† 福音書対観 「イエスの系図」 マタイ1:1~17
マタイ1:1~17 ルカ3:23~38 (ヨハネ1:1~18)
マタイ1:1~17
Matt. 1:10ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、口語訳聖書
† 日本語訳聖書 Matt. 1:10
【漢訳聖書】
Matt. 1:10 希西家生馬拿西、馬拿西生亞們、亞們生約西亞、
【明治元訳】
Matt. 1:10 ヘゼキヤ、マナセを生(うみ)マナセ、アモンを生(うみ)みアモン、ヨシヤを生(うめ)り
【大正文語訳】
Matt. 1:10 ヒゼキヤ、マナセを生み、マナセ、アモンを生み、アモン、ヨシヤを生み、
【ラゲ訳】
Matt. 1:10 エゼキア マナッセを生み、マナッセ アモンを生み。アモン ヨジアを生み、
【口語訳】
Matt. 1:10 ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、
【新改訳改訂3】
Matt. 1:10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
【新共同訳】
Matt. 1:10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、
【バルバロ訳】
Matt. 1:10 エゼキアはマナセを生み、マナセはアモンを生み、アモンはヨジアを生み、
【フランシスコ会訳】
Matt. 1:10 ヒゼキヤの子はマナセ、マナセの子はアモン、アモンの子はヨシヤ、
【日本正教会訳】
Matt. 1:10 エゼキヤはマナッシヤを生み、マナッシヤはアモンを生み、アモンはイヲシヤを生み、
【塚本虎二訳】
Matt. 1:10 ヒゼキヤ(王)の子はマナセ、マナセ(王)の子はアモン、アモン(王)の子はヨシヤ、
【前田護郎訳】
Matt. 1:10 ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、
【永井直治訳】
Matt. 1:10 またエゼキアはマナッセを生めり。またマナッセはアモンを生めり。またアモンはヨシアを生めり。
【詳訳聖書】
Matt. 1:10 ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、
† 聖書引照 Matt. 1:10
Matt. 1:10 ヒゼキヤ、マナセを生み、マナセ、アモンを生み、アモン、ヨシヤを生み、
[ヒゼキヤ] Ⅱ列王16:20; 18~20; Ⅱ歴代28:27; 29~32; イザ36~39
[マナセ] Ⅱ列王20:21; 21:1~18; 24:3,4; Ⅰ歴代1Ch 3:13~15; Ⅱ歴代32:33; 33:1~19
[アモン] Ⅱ列王21:19~26; Ⅱ歴代33:20~24
[ヨシヤ] Ⅰ列王1Ki 13:2; Ⅱ列王21:23~26; 22:1~20; 23:1~30; Ⅱ歴代33:24~25; 34:1~33; 35:1~27; エレ1:2,3
† ギリシャ語聖書 Matt. 1:10
Stephens 1550 Textus Receptus
εζεκιας δε εγεννησεν τον μανασση μανασσης δε εγεννησεν τον αμων αμων δε εγεννησεν τον ιωσιαν
Scrivener 1894 Textus Receptus
εζεκιας δε εγεννησεν τον μανασση μανασσης δε εγεννησεν τον αμων αμων δε εγεννησεν τον ιωσιαν
Byzantine Majority
εζεκιας δε εγεννησεν τον μανασση μανασσης δε εγεννησεν τον αμων αμων δε εγεννησεν τον ιωσιαν
Alexandrian
εζεκιας δε εγεννησεν τον μανασση μανασσης δε εγεννησεν τον αμων αμων δε εγεννησεν τον ιωσιαν
Hort and Westcott
εζεκιας δε εγεννησεν τον μανασση μανασσης δε εγεννησεν τον αμων αμων δε εγεννησεν τον ιωσιαν
† ギリシャ語聖書 品詞色分け
Matt. 1:10
῾Εζεκίας δὲ ἐγέννησεν τὸν Μανασσῆ, Μανασσῆς δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Αμώς, ᾽Αμὼς δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ιωσίαν,
† ヘブライ語聖書 Matt. 1:10
Matt. 1:10
חִזְקִיָּהוּ הוֹלִיד אֶת מְנַשֶּׁה, מְנַשֶּׁה הוֹלִיד אֶת אָמוֹן וְאָמוֹן הוֹלִיד אֶת יֹאשִׁיָּהוּ.
† ラテン語聖書 Matt. 1:10
Latin Vulgate
Matt. 1:10
Ezechias autem genuit Manassen. Manasses autem genuit Amon. Amon autem genuit Iosiam.
