マタイによる福音書1章2節

マタイによる福音書
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† 福音書対観 「イエスの系図」 マタイ1:1~17

マタイ1:1~17  ルカ3:23~38  (ヨハネ1:1~18)
マタイ1:1~17

Matt. 1:2アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、
口語訳聖書

† 日本語訳聖書 Matt. 1:2

【漢訳聖書】
Matt. 1:2 亞伯拉罕生以撒、以撒生雅各、雅各生猶大及其諸兄弟。

【明治元訳】
Matt. 1:2 アブラハム、イサクを生(うみ)イサク、ヤコブを生(うみ)ヤコブ、ユダとその兄弟(きやうだい)を生(うめ)り

【大正文語訳】
Matt. 1:2 アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み、

【ラゲ訳】
Matt. 1:2 アブラハム イザァクを生み、イザァク ヤコブを生み、ヤコブ ユダと其の兄弟等とを生み、

【口語訳】
Matt. 1:2 アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、

【新改訳改訂3】
Matt. 1:2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、

【新共同訳】
Matt. 1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、

【バルバロ訳】
Matt. 1:2 アブラハムはイサクを生み、イサクはヤコブを生み、ヤコブはユダとその兄弟たちを生み、

【フランシスコ会訳】
Matt. 1:2 アブラハムの子はイサク、イサクの子はヤコブ、ヤコブの子はユダとその兄弟たち、

【日本正教会訳】
Matt. 1:2 アウラアムはイサアクを生み、イサアクはイアコフを生み、イアコフはイウダ及び其兄弟(けいてい)を生み、

【塚本虎二訳】
Matt. 1:2 アブラハムの子はイサク、イサクの子はヤコブ、ヤコブの子はユダとその兄弟たち、

【前田護郎訳】
Matt. 1:2 アブラハムはイサクの父、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟らの父

【永井直治訳】

Matt. 1:2 アブラハムはイサクを生めり。またイサクはヤコブを生めり。またヤコブはユダとその兄弟等を生めり。

【詳訳聖書】
Matt. 1:2 アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちの父、

† 聖書引照 Matt. 1:2

Matt. 1:2 アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み、

[アブラハム]  創世11:26~25:11; 21:2~5; ヨシュ24:2,3; I歴代1:28; イザ51:2; ルカ3:34; 使徒7:8; ロマ9:7~9;ヘブ11:11,17,18
[イサク]  創世21:1~35:29; 25:6,26 ヨシュ24:4; I歴代1:34;  イザ41:8; マラ1:2,3; ロマ9:10~13
[ヤコブ]  創世25:26~49:33; 29:32~35; 30:5~20; 46:8, 49:8~12 etc.;  出エ1:2~5; I歴代2:1, etc.; I歴代5:1,2; ルカ3:33,34; 使徒7:8; ヘブ7:14; 黙示7:5
[ユダ]  創世29:35; ヘブ7:14; 黙示7:5
[その兄弟ら]  創世29:31~24; 35:16~18
[生み]  ヨハ1:13; 3:3,7,8; 使徒13:33; Iコリ4:15; ヘブ1:5; 5:5; Iヨハ4:7; 5:1,4

† ギリシャ語聖書 Matt. 1:2

Stephens 1550 Textus Receptus
αβρααμ εγεννησεν τον ισαακ ισαακ δε εγεννησεν τον ιακωβ ιακωβ δε εγεννησεν τον ιουδαν και τους αδελφους αυτου

Scrivener 1894 Textus Receptus
αβρααμ εγεννησεν τον ισαακ ισαακ δε εγεννησεν τον ιακωβ ιακωβ δε εγεννησεν τον ιουδαν και τους αδελφους αυτου

Byzantine Majority
αβρααμ εγεννησεν τον ισαακ ισαακ δε εγεννησεν τον ιακωβ ιακωβ δε εγεννησεν τον ιουδαν και τους αδελφους αυτου

Alexandrian
αβρααμ εγεννησεν τον ισαακ ισαακ δε εγεννησεν τον ιακωβ ιακωβ δε εγεννησεν τον ιουδαν και τους αδελφους αυτου

Hort and Westcott
αβρααμ εγεννησεν τον ισαακ ισαακ δε εγεννησεν τον ιακωβ ιακωβ δε εγεννησεν τον ιουδαν και τους αδελφους αυτου

