マタイによる福音書1章9節

マタイによる福音書
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† 福音書対観 「イエスの系図」 マタイ1:1~17

マタイ1:1~17  ルカ3:23~38  (ヨハネ1:1~18)
マタイ1:1~17

Matt. 1:9ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、口語訳聖書

† 日本語訳聖書 Matt. 1:9

【漢訳聖書】
Matt. 1:9 烏西亞生約坦、約坦生亞下士、亞下士生希西家、

【明治元訳】
Matt. 1:9 ウッズヤ、ヨタムを生(うみ)ヨタム、アカズを生(うみ)アカズ、ヘゼキヤを生(うみ)

【大正文語訳】
Matt. 1:9 ウジヤ、ヨタムを生み、ヨタム、アハズを生み、アハズ、ヒゼキヤを生み、

【ラゲ訳】
Matt. 1:9 オジア ヨアタムを生み、ヨアタム アカズを生み、アカズ エゼキアを生み、

【口語訳】
Matt. 1:9 ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、

【新改訳改訂3】
Matt. 1:9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、

【新共同訳】
Matt. 1:9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、

【バルバロ訳】
Mat 1:9 ウジヤの子はヨタム、ヨタムの子はアハズ、アハズの子はヒゼキヤ、

【フランシスコ会訳】
Matt. 1:9 オジアはヨアタムを生み、ヨアタムはアハズを生み、アハズはエゼキアを生み、

【日本正教会訳】
Matt. 1:9 オジヤはイヲアファムを生み、イヲアファムはアハズを生み、アハズはエゼキヤを生み、

【塚本虎二訳】
Matt. 1:9 ウジヤ(王)の子はヨタム、ヨタム(王)の子はアハズ、アハズ(王)の子はヒゼキヤ、

【前田護郎訳】
Matt. 1:9 ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、

【永井直治訳】
Matt. 1:9 またオゼアはヨアタムを生めり。またヨアタムはアカズを生めり。またアカズはエゼキアを生めり。

【詳訳聖書】
Matt. 1:9 ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、

† 聖書引照 Matt. 1:9

Matt. 1:9 ウジヤ、ヨタムを生み、ヨタム、アハズを生み、アハズ、ヒゼキヤを生み、

[ウジヤ]  Ⅱ列王14:21~15:7
[ヨタム]  Ⅱ列王15:5~7,32~38; Ⅰ歴代1Ch 3:11~13; Ⅱ歴代26:21; 27:1~9
[アハズ]  Ⅱ列王15:38; 16:1~20; Ⅱ歴代27:9; 28:1~27; イザIsa 7:1~13
[ヒゼキヤ]  Ⅱ列王18~20; Ⅱ歴代28:27; 29~32; イザ36~39

† ギリシャ語聖書  Matt. 1:9

Stephens 1550 Textus Receptus
οζιας δε εγεννησεν τον ιωαθαμ ιωαθαμ δε εγεννησεν τον αχαζ αχαζ δε εγεννησεν τον εζεκιαν

Scrivener 1894 Textus Receptus
οζιας δε εγεννησεν τον ιωαθαμ ιωαθαμ δε εγεννησεν τον αχαζ αχαζ δε εγεννησεν τον εζεκιαν

Byzantine Majority
οζιας δε εγεννησεν τον ιωαθαμ ιωαθαμ δε εγεννησεν τον αχαζ αχαζ δε εγεννησεν τον εζεκιαν

Alexandrian
οζιας δε εγεννησεν τον ιωαθαμ ιωαθαμ δε εγεννησεν τον αχαζ αχαζ δε εγεννησεν τον εζεκιαν

Hort and Westcott
οζιας δε εγεννησεν τον ιωαθαμ ιωαθαμ δε εγεννησεν τον αχαζ αχαζ δε εγεννησεν τον εζεκιαν

† ギリシャ語聖書 品詞色分け

Matt. 1:9

᾽Οζίας δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ιωαθάμ᾽Ιωαθὰμ δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Αχάζ᾽Αχὰζ δὲ ἐγέννησεν τὸν ῾Εζεκίαν,

† ヘブライ語聖書 Matt. 1:9

Matt. 1:9

עֻזִּיָּהוּ הוֹלִיד אֶת יוֹתָם, יוֹתָם הוֹלִיד אֶת אָחָז וְאָחָז הוֹלִיד אֶת חִזְקִיָּהוּ.

