σαδώκ  サドーク  Sadōk {sad-oke‘} (n-am-s 名詞・対男単)

サドク  ヘブル名「義しい」

マタ1:14

【もうけ】 ἐγέννησεν  γεννάω  ゲンナオー  gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)

1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる

マタ1:2,16,20; ヨハ1:13; 3:3,5;  Ⅰヨハ4:7; 5:1

【また】 δὲ  δέ  デ de {deh} (cc 接続詞・等位)

1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ

【サドクは】 Σαδώκ  Σαδώκ  サドーク  Sadōk {sad-oke‘}  (n-nm-s 名詞・主男単)

サドク  ヘブル名「義しい」

マタ1:14

【アキムを】  ᾽Αχίμ  ᾽Αχίμ  アきム Acheim {akh-ime‘} (n-am-s 名詞・対男単)

アキム  ヘブル名「固くする」

マタ1:14

【もうけ】 ἐγέννησεν  γεννάω  ゲンナオー  gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)

1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる

マタ1:2,16,20; ヨハ1:13; 3:3,5;  Ⅰヨハ4:7; 5:1

【また】 δὲ  δέ  デ de {deh} (cc 接続詞・等位)

1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ

【アキムは】  ᾽Αχίμ  ᾽Αχίμ  アきム Acheim {akh-ime‘}  (n-nm-s 名詞・主男単)

アキム  ヘブル名「固くする」

マタ1:14

【エリウドを】  ᾽Ελιούδ  ᾽Ελιούδ  エりウード Elioud {el-ee-ood‘} (n-am-s 名詞・対男単)

エリウデ  ヘブル名 意味不明

マタ1:14

【もうけ】 ἐγέννησεν  γεννάω  ゲンナオー  gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)

1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる

マタ1:2,16,20; ヨハ1:13; 3:3,5;  Ⅰヨハ4:7; 5:1

† 英語訳聖書 Matt. 1:14

King James Version
1:14 And Azor begat Sadoc; and Sadoc begat Achim; and Achim begat Eliud;

American Standard Version
1:14 and Azor begat Sadoc; and Sadoc begat Achim; and Achim begat Eliud;

New International Version
1:14  Azor the father of Zadok, Zadok the father of Akim, Akim the father of Eliud,

Bible in Basic English
1:14 And Azor had Zadok; and Zadok had Achim; and Achim had Eliud;

Darby’s English Translation
1:14 and Azor begat Sadoc, and Sadoc begat Achim, and Achim begat Eliud,

Douay Rheims
1:14 And Azor begot Sadoc. And Sadoc begot Achim. And Achim begot Eliud.

Noah Webster Bible
1:14 And Azor begat Sadoc; and Sadoc begat Achim; and Achim begat Eliud;

Weymouth New Testament
1:14 Azor of Zadok; Zadok of Achim; Achim of Eliud;

World English Bible
1:14 Azor became the father of Sadoc. Sadoc became the father of Achim. Achim became the father of Eliud.

Young’s Literal Translation
1:14 and Azor begat Sadok, and Sadok begat Achim, and Achim begat Eliud,

Amplified Bible
1:14 Azor was the father of Zadok, Zadok the father of Achim, and Achim the father of Eliud.

† 細き聲 聖書研究ノート

<アゾル、サドクを生み、サドク、アキムを生み、アキム、エリウデを生み>

これらの名前は旧約聖書にも見出すことができない。しかし、ダビデ王の家系は記録され続けられる。

<系図 マタイ1:14 アゾルの子>

アゾル   以後の人物について旧約聖書には記述がない。

サドク

アキム

エリウデ

<苦難と信仰>

これらはバビロン捕囚後の人々である。捕らわれ人としての生活は困難を極めたが、苦難はイスラエルに神の民としての民族再起の原動力になった。

苦難は信仰を鍛える。しかし、平穏もまた再起の力である。「苦難」が物事を新しくするのではなく、新しい人が物事を変える。人は「今、ここ」に生きるべき者であり、変革を期待して苦難を望むべきでは勿論ない。