† ギリシャ語聖書 品詞色分け

Matt. 1:2

᾽Αβραὰμ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ισαάκ᾽Ισαὰκ δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ιακώβ᾽Ιακὼβ δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ιούδαν καὶ τος ὺἀδελφοὺς αὐτοῦ,

† ヘブライ語聖書 Matt. 1:2

Matt.1:2

אַבְרָהָם הוֹלִיד אֶת יִצְחָק, יִצְחָק הוֹלִיד אֶת יַעֲקֹב וְיַעֲקֹב הוֹלִיד אֶת יְהוּדָה וְאֶת אֶחָיו.

† ラテン語聖書 Matt. 1:2

Latin Vulgate
Matt.1:2

Abraham genuit Isaac. Isaac autem genuit Iacob. Iacob autem genuit Iudam, et fratres eius.
Abraham conceived Isaac. And Isaac conceived Jacob. And Jacob conceived Judah and his brothers.

† 私訳(詳訳)Matt.1:2

【私訳】 「アブラハムはイサクをもうけた、またイサクはヤコブをもうけた、またヤコブはユダと彼の兄弟たちをもうけた」

† 新約聖書ギリシャ語語句研究

Matt.1:2

᾽Αβραὰμ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ισαάκ, ᾽Ισαὰκ δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ιακώβ, ᾽Ιακὼβ δὲ ἐγέννησεν τὸν ᾽Ιούδαν καὶ τος ὺἀδελφοὺς αὐτοῦ,

【アブラハムは】 ᾽Αβραμὰ ᾽Αβραάμ アブラアム Abraam {ab-rah-am‘ }  (n-nm-s 名詞・主男単)

アブラハム  ヘブル名「衆人の父、父は高められる」 (創世11~25章)

創世記11:26~17:5;  マタ22:32;  ルカ19:9; ヨハ8:33;  使徒3:25;  ロマ4:1~5;  ガラ3:6,7,29;  ヘブ7:1,2

【イサクを】 ᾽Ισαάκ  ᾽Ισαάκ  イサアク Isaak { ee-sah-ak‘ } (n-am-s 名詞・対男単)

イサク ヘブライ名「笑う、(神よ、微笑んで下さい) 彼は笑う」

創世21:1~39章  マタ1:2; マル12:26; ロマ9:7; ガラ4:28; ヘブ11:9,18

【もうけ】 ἐγέννησεν  γεννάω  ゲンナオー  gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)

1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる

マタ1:2,16,20;  ヨハ1:13; 3:3,5;  Iヨハ4:7; 5:1

【また】 δὲ  de,  デ de {deh} (cc 接続詞・等位)

1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ

【イサクは】 ᾽Ισακὰ  ᾽Ισαάκ  イサアク Isaak { ee-sah-ak‘ } (n-am-s 名詞・対男単)

イサク ヘブライ名「笑う、(神よ、微笑んで下さい) 彼は笑う」

創世21:1~39章;  マタ1:2; マル12:26; ロマ9:7; ガラ4:28; ヘブ11:9,18

【ヤコブを】 ᾽Ιακβὼ  ᾽Ιακώβ  イアコーブ Iakōb {ee-ak-obe‘} (n-am-s 名詞・対男単)

ヤコブ  ヘブライ名「踵をとる」

ヤコブの英語名はジェイムスであり、フランス語名はジャックである。

創世記25:19~49章;  マタ1:2,22:32;  マル12:20;  ルカ20:37;  使徒7:8;  ヘブ11:20

【もうけ】 ἐγέννησεν  γεννάω  ゲンナオー  gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)

1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる

マタ1:2,16,20;  ヨハ1:13; 3:3,5;  Iヨハ4:7; 5:1

【また】 δὲ  δέ  デ de {deh} (cc 接続詞・等位)

1)ところで、しかし、さて、そして 2)しかも、そしてまた、なお、すると、また 3)次に、さらに 4)否、むしろ

【ヤコブは】 ᾽Ιακβὼ  ᾽Ιακώβ  イアコーブ Iakōb {ee-ak-obe‘} (n-nm-s 名詞・主男単)

