† 福音書対観 「イエスの系図」 マタイ1:1~17
マタイ1:1~17 ルカ3:23~38 (ヨハネ1:1~18)
マタイ1:1~17
Matt. 1:11ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。 口語訳聖書
† 日本語訳聖書 Matt. 1:11
【漢訳聖書】
Matt. 1:11 民見徙於巴比倫時、約西亞生耶哥尼亞及其諸兄弟。
【明治元訳】
Matt. 1:11 バビロンに徙(うつ)さるる時(とき)ヨシヤ、エホヤキンと其(その)兄弟(きやうだい)を生(うみ)
【大正文語訳】
Matt. 1:11 バビロンに移さるる頃、ヨシヤ、エコニヤとその兄弟らとを生めり。
【ラゲ訳】
Matt. 1:11 バビロンに移さるる頃ヨジア イエコニアと其兄弟等とを生み、
【口語訳】
Matt. 1:11 ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。
【新改訳改訂3】
Matt. 1:11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
【新共同訳】
Matt. 1:11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
【バルバロ訳】
Matt. 1:11 バビロンに移されるころ、ヨジアはコニアとその兄弟たちを生んだ。
【フランシスコ会訳】
Matt. 1:11 ヨシヤの子はバビロン追放当時の、エコニヤとその兄弟たちである。
【日本正教会訳】
Matt. 1:11 イヲシヤはイヲアキムを生み、イヲアキムは、ワワィロンに徒(うつ)さるる前、イエホニヤ及び其兄弟(けいてい)を生み、
【塚本虎二訳】
Matt. 1:11 ヨシヤ(王)の子は、バビロン追放の当時、エコニヤ(王)とその兄弟たちであった。
【前田護郎訳】
Matt. 1:11 ヨシヤはバビロン追放のころエコニヤとその兄弟らの父となった。
【永井直治訳】
Matt. 1:11 またバビロンに移さるる時に當りて、ヨシアはエコニアとその兄弟等とを生めり。
【詳訳聖書】
Matt. 1:11 そしてヨシヤは、バビロンへ移される<移送される>当時、エコニヤとその兄弟たちの父となった。
† 聖書引照 Matt. 1:11
Matt. 1:11 バビロンに移さるる頃、ヨシヤ、エコニヤとその兄弟らとを生めり。
[バビロンに移さるる頃] Ⅱ列王24:14~15; エレ27:20
[ヨシヤ] Ⅰ列王1Ki 13:2; Ⅱ列王21:23~26; 22:1~20; 23:1~30; Ⅱ歴代33:24~25; 34:1~33; 35:1~27; エレ1:2,3
[エコニヤとその兄弟ら] Ⅱ列王24:8~17
† ギリシャ語聖書 Matt. 1:11
Stephens 1550 Textus Receptus
ιωσιας δε εγεννησεν τον ιεχονιαν και τους αδελφους αυτου επι της μετοικεσιας βαβυλωνος
Scrivener 1894 Textus Receptus
ιωσιας δε εγεννησεν τον ιεχονιαν και τους αδελφους αυτου επι της μετοικεσιας βαβυλωνος
Byzantine Majority
ιωσιας δε εγεννησεν τον ιεχονιαν και τους αδελφους αυτου επι της μετοικεσιας βαβυλωνος
Alexandrian
ιωσιας δε εγεννησεν τον ιεχονιαν και τους αδελφους αυτου επι της μετοικεσιας βαβυλωνος
Hort and Westcott
ιωσιας δε εγεννησεν τον ιεχονιαν και τους αδελφους αυτου επι της μετοικεσιας βαβυλωνος
† ギリシャ語聖書 品詞色分け
Matt. 1:11
᾽Ιωσίας δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ιεχονίαν καὶ τοὺς ἀδελφοὺς αὐτοῦ ἐπὶ τῆς μετοικεσίας Βαβυλῶνος.
† ヘブライ語聖書 Matt. 1:11
Matt. 1:11
יֹאשִׁיָּהוּ הוֹלִיד אֶת יְכָנְיָהוּ וְאֶת אֶחָיו בִּימֵי גָּלוּת בָּבֶל.
† ラテン語聖書 Matt. 1:11
Latin Vulgate
Matt. 1:11
Iosias autem genuit Iechoniam, et fratres eius in transmigratione Babylonis.
And Josiah conceived Jechoniah and his brothers in the transmigration of Babylon.
† 私訳(詳訳)Matt. 1:11
【私訳】 「またヨシヤは、バビロンへの強制移住の時に、エコンヤと彼の兄弟たちをもうけた」
† 新約聖書ギリシャ語語句研究
Matt. 1:11
᾽Ιωσίας δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ιεχονίαν καὶ τοὺς ἀδελφοὺς αὐτοῦ ἐπὶ τῆς μετοικεσίας Βαβυλῶνος.