† ラテン語聖書 Matt. 1:9

Latin Vulgate
Matt. 1:9

Ozias autem genuit Ioatham. Ioatham autem genuit Achaz. Achaz autem genuit Ezechiam.
And Uzziah conceived Jotham. And Jotham conceived Ahaz. And Ahaz conceived Hezekiah.

† 私訳(詳訳)Matt. 1:9

【私訳】 「またウジヤはヨタムをもうけた、またヨタムはアハズをもうけた、またアハズはヒゼキヤをもうけた」

† 新約聖書ギリシャ語語句研究

Matt. 1:9

᾽Οζίας δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ιωαθάμ, ᾽Ιωαθὰμ δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Αχάζ, ᾽Αχὰζ δὲ ἐγέννησεν τὸν ῾Εζεκίαν,

【また】δὲ  δέ,  デ de {deh} (cc 接続詞・等位)

1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ

【ウジヤは】᾽Οζίας  ᾽Οζίας  オジアス Ŏzias {od-zee‘-as}  (n-nm-s 名詞・主男単)

ウジヤ  ヘブル名「ヤㇵウェは強し」

Ⅱ列王14:21の「アザルヤ」は「ウジヤ」の別名。

Ⅱ列王15:1~7;  マタ1:8,9

【ヨタムを】᾽Ιωαθάμ  ᾽Ιωαθάμ  イオーアたム Iōatham {ee-o-ath‘-am} (n-am-s 名詞・対男単)

ヨタム  ヘブル名「ヤㇵウェは全し」

Ⅱ列王15:5;  マタ1:9

【もうけ】ἐγέννησεν  γεννάω  ゲンナオー  gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)

1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる

マタ1:2,16,20; ヨハ1:13; 3:3,5;  Ⅰヨハ4:7; 5:1

【また】δὲ  δέ デ de {deh} (cc 接続詞・等位)

1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ

【ヨタムは】᾽Ιωαθάμ  ᾽Ιωαθάμ  イオーアたム Iōatham {ee-o-ath‘-am}  (n-nm-s 名詞・主男単)

ヨタム  ヘブル名「ヤㇵウェは全し」

Ⅱ列王15:5;  マタ1:9

【アハズを】᾽Αχάζ  ᾽Αχάζ  アかズ Achaz {akh-adz‘} (n-am-s 名詞・対男単)

アハズ ヘブル名 「ヤㇵウェは保持する」

Ⅱ列王16:3;  Ⅱ歴代28:3~4;  マタ1:9

【もうけ】ἐγέννησεν  γεννάω  ゲンナオー  gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)

1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる

マタ1:2,16,20; ヨハ1:13; 3:3,5;  Ⅰヨハ4:7; 5:1

【また】δὲ  δέ デ de {deh} (cc 接続詞・等位)

1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ

【アハズは】᾽Αχάζ  ᾽Αχάζ  アかズ Achaz {akh-adz‘}  (n-nm-s 名詞・主男単)

アハズ ヘブル名 「ヤㇵウェは保持する」

Ⅱ列王16:3;  Ⅱ歴代28:3~4;  マタ1:9

【ヒゼキヤを】῾Εζεκίαν  ῾Εζεκίας  ヘゼキアス Ezekias {ed-zek-ee‘-as} (n-am-s 名詞・対男単)

ヒゼキヤ  ヘブル名 「ヤㇵウェは権能、ヤㇵウェは強め給う」

ヒゼキヤは神を崇め、国中の偶像を除き、神殿を修復した。(Ⅱ列王18:1~12)

Ⅱ列王18~20;  マタ1:9,10

【もうけ】ἐγέννησεν  γεννάω  ゲンナオー  gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)

1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる

マタ1:2,16,20; ヨハ1:13; 3:3,5;  Ⅰヨハ4:7; 5:1

† 英語訳聖書 Matt. 1:9

King James Version
1:9 And Ozias begat Joatham; and Joatham begat Achaz; and Achaz begat Ezekias;

American Standard Version
1:9 and Uzziah begat Jotham; and Jotham begat Ahaz; and Ahaz begat Hezekiah;

New International Version
1:9 Uzziah the father of Jotham, Jotham the father of Ahaz, Ahaz the father of Hezekiah,

Bible in Basic English
1:9 And the son of Uzziah was Jotham; and the son of Jotham was Ahaz; and the son of Ahaz was Hezekiah;

Darby’s English Translation
1:9 and Ozias begat Joatham, and Joatham begat Achaz, and Achaz begat Ezekias,

Douay Rheims
1:9 And Ozias begot Joatham. And Joatham begot Achaz. And Achaz begot Ezechias.