ヤコブ  ヘブライ名「踵をとる」

ヤコブの英語名はジェイムスであり、フランス語名はジャックである。

創世記25:19~49章;  マタ1:2,22:32;  マル12:20;  ルカ20:37;  使徒7:8;  ヘブ11:20

【ユダ】 ᾽Ιούδαν  ᾽Ιούδας  イウーダス  Iouda {ee-oo-dah‘} (n-am-s 名詞・対男単)

ユダ  ヘブライ名「彼を讃美しよう」

創世29:35,37:18~27,38章; 49:8~12; マタ1:2,2:6  ルカ1:39; ヘブ7:14;  黙示5:5

【と】 καὶ  καί カイ kai {kahee} (cc 接続詞・等位)

1)~と、~も、そして 2)~さえ、でさえも 3)しかし 4)しかも、それは 5)それでは、それだのに 6)そうすれば、すなわち 7)のみならず、もまた

【彼の兄弟たちを】τος ὺἀδελφος  αὺὐτο,ῦ

【その】 ατοὐῦ  αὐτός  アウトス autos {ow-tos‘} (npgm3s 代名詞・属男3)

1)彼、彼女、それ(三人称の代名詞) 2)自身で、自分から、自分として(強調用法) 3)同じ同一の 4)まさに、ちょうど

【兄弟たちを】 ἀδελφος ὺ  ἀδελφός  アデるふォス  adelphos { ad-el-fos‘ } (n-am-p 名詞・対男)

< α  共通の、同じ + δελφύς  胎

1)対の、一対の、兄弟姉妹、自分と同じ親を持つ者、血縁者 2)似た、一致した、同国人、同胞、隣人、人間同志 3)信仰を同じくする人、使命を同じくする者  4)教会の霊的兄弟姉妹

マタ5:22; 12:46~50; 23:8; 25:40; 28:10;  使徒2:20;  ロマ1:13; 9:3; 16:23

【もうけた】 ἐγέννησεν  γεννάω  ゲンナオー  gennaō { ghen-nah‘-o } (viaa–3s 動詞・直・1アオ・能・単)

1)(父が子を)もうける、(母が子を)産む、~の父となる 2)生ませる、産出する、発生させる、生ぜしめる 3)生まれつき、生まれながら 4)(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる

マタ1:2,16,20;  ヨハ1:13; 3:3,5;  Iヨハ4:7; 5:1

† 英語訳聖書 Matt. 1:2

King James Version
1:2 Abraham begat Isaac; and Isaac begat Jacob; and Jacob begat Judas and his brethren;

American Standard Version
1:2 Abraham begat Isaac; and Isaac begat Jacob; and Jacob begat Judah and his brethren;

New International Version
1:2 Abraham was the father of Isaac, Isaac the father of Jacob, Jacob the father of Judah and his brothers;

Bible in Basic English
1:2 The son of Abraham was Isaac; and the son of Isaac was Jacob; and the sons of Jacob were Judah and his brothers;

Darby’s English Translation
1:2 Abraham begat Isaac; and Isaac begat Jacob, and Jacob begat Juda and his brethren;

Douay Rheims
1:2 Abraham begot Isaac. And Isaac begot Jacob. And Jacob begot Judas and his brethren.

Noah Webster Bible
1:2 Abraham begat Isaac; and Isaac begat Jacob; and Jacob begat Judah and his brethren;

Weymouth New Testament
1:2 Abraham was the father of Isaac; Isaac of Jacob; Jacob of Judah and his brothers.

World English Bible
1:2 Abraham became the father of Isaac. Isaac became the father of Jacob. Jacob became the father of Judah and his brothers.

Young’s Literal Translation
1:2 Abraham begat Isaac, and Isaac begat Jacob, and Jacob begat Judah and his brethren,

Amplified Bible
1:2 Abraham [d]was the father of Isaac, Isaac the father of Jacob, and Jacob the father of [e]Judah and his brothers [who became the twelve tribes of Israel].

Footnotes:
[d]Lit begot, fathered, from the Greek word gennao, meaning “to father a child” (early modern English beget) and so throughout the genealogy whenever father occurs.
[e]Gr Judas; names of people in the OT are given in their OT form.