And Hezekiah conceived Manasseh. And Manasseh conceived Amos. And Amos conceived Josiah.
† 私訳(詳訳)Matt. 1:10
【私訳】 「またヒゼキヤはマナセをもうけた、またマナセはアモスをもうけた、またアモスはヨシヤをもうけた」
† 新約聖書ギリシャ語語句研究
Matt. 1:10
῾Εζεκίας δὲ ἐγέννησεν τὸν Μανασσῆ, Μανασσῆς δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Αμώς, ᾽Αμὼς δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ιωσίαν,
【また】δὲ δέ デ de {deh} (cc 接続詞・等位)
1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ
【ヒゼキヤは】῾Εζεκίας ῾Εζεκίας ヘゼキアス Ezekias {ed-zek-ee‘-as} (n-nm-s 名詞・主男単)
ヒゼキヤ ヘブル名 「ヤㇵウェは権能、ヤㇵウェは強め給う」
ヒゼキヤは神を崇め、国中の偶像を除き、神殿を修復した。(Ⅱ列王18:1~12)
Ⅱ列王18~20; マタ1:9,10
【マナセを】Μανασσῆ Μανασσῆ マナスセース Manassēs {man-as-sace‘} (n-am-s 名詞・対男単)
マナセ ヘブル名「忘れる、忘れさせる」
マナセは父ヒゼキヤの道を歩まず、異教崇拝を再建した。
Ⅱ列王21:1~18; マタ1:10; 黙示7:6
【もうけ】ἐγέννησεν γεννάω ゲンナオー gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)
1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる
マタ1:2,16,20; ヨハ1:13; 3:3,5; Ⅰヨハ4:7; 5:1
【また】 δὲ δέ デ de {deh} (cc 接続詞・等位)
1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ
【マナセは】Μανασσῆ Μανασσῆ マナスセース Manassēs {man-as-sace‘} (n-nm-s 名詞・主男単)
マナセ ヘブル名「忘れる、忘れさせる」
マナセは父ヒゼキヤの道を歩まず、異教崇拝を再建した。
Ⅱ列王21:1~18; マタ1:10; 黙示7:6
【アモスを】᾽Αμώς ᾽Αμώς アモース Amōn {am-one‘} (n-am-s 名詞・対男単)
アモン ヘブル名 「重荷を負う者」
Ⅱ列王21:19では「アモン 巧みな者」 アモスは父マナセの行為を継承した。
Ⅱ列王21:19~26; マタ1:10; ルカ3:25
【もうけ】ἐγέννησεν γεννάω ゲンナオー gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)
1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる
マタ1:2,16,20; ヨハ1:13; 3:3,5; Ⅰヨハ4:7; 5:1
【また」δὲ δέ デ de {deh} (cc 接続詞・等位)
1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ
【アモスは】᾽Αμώς ᾽Αμώς アモース Amōn {am-one‘} (n-nm-s 名詞・主男単)
アモン ヘブル名 「重荷を負う者」
Ⅱ列王21:19では「アモン 巧みな者」 アモスは父マナセの行為を継承した。
Ⅱ列王21:19~26; マタ1:10; ルカ3:25
【ヨシヤを】᾽Ιωσίαν ᾽Ιωσίας イオーシアス Iōsias {ee-o-see‘-as} (n-am-s 名詞・対男単)
ヨシヤ ヘブル名 「ヤㇵウェは癒す」
ヨシヤは神の目にかなう正しいことを行ない、祖父ダビデの道をそのまま歩んだ。
Ⅱ列王21:1~23:30; マタ1:10,11
【もうけ】ἐγέννησεν γεννάω ゲンナオー gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)
1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる
マタ1:2,16,20; ヨハ1:13; 3:3,5; Ⅰヨハ4:7; 5:1
† 英語訳聖書 Matt. 1:10
King James Version
1:10 And Ezekias begat Manasses; and Manasses begat Amon; and Amon begat Josias;
American Standard Version
1:10 and Hezekiah begat Manasseh; and Manasseh begat Amon; and Amon begat Josiah;
New International Version
1:10 Hezekiah the father of Manasseh, Manasseh the father of Amon, Amon the father of Josiah,
Bible in Basic English
1:10 And the son of Hezekiah was Manasseh; and the son of Manasseh was Amon; and the son of Amon was Josiah;
Darby’s English Translation
1:10 and Ezekias begat Manasses, and Manasses begat Amon, and Amon begat Josias,
Douay Rheims
1:10 And Ezechias begot Manasses. And Manesses begot Amon. And Amon begot Josias.