【また】δὲ δέ デ de {deh} (cc 接続詞・等位)
1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ
【ヨシヤは】᾽Ιωσίας ᾽Ιωσίας イオーシアス Iōsias {ee-o-see‘-as} (n-nm-s 名詞・主男単)
ヨシヤ ヘブル名 「ヤㇵウェは癒す」
ヨシヤは神の目にかなう正しいことを行ない、祖父ダビデの道をそのまま歩んだ。
Ⅱ列王21:1~23:30; マタ1:10,11
【バビロンへ】Βαβυλῶνος Βαβυλών バブローン Babulōn {bab-oo-lone‘} (n-gf-s 名詞・属女単)
バビロン 「神の門」の意味、バビロニアの首都
Ⅱ列王 24:14~15; エレ27:20; マタ1:11; 使徒7:43; Ⅰコリ5:13; 黙示14:8; 16;19; 17:5; 18:2,10,21
【移住させられたころ】 ἐπὶ τῆς μετοικεσίας Βαβυλῶνος
【移住】μετοικεσίας μετοικεσία メトイケシア metoikesia {met-oy-kes-ee‘-ah} (n-gf-s 名詞・属女単)
< μετά 変わる +οἶκος 家 「転居」の意味
1)移動、移送、移住、移転、たちのき、住居の変更 2)虜囚、バビロンへの強制移住
Ⅱ列王24:14~15; エレ27:20; マタ1:11,12,17
【ころ】ἐπὶ ἐπί エピ epi{ep-ee‘} (pg 前置詞・属)
1)の上に、近くに 2)よって 3)に向かって 4)に 5)を 6)へ
永井訳 「バビロンに移さるる時にあたりて」
【エコンヤ】᾽Ιεχονίαν ᾽Ιεχονίας イエこニアス Iechonias {ee-ekh-on-ee‘-as} (n-am-s 名詞・対男単)
エコンヤ ヘブル名「ヤㇵウェは固くする」 別名「エホヤキン」
Ⅱ列王24:8~17; マタ1:11,12
【と】καὶ καί カイ kai {kahee} (cc 接続詞・等位)
1)~と、~も、そして 2)~さえ、でさえも 3)しかし 4)しかも、それは 5)それでは、それだのに 6)そうすれば、すなわち 7)のみならず、もまた
【その】αὐτοῦ αὐτός アウトス autos {ow-tos‘} (npgm3s 代名詞・属男3)
1)彼、彼女、それ(三人称の代名詞) 2)自身で、自分から、自分として(強調用法) 3)同じ同一の 4)まさに、ちょうど
【兄弟たちを】ἀδελφοὺς ἀδελφός アデるふォス adelphos { ad-el-fos‘ } (n-am-p 名詞・対男複)
< α 共通の、同じ + δελφύς 胎
1)対の、一対の、兄弟姉妹、自分と同じ親を持つ者、血縁者 2)似た、一致した、同国人、同胞、隣人、人間同志 3)信仰を同じくする人、使命を同じくする者 4)教会の霊的兄弟姉妹
マタ5:22; 12:46~50; 23:8; 25:40; 28:10; 使徒2:20; ロマ1:13; 9:3; 16:23
【もうけ】ἐγέννησεν γεννάω ゲンナオー gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・3単)
1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる
マタ1:2,16,20; ヨハ1:13; 3:3,5; Ⅰヨハ4:7; 5:1
† 英語訳聖書 Matt. 1:11
King James Version
1:11 And Josias begat Jechonias and his brethren, about the time they were carried away to Babylon:
American Standard Version
1:11 and Josiah begat Jechoniah and his brethren, at the time of the carrying away to Babylon.
Bible in Basic English
1:11 And the sons of Josiah were Jechoniah and his brothers, at the time of the taking away to Babylon.
New International Version
1:11 and Josiah the father of Jeconiah and his brothers at the time of the exile to Babylon.
Darby’s English Translation
1:11 and Josias begat Jechonias and his brethren, at the time of the carrying away of Babylon.
Douay Rheims
1:11 And Josias begot Jechonias and his brethren in the transmigration of Babylon.
Noah Webster Bible
1:11 And Josias begat Jechonias and his brethren, about the time they were carried away to Babylon:
Weymouth New Testament
1:11 Josiah of Jeconiah and his brothers at the period of the Removal to Babylon.
World English Bible
1:11 Josiah became the father of Jechoniah and his brothers, at the time of the exile to Babylon.
Young’s Literal Translation
1:11 and Josiah begat Jeconiah and his brethren, at the Babylonian removal.
Amplified Bible
1:11 Josiah became the father of Jeconiah [also called Coniah and Jehoiachin] and his brothers, at the time of the deportation (exile) to Babylon.