† 細き聲 聖書研究ノート

<アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み>

ルカが救い主イエスの系図をアダムから始めるのに対して、マタイはアブラハムから始める。それはルカが福音書を異邦人にむけて書かかれ、マタイはユダヤ人の読者に福音を伝えんとしたからであろう。

<系図 マタイ1:2 アブラハムの子>

アブラハム -­ サラ (創11:29~)

イサク  (アブラハム・サラの子 創世記21:3)→ 他にハガルの子イシュマエル、

ケトラの子等 創世記25:1~6

ヤコブ (兄エソウ 創世記25:20~26)

ユダとその兄弟  (ユダはヤコブ・レアの第4子 創世記9:35)

ヤコブはレア・ラケル・ビルハ・ジルパから12人の子をもうけたがユダ以外は

系図から省略 創世記29~30章

᾽Ισακ δὰὲ γέννησεν τἐὸν Ιακώβ,᾽ >

マタイ1:2~15 は「人の名+δ ὲἐγέννησεν τνὸ+人の名」のかたちが繰り返される。δὲ  は同じことが並列されるとき、その一人一人を強調して際立たせる。

<もうけた>

「もうけた γεννάω  ゲンナオー gennaō { ghen-nah‘-o }」は「(父が子を)もうける、(母が子を)産む」で「(事物を)産出する、発生させる、生ずる、生ぜしめる」の意味である。「~の父となる」とも訳せる。

英語訳 Abraham begat Isaac で、「begat」は「父親が子をもうける」に用い、母親の場合には bear を用いる。

ラテン語 genuit はgigno の直・完了・能・3で「生む」を意味する。

<存在としての子>

「子」  は父が生ませ、母が生む。父は生まれた子の父となり、母は生まれた子の母となる。

子は「未熟な大人」ではない。子たる成熟した人格をもち、父や母と固有の関係を結ぶ者として生まれてくる。

<いのちの連続性>

「系図」は、いのちの連続性をあかしし、神の約束と祝福を伝えている。

しかし、子を生むことが許されない者にとっては、連続性から断たれる苦しみである。この悲しみは深い。だが、それは神の罰ではない。子を生むことが許されなかった人も含めて、すべての人は「連続性」の中にあり、その責任に生きることをもって神の祝福とすべきである。

「連続性」とは、変化である。変化をもって成熟とする。したがって「連続性の中の人間」は常に途上にあり、不完全である。だが、その不完全の中に神は介入してこられる。

<兄弟>

「兄弟 ἀδελφός  アデルフォス」は「α  共通の、同じ + δελφύς  胎」で、α は「否定」と「連結」の意味を持つ。この場合「連結」であり「共通の、同じ胎から出た者」を意味する。

「自分と同じ親を持つ者」のことで、同じ胎から生まれた者の意味。キリスト者は互いに「同じ胎(神の胎)から生まれた兄弟」である。

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟(ἀδελφός アデルフォス)、姉妹( ἀδελφή アデルフェー)、また母である」(マタイ12:50)、「あなたがたはみな兄弟だからです」(マタイ23:8)

だが、しばしば、兄弟間に深刻な確執が生まれ、人間の根源的な意味を問う。(教会においても「兄弟姉妹」にしばしば深刻な対立が生まれることを隠すことはできない)

神がおられる限り、我々は兄弟間の確執(そして教会内、ひいては教団、そして異宗教間の対立)に立ち会い、新しい意味を見つけなければならない。

<アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神>

神は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」である(出エ3:6)。神はアブラハム、イサク、ヤコブのそれぞれの固有の人生に現れ給うた。神は時と空間に介在され、「私」の経験に直に関わりをもたれる。その意味で、信仰は「私」の経験と深くかかわって成立し、神は「わたしの神」である。戦慄せよ。

そして、また、神は「わたしの神」として他者自身の内に居ます神である。「わたしの神」が、他者の内に「わたしの神」として現れ給うことにおいて、「私」は他者との関わりの内に確かに存在するのである。

<族長>

「アブラハム、イサク、ヤコブ」は「族長 אִלּוּף ’Eliyphaz {el-ee-faz’}」と呼ばれた。この言葉は「素直な、おとなしい、従順な、友、親密な」という意味をもっている。族長は柔和な人々であった。