Noah Webster Bible
1:10 And Ezekias begat Manasses; and Manasses begat Amon; and Amon begat Josias;
Weymouth New Testament
1:10 Hezekiah of Manasseh; Manasseh of Amon; Amon of Josiah;
World English Bible
1:10 Hezekiah became the father of Manasseh. Manasseh became the father of Amon. Amon became the father of Josiah.
Young’s Literal Translation
1:10 and Hezekiah begat Manasseh, and Manasseh begat Amon, and Amon begat Josiah,
Amplified Bible
1:10 Hezekiah was the father of Manasseh, Manasseh the father of Amon, and Amon the father of Josiah.
† 細き聲 聖書研究ノート
<ヒゼキヤ、マナセを生み、マナセ、アモンを生み、アモン、ヨシヤを生み>
南ユダ王国の混乱は続く。国内に反乱が発生し暗い時代が訪れる。しかし、神の契約は善き王と悪しき王の血のつながりの中に途絶えることなく保たれる。
<系図 マタイ1:10 ヒゼキヤの子>
ヒゼキヤ 南王国ユダの第十三代目の王。(Ⅱ列王18:2)
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マナセ 南王国ユダの第十四代目の王。(Ⅱ列王21:1)
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アモス(アモン) 南王国ユダの第十五代目の王。(Ⅱ列王21:18)
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ヨシヤ 南王国ユダの第十六代目の王。(Ⅱ列王21:23)
<「忘れ」の子>
「マナセ」という名は「忘れる、忘れさせる」の意味がある。創世記41:51では、ヨセフが「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」と長男を「マナセ 忘れさせる」と名づけている。「マナセ 忘れる」は「慰めの子」であり、ここでは「忘れる」は祝福である。しかし、Ⅱ列王21:1~18のヒゼキヤの子は、父の行った異教の偶像礼拝を取り除き、神殿を修復する宗教改革を「忘れさせる」者という意味で「マナセ」と呼ばれている。
人は「私」という存在の背景になった全ての出来事を忘れてはならない。その全てを認識し、「私」として統合しなくてはならない。
父はその子に「私」のすべてを伝え、子がそのすべてを受け取るとき、父ははじめてこれまでの「苦労」を忘れることができ、子は自分が何を伝え、いかに生きるべきかを知る。
<アモス>
アモス(アモン)は22歳で王となり、エルサレムで2年間王であった。(Ⅱ歴代33:21~25)
アモスは父マナセよりも「罪過を大きくする」王で、家来たちは謀反を起こし、宮殿でアモスを殺し、反乱を起こした者たちをエルサレムの民衆が打ち殺した。
<ヨシヤ>
ヨシヤはアモスの子であったが、8歳で王となり、31年間王であった。治世の18年には主の宮を修理した。その工事の際に祭司ヒルキヤが主の宮で「律法の書」を見つけた。発見された「契約の書」は皆の前で読まれ、それに従って宗教改革が行われた。(Ⅱ歴代34章)
† 心のデボーション
「王その律法の書の言を聞(きく)やその衣を裂り」 Ⅱ列王22:11 明治元訳聖書
「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた」 新改訳聖書
「宗教改革」
ヨシヤは神殿の修理を命じ、その最中に大祭司ヒルキヤによって神殿に保管されていた「律法の書」が発見され、ヨシヤはその「律法の書」に基づいて宗教改革を行った。
すべの改革に先立つのは神の言葉である。神の言葉は常に新しく発見されることによって現実を変えていく。
現実が変わらなくなったとき、私たちは「神の言葉」を失っている。
(†心のデボーション00709 マタイ1:10)
† 心のデボーション
「汝我面の前に我の外何物をも神とすべからず」 出エジプト20:3 明治元訳聖書
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」 新共同訳聖書
「異なる神」