† 心のデボーション

「われ掌(たなごころ)になんぢを彫刻(きざ)めり なんぢの石垣はつねにわが前にあり」 イザヤ49:16 明治元訳聖書

「たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」 イザヤ49:15~16 明治元訳聖書

「たなごころ」

マタイ1:14に記される人々を我々は知らない。彼等は記録もない「名もなき人々」である。しかし、その名は神の手に刻み込まれている。神は「私」の名を記憶したもう。それゆえに私は「名もなき人」として生きることができる。

「たなごころ」は漢字で「掌」と書くが、「たな」は「手」、「こころ」は「心」で「手の心」すなわち「手の中心」を意味する。神はわたしを「手の中心」に受けとめ、その名を刻みつけられる。失われることはない。

(†心のデボーション00737 マタイ1:14)

† 心のデボーション

「縦(たと)ひかれら忘るることありとも我はなんぢを忘るることなし」 イザヤ49:15 明治元訳聖書

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎のこをあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」 新改訳聖書

「我はなんぢを忘るることなし」

母は乳飲み子を忘れはしない。しかし、たとえ私を生んだ母が私を忘れることがあったとしても、私を創られた神は私を忘れはしない。

人にはイエスの系図の後半の私の知らない人々のように、「忘れられる」時期がある。しかし、それは空白ではない。時の刻むもので無意味なものは何一つない。

(†心のデボーション00742 マタイ1:14)

† 細き聲 説教

「輪廻思想」

「アブラハム遐齡に及び老人となり年滿て氣たえ死て其民に加る」 創世記25:8 明治元訳聖書

旧約聖書には「輪廻 Transmigration」の思想がない。人間は一回限りの自己のいのちを生き、そして死ぬ。そのどれとして同じものはない。人間の存在の目標は「来世」ではなく、「私」という命を全うすることにある。旧約のユダヤ人にとっては「この世」がすべててあり、見える世界こそが生きる場であった。

マタイの福音書の冒頭にある「イエス・キリストの系図」(マタイ1:1~17)は、アブラハムからイエス・キリストまでの「系図」であるが、そこには聖書の「人間」へのメッセージが現されている。

系図に載せられた人々のうちアブラハムからアビウデまで(マタイ1:2~13)は旧約聖書に記録されており、私たちはそれぞれの生涯を知ることができる。しかし、アビウデ以下の人々については旧約聖書にまったくその名すら見出すことはできない。

名のある者あり、名無き者もある。しかし、「系図」の人々は皆、それぞれのいのちを一回限りの「私」として生きた。彼らは決して「後の世」の爲に生きるのではなく、ひたすらに今目前にある一人の自己の苦悩と喜びを生きたのである。

信仰の父アブラハムも見知らぬ人エリヤキムも等しく一個の人間である。

アブラハムは「アブラハム」といういのちを生き、そして終わった。アブラハムのいのちと信仰はアブラハムひとりのものである。

漢字に「貫」という字がある。最初から最後まで一つの立場を通すという意味である。

「貫」は「毌 (つらぬくもの)」+「貝」から構成され、銭や貨幣の貝をつらぬきとめることから来ている。

人間は一貫してつらぬき通すべき「私」というものがある。一回限りのいのちである。

しかし、私たちは、そのように一人の「私」を生き抜いた人々が、珠を連ねた一本の数珠のように

「イエスの系図」としてつらぬきとめられているのを見る。ここに、もう一つの「貫」がある。

「イエスの系図」に貫かれる人々は、アブラハムだけではない。マタイ1:14以後の名も知られぬ人々も、その存在の一つでも欠けば、全体がばらけてしまう一人として存在した。

すべての人は、「私」というものの内には歴史の全体をつなぐ一本の「貫」を持っている。

「貫」の先にはイエスがおられる。

(皆川誠)

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