英語で「族長」は「patriach」で、これはギリシャ語 πατριά 「血統、家系、氏族、家族」と ἀρχή 「支配者」からなる言葉である。

<出発>

「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(創世記12:4) マタイはアブラハムからイエスの系図を始める。アブラハムは偉大な存在である。だが、すべては、アブラハムが神の言葉に従って「旅立つ」ことから始まった。一人の人間が神に従って「出発」したことから歴史がはじまる。アブラハムはその全体を知らないままに生きた。

「なんじの業をなしつつ老いゆくべし」 ベン=シラの知恵 11:20 日本聖公会訳

† 心のデボーション

「即ち肉の子らは神の子らにあらず、ただ約束の子等のみ其の裔と認めらるるなり」 ロマ9:8大正文語訳聖書

「すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです」 新改訳聖書

「約束の子」

「イエスの系図」の最初にくるのは「アブラハム」である。その子イサクは「約束の子」であった。

神はアブラハムを祝福し「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12:1~3)。しかし、アブラハムの妻サラは子を生むことの出来ない体質であった。子のないアブラハムに神は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(創世記15:4)と言われ、「アブラハムは主を信じた」(創世記15:6) 「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(創世記17:19)。

こうして、アブラハムが百歳、妻サラ九十歳のとき、「約束の子」イサクが誕生した。

マタイの「イエスの系図」は神の「約束」の成就であった。一人の神に従った人間と神の間に交わされた「祝福の契約」は千年の時を経て実現していくのである。一人の「私」への神の祝福は千年を経てどのような歴史を創るのだろうか。

(†心のデボーション00330)

† 心のデボーション

「ヱホバの言彼にのぞみて曰く此者は爾の嗣子となるべからず汝の身より出る者爾の嗣子となるべしと」 創世記15:4 明治元訳聖書

「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。『その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない』」 新改訳聖書

「私より出(いづ)る者」

神はアブラハムとサラに「汝の身より出(いづ)る者汝の嗣子(よつぎ)となるべし」(創世記15:4)と語られる。神の祝福は「私」の「身より出るもの」にある。いのちはいのちを生む。「私」といういのちの生み出すものだけが「私」を継ぐ。

(†心のデボーション00382)

† 心のデボーション

「イサク、ヤコブを生み」 マタイ1:2 大正文語訳聖書

「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ」 新改訳聖書

「神の祝福」

「アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブ」と続く。ヤコブはイサクの長子ではない。イサクにはエソウという長男がいたが、エソウは長子の権利を軽んじ、一杯の煮物と交換してヤコブに渡してしまう。(創世記25:27~34)

「長子の権利」にこだわり、きわどい方法で手に入れるヤコブの、必ずしもほめられない信仰を巻き込みながら神の「祝福」は刻まれていく。そのようにして神は「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」(出エ3:6)と呼ばれる。

信仰が見出すのは「神」ではなく、「私の神」である。

(†心のデボーション00409)

† 心のデボーション

「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み」 マタイ1:2 大正文語訳聖書

「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ」 新共同訳聖書

「祝福の継承」

ヤコブもユダも「後継の子」ではない。ヤコブは二男であり、ユダは四男である。アブラハムの祝福を受け継ぐ「長子の権利」は自動的に約束されるものではない。むしろ神の祝福は受ける資格のない者に与えられるようだ。

信仰は私に始まり、私に終わるものでもない。もし、私に始まり、私に終わるとするならば、それは真の祝福ではあるいまい。

信仰者はすべて「継承者」である。信仰は誰かから私に「継承」され、そして私から後の誰かに「継承」されていく。その不思議をなされるのは神である。

(†心のデボーション00422)

† 心のデボーション

「見よ。子どもは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は」 詩篇127:3~4 大正文語訳聖書

「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ」 新改訳聖書

「勇士の手にある矢」

子どもは神の「賜物(たまわりもの)」であった。子どもは「勇士の手にある矢」であり、多くの子どもに恵まれることは「矢筒をその矢で満たした人」として祝福された。

だが、矢筒の矢数を誇ってはいけない。的を狙って外さない「矢」であることが肝要である。間違うと「矢」がそれを射た者を襲うこともある。

(†心のデボーション00427)

† 心のデボーション

「イサク、ヤコブを生み」 マタイ1:2 大正文語訳聖書

「見よ。子どもは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は」 詩篇127:3~4 大正文語訳聖書