† 細き聲 聖書研究ノート
<バビロンに移さるる頃、ヨシヤ、エコニヤとその兄弟らとを生めり>
遂に南ユダ王国はバビロンによって陥落し、民は捕囚としてバビロンに連行される。
<系図 マタイ1:11 ヨシュアの子>
ヨシヤ 南王国ユダの第十六代目の王。(Ⅱ列王21:23)
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エホアハズ(アハズヤ) ヨラムの子、南王国ユダの第十七代目の王。エホアハズは
三日間だけの王だった。(Ⅱ列王23:31)
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ヨヤキム 南王国ユダの第十八代目の王。ヨヤキムは三ヶ月間だけ王であった。
マタイ1:11の系図ではヨヤキムが省略されている。(Ⅰ歴代3:15~16)
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エコニヤ(エホヤキン)とその兄弟達(Ⅰ歴代3:17)
エコニヤは南王国ユダの第十九代目の王(Ⅰ歴代3:17)
エコニヤの時代に南王国ユダはバビロンの捕囚となった。
<省略>
エコンヤはヨシヤの子ではない。「ヨシヤ」と「エコンヤ」の間には「ヨヤキム」が省かれている。(Ⅰ歴代3:15~16)
<バビロン捕囚>
前605年バビロニアのネブカデネザルがカルケミシでエジプト軍を破ったため、ユダの王エホヤキムは3年間バビロニアに貢ぎ物をおさめたが、その後拒否した。そこでネブカデネザルはエルサレムを包囲し、前598年、急死したエホヤキンにかわって即位したエホヤキンが降伏したことにより、王をはじめ多くの民衆が1600㎞離れたバビロンに鎖に繋がれた捕囚として連行された。これが第一回バビロンの捕囚である。
イエスの系図にイスラエルの歴史上の出来事の多くは省かれるが、「バビロン捕囚」だけは民族の記録として載せられる。「捕囚からの解放」はイスラエルに強いメシア待望を生み出したからである。絶望から希望が生まれる。しかし、イスラエルの望んだ「解放」はイスラエル再建にかかわるものであった。それが人間の解放であるとイスラエルは信じた。
<ディアスポラ>
占領によって国を失ったユダヤ人はパレスティナの外に居住するものがいた。彼らは世界の各都市に分散し、ギリシャ語で「四散」を意味するディアスポラ διασπορά 「離散した人々」と呼ばれた。人々はその地にシナゴクという集会所を建て安息日を守った。
<プリムの祭り>
プーリーム(פורים, purim)は、ユダヤ暦アダルの月の14日に行われるユダヤ教の祭りである。籤の祭り(英語:Feast of Lots)とも呼ばれる。
ユダヤ人がクセルクセス王の高官ハマンの企みによって、危うく絶滅させられそうになったとき、モルデカイの養女エステルがクセルクセス王の王妃となり、命がけで王に助命嘆願したことから、ハマンは失脚し、ユダヤ人は絶滅の危機から救われ、それを祝ってプリムの祭りを行なうようになった。
エステル9:21~22「毎年アダルの月の十四日と十五日を祝うように定めた。ユダヤ人が敵をなくして安らぎが喜びに、嘆きが祭りに変った月として、この月の両日を宴会と祝祭の日とし、贈り物を交換し、貧しい人に施しをすることとした。」
この日、人々は大人も子どもも仮装をし、賑やかに「解放」を祝う。アダルの月はユダヤ人にとって「絶滅からの解放の月」として「一年中で一番幸せな月」である。
<エコ二ヤ>
エコヌヤはエホヤキムの子で、ユダ最後の王となった。ネブカドネザルによってバビロンに捕囚となった。(エステル2:6)(旧約聖書では「エコニヤ」は「エコヌヤ」である。「エコニヤ」は「エコヌヤ」のギリシャ読み。)
エコヌヤとエホヤキンは同一人物である。
Ⅱ列王記24:6「エホヤキムは彼の先祖たちとともに眠り、その子エホヤキンが代わって王となった」
エレミヤ27:20「エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤ」
† 心のデボーション
「バビロンに移さるる頃、ヨシヤ、エコニヤとその兄弟らとを生めり」 マタイ1:11 大正文語訳聖書
「ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた」 新共同訳聖書
「教会のバビロン捕囚」
マルティン・ルターは1520年にラテン語で書かれた『教会のバビロニア捕囚』(De captivitate Babylonica ecclesiae praeludium)を発表した。教皇庁によってサクラメント(秘跡)が捕囚のみじめな状態にあるとしてそこからの開放を論じたものである。
教会は捕囚から解放されたのだろうか? 現在もなお、教会は何者かによって「捕らわれ」の状態にあるのではないだろうか?