マナセをはじめ歴代のイスラエル・ユダの諸王が「偶像崇拝」に陥っている。ヤーヴェの神を捨て、バアルやアシュラなどの異教の神々を礼拝した。
そのことは「異教者」から見れば、「正しい神」への立ち返りである。
何が正しい宗教であるかは、その信仰によって築かれる「人間」を問うしかない。バアルにはバアルの、アシュラにはアシュラの人間が形づくられる。宗教とは「人間とは何か」という問いに対する実存的な答えである。
加えて、人間には「異なる神」へのことさらな愛着があるようだ。その場合、「異なる神」は「正しい神」あっての思いから来る。
(†心のデボーション00717)
† 細き聲 説教
「マナセの祈り」
「是をもてヱホバ、アッスリヤの王の軍勢の諸將をこれに攻來らせたまひて彼等つひにマナセを鉤にて擄へ之を杻械(かせ)に繋ぎてバビロンに曳ゆけり 然るに彼患難に罹(かか)るにおよびてその神ヱホバを和(なだ)めその先祖の神の前に大に身を卑くして 神に祈りければその祈祷を容れその懇願(ねがい)を聽きこれをヱルサレムに携へかへりて再び國に莅(のぞ)ましめたまへり是によりてマナセ、ヱホバは誠に神にいますと知り」 Ⅱ歴代誌33:11~13 明治元訳聖書
マナセは12歳でユダの王に即位し、55年の間、エルサレムでユダ王国を治めた。(Ⅱ列王21:1)
マナセは父ヒゼキアが破壊した異教の祭壇を再建し、バアルの祭壇を建て、アシュラ像を造り、自分の子どもを火の中にくぐらせ、異教礼拝を奨励した。
「マナセはヱホバの目の前に惡をおこなひてユダに罪を犯させたる上にまた無辜者(つみなきもの)の血を多く流してヱルサレムのこの極(はて)よりかの極(はて)にまで盈せり」 Ⅱ列王21:16 明治元訳聖書
マナセは自らイスラエルの神の「忌み嫌う」ことを行い、ユダ王国に罪を犯させただけでなく、無辜者(つみなきもの)の血を多く流し、エルサレムの極(はて)から極(はて)まで満たし、神を怒らせた。
「是をもてヱホバ、アッスリヤの王の軍勢の諸將をこれに攻來らせたまひて彼等つひにマナセを鉤にて擄へ之を杻械(かせ)に繋ぎてバビロンに曳ゆけり」 Ⅱ歴代33:11 明治元訳聖書
神は預言者をマナセとユダに遣わされたが、マナセは聞こうともしなかった。(Ⅱ歴代33:10)
遂に、神はアッシリア軍を起こされ、ユダに送られた。マナセは鉤(かぎ)で捉えられ、青銅の足かせに繋がれてバビロンに連れて行かれた。
「然るに彼患難に罹るにおよびてその神ヱホバを和めその先祖の神の前に大に身を卑くして 神に祈りければその祈祷を容れその懇願を聽きこれをヱルサレムに携へかへりて再び國に莅ましめたまへり是によりてマナセ、ヱホバは誠に神にいますと知り」 Ⅱ歴代33:12 明治元訳聖書
「患難」はマナセを「身を卑しく」させ、深刻な「悔い改め」をもたらした。
神はマナセの祈りを聞かれ、マナセはバビロンからエルサレムに戻された。
この時のマナセの悔い改めは「マナセの祈り」として旧約聖書外典に収められている。
「そは、わが犯せし罪は、海のまさごの数にまさればなり。
主よ、わがとがは増し、わが過ちは加えられたり。
我はわが不義の多きがゆえに、天の高きを仰ぎ見るにふさわしからず。
我は多くの鉄のかせをもて低くせられたり。
これわが罪の故にしりぞけられ、助けを得ざらんがためなり。
そは我なんじのみ怒りをひき起こし、なんじのみ前に惡きことを行ない、忌むべきことをくわだて、罪とがをまし加えたればなり。
されば今、我わが心のひざを屈め、なんじのみ恵みをこいねがい奉る。
主よ、われは罪を犯したり。
我はわがとがを知る。
我は切になんじにこいねがい奉る。
我を赦したまえ、主よ、我を赦したまえ。
わが不義と共に我を滅ぼしたもうなかれ。」マナセの祈り9~13 日本聖公会訳
マナセの罪認識は確かなものだった。この厳しい罪認識と悔い改めはどこから来たのだろうか。
「主よ、なんじは、
その大いなるいつくしみに従いて、
なんじに逆らいて罪を犯せし人びとに、
悔い改めと赦しとを約し、
なんじの大いなる憐みをもて、
罪びとらの救われんがために、
これに悔い改めを備えたもう。」 マナセの祈り7 日本聖公会訳
マナセは自らの罪認識と悔い改めは「神によって備えられた」と告白する。
人間は神の前に立たない限り罪を認識することはない。罪が犯され、その結果が明らかに生じ、苦しみをもたらしたとしても、「われは罪を犯したり」「我はわがとがを知る」とは言わない。
なぜなら、いかなる罪も、「罪」は神への罪だからである。
マナセに深刻な罪認識をもたらしたのは「鈎」でも「青銅の足かせ」でもなく、「神の備え」、神からのものだった。
自らの罪を認識し、涙し、悔い改めるとき、その人は神の「大いなる憐み」の中にいるのである。
(皆川誠)
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