「子どもは主の賜物」

「子を生む γεννάω  ゲンナオー」は「生ぜしめる」である。

ここには、自分と似た存在をこの世に「生ぜしめる」ことへの緊張と喜びがある。

ハンナは息子サムエルが乳離れしたとき、主の宮に行き「われ此子のためにいのりしにヱホバわが求めしものをあたへたまへり 此故にわれまたこれをヱホバにささげん其一生のあひだ之をヱホバにささぐ」と祈り、我が子を神にささげている。(Iサムエル1:28)

「これをヱホバにささげん」は I have lent him to the LORD. で、「神にレント(お貸し)します」の意味である。すべての父と母は、その時が来たら、我が子を神にお返し(レント)しなければならない。その時はかならず来る。

(†心のデボーション00431)

† 心のデボーション

「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み」 マタイ1:2 大正文語訳聖書

「見よ。子どもは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は」 詩篇127:3~4 大正文語訳聖書

「アブラハム、イサクを生み」

「もうけた γεννάω ゲンナオー」は「(父が子を)もうける、(母が子を)産む」に用いられる。子どもを産むのは母であるが、父も「産んだ」と表現される。男もまた「子」を産むのであり、「子」は父にとっても、母と同様に自らの肉体から生まれた存在である。

(†心のデボーション00445)

† 細き聲 説教

「アブラハムの裔、ダビデの裔、イエス キリストの系圖」

「アブラハムの裔(こ)なるダビデの裔(こ)イエス キリストの系圖(けいづ)」 マタイ1:1 明治元訳聖書聖書 マタイ1:1~16

初めて新約聖書を開いた人は、マタイの最初の一章に少なからず手こずったのではないだろうか。日本人として馴染みのない人々の名前を読むのは苦痛である。マタイはユダヤ人に対して「福音書」を書いたとされるが、ユダヤ人でも、覚えのない人の名や、系図にあるべきでない名を見つけて、当惑したのではないだろうか。

しかし、「系図」に記された人物を一人一人聖書に調べていく、その地道な努力は必ず報われ、豊かなメッセージを見出すことになるはずである。

「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み」マタイ1:2 大正文語訳聖書

系図の冒頭に、アブラハム、イサク、ヤコブという名を見出す。この三人の名については親しみを感じることができる。三代に及ぶ神の家族の物語は創世記12 ~50章に記録されている。それは偉大な信仰の物語であるが、マタイ1:2では、わずか一行に言い尽くされている。そればかりではない。我々は系図にモーセやイザヤ、エリヤなどの名を見出すことはできない。もとより「系図」は「信仰列伝」ではなく、イエスの家系を辿るもので、そこに彼らの名がないことも、名のみで生涯の詳細が記録されないのも当然のことである。しかし、これらの信仰者の名を惜しげもなく切り捨てる「系図」のもつ厳しい姿勢は、偉大な信仰の英雄である父アブラハムをも、たった一つの名をもって言い尽くすことの中に示されるようではないか。

「ゾロバベル、アビウデを生み、アビウデ、エリヤキムを生み、エリヤキム、アゾルを生み、」マタイ1:13大正文語訳聖書

これに対して、我々はマタイ1:13のアビウデ以後の人々について何も知らない。旧約聖書にこれらの人々の記録は全く残されていないからである。彼らはいわば「名もなき人々」である。しかし、「系図」は、これらの人々に、偉大な信仰の父「アブラハム」と同じ席を与えている。(神の前では、人は自分がアブラハム、ダビデと共に並び立つのを知るだろう。)

内村鑑三は「イエスの系図」にダビデの子として記録された王達十四人のうち「善き王」が七人「悪しき王」が七人であることを示して、「善き王かならずしも善き子を生まず、悪しき王かならずしも悪しき子を生まない」と語っている。(内村鑑三『聖書注解 マタイ伝』)

「善きソロモン王」は「悪しきレハブアム王」を生み、「悪しきレハブアム王」から「悪しきアビヤ王」が生まれ、「悪しきアビヤ王」から「善きアサ王」が生まれている。

内村鑑三が指摘する「善王」と「悪王」のテーマは、形をかえて他にも、数多く存在する。「偉大な者」と「名もなき者」、「ヤーヴェの信仰を守る者」と「異教の神々に従う者」、「ユダヤ人」と「異邦人」、「支配」と「被支配」、「善」と「悪」、「勝利」と「敗北」、「栄光」と「悲惨」、「生」と「死」、「光」と「闇」等々。