Noah Webster Bible
1:9 And Ozias begat Joatham; and Joatham begat Achaz; and Achaz begat Ezekias;

Weymouth New Testament
1:9 Uzziah of Jotham; Jotham of Ahaz; Ahaz of Hezekiah;

World English Bible
1:9 Uzziah became the father of Jotham. Jotham became the father of Ahaz. Ahaz became the father of Hezekiah.

Young’s Literal Translation
1:9 and Uzziah begat Jotham, and Jotham begat Ahaz, and Ahaz begat Hezekiah,

† 細き聲 聖書研究ノート

<ウジヤ、ヨタムを生み、ヨタム、アハズを生み、アハズ、ヒゼキヤを生み>

南ユダ王国は信仰と離反が交互する歴史を歩み、ついにヒゼキア王の時代に致命的な失敗からバビロン捕囚の動因をつくる。

<系図 マタイ1:9 ウジヤの子>

ウジヤ

ヨタム     南王国ユダの第十一代目の王。(Ⅱ列王15:32)

アハズ     南王国ユダの第十二代目の王。(Ⅱ列王16:1)

ヒゼキヤ     南王国ユダの第十三代目の王。(Ⅱ列王18:1)

<ウジヤの骨箱の碑>

エルサレムで「ウジヤの骨箱の碑」が発掘されている。碑には「ユダの王、ウジヤの骨をここに携え来る、開けるべからず」と刻まれているという。(「新聖書辞典」いのちのことば社 「ウジヤ」参照)

<ヨタムの印章>

エジオン・ゲベルの第3層(前780~650)からユダの王ヨタムの印章が出土している。それには「ヨタムに属する」という文字と羊とふいごが刻まれている。(キリスト新聞社『新聖書大辞典』)

ヨタムは有能な王で、主の宮の上の門を建て、ユダの山地に町々を建て、森林地帯に城塞とやぐらを築いた。(Ⅱ歴代27:2~4)

しかし、「民はなお滅びに向かっていた」Ⅱ歴代27:2 新改訳聖書

<アハズ>

アハズは父ヨタムの道を歩まず、「バアルのために鋳物の像」を造り、異教の教えに従ってベン・ヒンノムの谷で自分の子どもたちに火の中をくぐらせた。(Ⅱ歴代28章) 国は混乱し、アハズは神に頼るよりも、アッシリアに貢ぎ物をおくり援助を求めたが「何の助けにもならなかった」(Ⅱ歴代28:21)

<ヒゼキヤ>

ユダの王アハズは公然と異教崇拝をし、自分の子らに火の中を通らせた(Ⅱ列王16章、Ⅱ歴代28:1~8)が、その子ヒゼキヤは神を崇め、国中の偶像を除き、神殿を修復した(Ⅱ列王18:1~12)。しかし、ヒゼキヤの宗教改革はアッシリアの反発を招き、セナケリブの大軍がユダの砦の町を占領しエルサレムを包囲した。ヒゼキヤがラブ・シャケの降伏勧告に屈しなかったのは預言者イザヤの働きによるものであった(Ⅱ列王19章)。そのヒゼキヤもバビロンからの見舞客に見せてはならない王宮の倉庫を開示し、国家の情報を与えたことによって、後のバビロン捕囚の動因をつくることになる(Ⅱ列王20章)。

<ヒゼキヤのトンネル>

アッシリアの脅威にさらされたヒゼキヤは敵から水源を守るため、堅い岩盤をくり抜いて、エルサレム郊外の「ギホンの泉」とエルサレム城内の「シロアムの泉」を結ぶトンネルを掘った(Ⅱ列王20:20)。 シロアムとギホンの両端から堀り進め、最終段階では互いの岩を叩く音を頼りに掘る方向を定めて、ついに貫通させた533mのトンネルである。途中エルサレム城内へ水を汲むための竪穴があり、考古学者チャールス・ウォーレンの名をとって「ウォーレンの竪穴」と呼ばれている。「ヒゼキヤのトンネル Hezekiah’s Tunnel 」は、1880年にトンネルの壁に刻まれた「シロアム碑文」からその存在が確認されたもので、現在もトンネル内を歩くことができる。