(†心のデボーション00725)
† 心のデボーション
「わがたましひよ默してただ神をまて そはわがのぞみは神よりいづ」 詩篇62:5 明治元訳聖書
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ」 新改訳聖書
「望みなき民」
バビロン捕囚はユダヤ民族の悲劇であった。しかし、民族滅亡の危機からイスラエルにメシア待望という強い「希望」が生み出されてきた。
その民族が存亡の危機において「希望」を生み出すに至らないこと、すなわち「望みなき民」となることこそが民族の真の危機である。「滅びる民」は危機感もなく滅亡への道を歩むのである。
(†心のデボーション00721 マタイ1:11)
† 心のデボーション
「バビロンに徙(うつ)さるる時」 マタイ1:11 明治元訳聖書
「バビロンへ移住させられたころ」 新共同訳聖書
「我が家何処や」
「移住 μετοικεσία メトイケシア metoikesia {met-oy-kes-ee‘-ah}」は「μετά 変わる + οἶκος 家」で「転居」の意味。イスラエルの「バビロンへの強制移住」をあらわす。
明治元訳は「バビロンに徙(うつ)さる」と訳す。「徙 シ」は「止 あし」+「いく」で陸地を足をひきずり、ずるずると歩むこと。
イスラエルの民は絶望的な悲しみを胸に、一歩一歩、重い足を運んだ。
絶滅収容所でガス室に連行されたチェコのユダヤ人の中にはチェコスロヴァキア国歌を歌いながら死んで行った人々がいた。
我が家何処や
我が家何処や
水は草原を横切り
松は岩にざわめく
庭には春の花が輝き
眼前に広がる地上の楽園
これぞかの美しき国
我が家チェコの国
我が家チェコの国
わが故郷はいずこ? わが故郷はいずこ?
君知るや、神の嘉(よ)みせし地で、
溌剌たる体に細やかな心、
聡(さと)しき頭、繁栄を導く、
そしてその力、圧迫を撥ね返す。
それは、チェコ人の栄えある種族―
チェコ人の間に―わが故郷あり!
(チェコスロヴァキア国歌)
(†心のデボーション00710)
† 細き聲 説教
「エホヤキン」
「即ちバビロンの王ネブカデネザル邑に攻來りてその臣にこれを攻惱さしめたれば ユダの王ヱコニアその母その臣その牧伯等およびその侍從等とともに出てバビロンの王に降れりバビロンの王すなはち彼を執ふ是はその代の八年にあたれり」 Ⅱ列王記24:11~12 明治元訳聖書
エホヤキンは18歳で王となり、3ヶ月と10日エルサレムでユダの王であった。バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを包囲し、エホヤキンは母、家来、高官、宦官たちと共に降伏し、捕虜としてバビロンに移された。
ネブカデネザルはソロモンの神殿を破壊し、聖なる器具を断ち切り、財宝をことごとく運び出した。王に仕える者たちはことごとくバビロンに移され、エルサレムには「貧しい人々」しか残されなかった。
「ヱルサレムとユダに斯る事ありしはヱホバの震怒(いかり)による者にしてヱホバつひにその人々を自己の前よりはらひ棄たまへり偖またゼデキヤはバビロンの王に叛けり」 Ⅱ列王記24:20 明治元訳聖書
これらのことが起こったのは、一人ユダの若き王エホヤキンによるだけではなく、歴史に繰り返されたイスラエルの神への不信と反逆に対する「主の怒り」によるものであった。
ダビデによって建設されたイスラエルは、しばしば、カナンの神バアルとハアルの妻アシュタロテを慕い、その異教礼拝を持ち込んだ。それは全イスラエルの神への背信であった。
このため、イスラエルはバビロンに攻撃されて国を失い、捕囚としてバビロン、アッシリアに移住させられた。
しかし、何ゆえにイスラエルに国を失うほどの激しい「神への背信」が繰り返し生じたのであろうか? 王たる者が背信すれば、民には従うしか生きる手立てはなかったにしても、「背信」は民のものであり、神の怒りは全イスラエルに臨んだのである。
バアルやアシュタロテを邪教と決め付けるのは容易い。しかし、それだけではイスラエルの精神に起こったことの意味を認識したことにはならない。異教の神々の存在がイスラエルにもたらしたものの意味を知ることが求められる。それは異教社会に住む日本人キリスト者の自己の信仰を深化するために不可避な信仰の過程になろう。
しかし、ここでは国家というものの暴力的なまでの支配を受けて、はじめて、個人としての人間は自己の存在と対峙し得るのかもしれないことに心を向けたい。鈎をもって引かれ、足枷をはめてひきずられ、持てるもののすべてを奪われ、その有無をいわせぬ力に従うことしか許されない弱さにおいて、人に生きていく自分を問い直すことがはじまる。人が神を知り、悔い改めるとはそのような行為であった。
神の怒りとは、神の悲しみにふれることである。その深い悲しみにふれなければ人は自己を認識することはできない。
(皆川誠)
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