我々はアブラハムからイエスまで、沢山の人の名を読む。その名の数だけの固有ないのちがある。良きものから悪しきものが出、悪しきものから良きものが生まれる。人間は多様である。

「イエスの系図」はあたかも一本の真珠のネックレスである。真珠は中央に穴を開けられ、一本の細くて強い紐で繋がれている。前と後に繋がれることによって真珠は一個の存在以上の存在となる。

良き珠もあれば悪しき珠もある。しかし、どの一つを失ってもネックレスは成立しない。繋がれた一個一個の珠に、いかなる主張があろうと、その価値は自らに穿たれた穴を貫き、前と後を繋ぐ一本の細くて強い紐にある。

「系図」が示すのは、一個の者として生まれ、終わる存在としての人間が、いのちを伝えられ、後のいのちに関わりつつ生きていることである。人は自身の中心を「人間」という一本の細くて強い紐が貫かれている存在である。人間は「全体としての人間」であり、「全体としての人間」は一個の人間として現われてくる。

「アブラハムの裔(こ)なるダビデの裔(こ)イエス キリストの系圖(けいづ)。」 マタイ1:1 明治元訳聖書

漢訳聖書は「子」に「裔(こ)」の字をあて、明治文語訳聖書はそのまま用いている。「裔(こ)」は「衣服のふち、へり、すそ」を意味する言葉で、後代の子孫をさす。「裔孫」といえば「遠い子孫」である。「系図」は一着の裾の長い服である。アブラハムからダビデ、そしてキリストまでの三つの十四代に及ぶ。

それは一個の人間である。人は「衣服のふち、へり、すそ」(系図の始まりから末の子孫)までを含めての「私」である。

異なるいのちは繋がれて1本の鎖となる。「私」の内には、人間によって生きられたいのちが全体として宿っている。

そこから「私」への歩みが始まるのである。

マタイがイエスの存在を「系図」から説きおこすのは、人がイエスに到達するには自己の全存在に含まれるものを経なければならないことを示唆する。人の「自己」に含まれる、生きとし生けるものの全体、すなわち全存在、全経験、全出来事、そして全意味についてである。

聖書の中心点は「神」ではなく「人間」である。「神」を知ろうとする者は、「人間」を、「自己」を正しく知らなければならない。「自己」を知る者は「神」を知る。この認識は一つである。

しかし、人は「自己」の内に「人間のすべて」を認めることはできない。それはあまりに過酷な認識である。我々はしばしば、「自己の真実」に目を閉じてしまうのである。

預言者イザヤは言う。

「たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける(「われ掌(たなごころ)になんじを彫刻(えりきざ)めり」 文語訳)」(イザヤ49:15~16)

神の御手には、生きとし生ける者達の名が、すべて刻み込まれている。たとえ、私が人間について認めがたい自己についての事実についても、神は「私」を記憶したもう。神は鋭い小刀をとり、御手に「私」そのものを刻まれた。神の御手から血が流れた。神は痛みと共に「私」の名を手のひらに刻まれた。

(「たなごころ」は漢字で「掌」と書くが、「たな」は「手」、「こころ」は「心」で「手の心」すなわち「手の中心」を意味する。神はわたしを「手の中心」(存在の中心)に受けとめ、その名を刻みつけられる。)

「系図」が「人間の系図」であるとき、「系図」の終わりにイエスに到達するのは、普通の事ではない。そこにマタイの全メッセージがある。イエスがヨハネから洗礼を受けられたとき、天から「これは我が愛(いつく)しむ子、わが悦ぶ者なり」との聲があった。(マタイ3:17)神が「掌(たなごころ)にその名を彫刻(えりきざ)」まれたのは、これを「我が愛(いつく)しむ子、わが悦ぶ者」と呼ばれるが故である。神はイエス・キリストにおいて、「私」に含まれるすべてを「愛(いつく)しみ」給う。それで、私はイエス・キリストにおいて、神が痛みと共に掌に刻まれた、人間のいのちの全体を、「私」そのものを、痛みに耐えて、「愛(いつく)しみ」をもって認めることが始まるのである。「イエスの系図」は「救いの系図」である。

(皆川誠)

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