(「ヒゼキヤのトンネル」 いのちのことば社「新聖書辞典」 「ヒゼキヤのトンネル 古代エルサレムの旧水路断面図」参照)

† 心のデボーション

「遺命(いめい)をなせ」 Ⅱ列王20:1 明治元訳聖書

「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない」 新改訳聖書

「遺命(いめい)をなせ」

ヒゼキヤが死の病に倒れたとき、預言者イザヤは「汝家の人に遺命(いめい)をなせ。汝は死なん。生くることを得じ」と神の言葉を告げた(Ⅱ列王20:1)。「遺命」は遺言のことである。イザヤの言葉にヒゼキヤは顔を壁に向けて泣いた。神はヒゼキヤの涙を御覧になり、彼に十五年のいのちを与えた。

ヒゼキヤはこの日から、確実におとずれる十五年後の死に向けて生きることになった。それはいのちの新たな緊張の始まりだった。

しかし、ヒゼキヤはこの緊張を長く保つことはできなかった。バビロンの王メロダク・バラダンの使者に宝物庫のすべて、武器庫、倉庫にある一切のものを彼らに見せてしまうという失敗を犯す。失敗は決定的なものでこれによりイスラエルのバビロン捕囚が決定する。

ヒゼキヤに告げられたのは「王宮に先祖が蓄えたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る」「ヒゼキヤの息子の中にはバビロンの宮殿につれて行かれ宦官にされる者もある」という厳しいものだった。

ヒゼキヤは自分の在世中は平和と安定が続くと思い、「主の言葉はありがたいものです」とイザヤに告げる。(Ⅱ列王20:19)「ヒゼキヤの十五年」とは何であったのだろうか?

(†心のデボーション00688)

† 細き聲 説教

「アハズの子」

「アハズは二十歳の時位に即きヱルサレムにて十六年の間世を治めたりしがその父ダビデと異にしてヱホバの善と觀たまふ所を行はず イスラエルの王等の道にあゆみ亦諸のバアルのために像を鋳造り ベンヒンノムの谷にて香を焚きその子を火に燒きなどしてヱホバがイスラエルの子孫の前より逐はらひたまひし異邦人の行ふところの憎むべき事に傚ひ また崇邱の上丘の上一切の靑木の下にて犠牲をささげ香を焚り」Ⅱ歴代28:1~3

ユダのアハズ王は異教バアルの像を造り、ベンヒンノムの谷で香を焚いて礼拝し、我が子を「火の中」を歩かせて焼いた。

アハズの子は不幸である。ベンヒンノムの谷で火の中を歩かせられ、親の誤った信仰の犠牲になって命を落とした。

アハズの信仰は異教崇拝であって、その子は誤った信仰の犠牲者であった。

しかし、たとえ親の信仰が正しいものであったとしても、「親の信仰」は必ずしも子の幸せを約束するものではない。それを知ったとき、親の心はおののきふるえるのである。

親から信仰を教えられ、素直に受け入れた子どもでも、やがて、親の信仰に必死になって抵抗する時が来る。

その信仰が正しいか、誤りかではなく、「親の信仰」という否定することの許されない苦悩が重くのしかかるのである。

親が子どもに残せる最大のものは信仰であろう。そして、子どもにとって、それはいのちの危機をも意味するのである。

親は自らの苦悩の中で神を見出してきた。だが、その子は生まれながらに神という苦悩を負わせられるのだ。その苦悩から自分の経験のなかに神を見出すまでこの戦いは続く。

アハズの子は「良い子」だった。アハズが「火を渡れ」と命じれば、疑わずに火の中を歩いた。だが、アハズの子の、疑うことをしない信仰は彼のいのちを奪った。

では、親は子どもに信仰を伝えてはならないだろうか。そんなことは決してない。子どもが親の信仰を拒むときがきたなら、親は信仰を伝えたこと、そして我が子がそれを拒むほどに「成長」したことを誇りに思うべきである。その子には、自らの信仰を見出す旅に出る時が来たのである。

我が子に自らの体験を語るときが来た。親もまた、新たな出発の時をむかえたのである。やがて子どもは旅から帰り、そこで見出した神について語るだろう。親は自らの出発から見出した神について語るだろう。

神はそれらすべての出会いを祝福されるに違いない。

我が子を「アハズの子」にしてはならない。

(皆川誠)

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