マタイによる福音書1章1節

マタイによる福音書
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† 福音書対観 「イエスの系図」 マタイ1:1~17

マタイ1:1~17  ルカ3:23~38  (ヨハネ1:1~18)

† イエス・キリストの系図について

新約聖書にはマタイとルカが「イエス・キリストの系図」を記録している。

マタイはアブラハムからヨセフまでを辿り、ルカはヨセフからアダムまでをさかのぼる。

マタイとルカの二つの系図にはダビデからヨセフまでの区分が全く別の系図である。この問題についていくつかの説明があるが、いずれも明白ではない。

明らかなことは、マタイはソロモンからヨセフまでのダビデの系図をもっており、ルカはナタンからヨセフまでの系図をもっていたことである。その場合、マタイがヨセフの父を「ヤコブ」とするのに対して、ルカが「ヘリ」としていることについては、ヨセフには何らかの理由で、二人の父親との関わりを持っていたと想像される。しかし、それもまた史実として確認されたものではない。本福音書対観ではヨハネ1:1~18をマタイとルカの「系図」に深くかかわるものとして入れる。

ヨハネ1:1~18は厳密な意味で「系図」ではないことから、違和感をおぼえるかも知れない。ヨハネ1:1~18は天地創造に先立って存在した「ロゴズ」がイエス・キリストであることを明示し、マタイとルカの両系図に貫かれる神の救済のご計画の全体を俯瞰するものである。それはマタイ、ルカの両系図に盛り込まれない部分を補うものである。ヨハネ1:1~18によってマタイ、ルカの両系図が完結すると考えることができる。

マタイはイエス・キリストからアブラハムまでを、ルカはアブラハムからアダムまでを、ヨハネはアダムからロゴスにまで遡る。それはあたかも、神の放たれた一筋の光の矢が歴史の中を貫き、人類の救済を実現する、壮大なメッセージのようである。

聖書の「系図」は単なる家系図や系譜ではない。時と場を結ぶ神のメッセージである。「系図」によって、私たちは聖書の生きた歴史とそこに働く神のご計画とメッセージを「今ここ」に生きる「私」に受け取るのである。

† 日本語訳聖書 Matt. 1:1

【漢訳聖書】
Matt. 1:1 亞伯拉罕之裔、大闢之裔、耶穌基督族譜。

【明治元訳】
Matt. 1:1 アブラハムの裔(こ)なるダビデの裔(こ)イエス・キリストの系圖(けいづ)。

【大正文語訳】
Matt. 1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系圖(けいず)。

【ラゲ訳】
Matt. 1:1 アブラハムの裔(こ)なるダヴィドの裔(こ)イエズス・キリストの系圖(けいづ)。

【口語訳】
Matt. 1:1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。

【新改訳改訂3】
Matt. 1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

【新共同訳】
Matt. 1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。

【バルバロ訳】
Matt. 1:1 アブラハムの子、ダビドの子、イエズス・キリストの系図。

【フランシスコ会訳】
Matt. 1:1 アブラハムの子、ダビデの子であるイエス・キリストの系図。

【日本正教会訳】
Matt. 1:1 ダワィドの子、アウラアムの子、イイスス ハリストスの族譜(ぞくふ)。

【塚本虎二訳】
Matt. 1:1 アブラハムの末のダビデの末のイエス・キリストの系図

【前田護郎訳】
Matt. 1:1 アブラハムの子ダビデの子 イエス・キリストの系図。

【永井直治訳】
Matt. 1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエスキリストの系圖の卷。

【詳訳聖書】
Matt. 1:1 アブラハムの子<子孫>、ダビデの子<子孫>、イエス・キリスト<メシヤ、油そそがれたかた>の家系の書<系図>。

† 聖書引照 Matt. 1:1

Matt. 1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系圖(けいず)。

[アブラハム]  創世11:26~25:11; 12:1~4; 17:1~4; 22:17~18; ロマ9:5,7; ガラ3:16
[アブラハムの子]  創世12:3; 22:18; 26:3~5; 28:13,14; ロマ4:13; ガラ3:16
[ダビデ]  Ⅱサム7:12~16  詩篇89:3,4; 132:11; イザ9:6,7; 11:1; ルカ1:32,69; ヨハ7:42; 使徒13:23; ロマ1:3; 黙示22:16
[ダビデの子]  マタ9:27; 15:22; 22:42~45; Ⅱサム7:13,16;  Ⅰ歴代17:11; 詩篇89:36; 132:11; イザ9:6,7; 11:1; エレ23:5; 33:15~17,26; アモ9:11; ゼカ12:8; ルカ1:31,32,69,70; ヨハ2:30; 7:42; 13:22;  使徒2:30; 13:22; ロマ1:3; 黙示22:16
[イエス・キリスト]  マタ1:18~25; 9:27
[系圖]  創世2:4; 5:1; イザ53:8; ルカ3:23~38; ロマ9:5 Ⅰテモ1:4;  テト3:9; ヤコ3:6

† ギリシャ語聖書 Matt. 1:1

Stephens 1550 Textus Receptus
βιβλο᾽ γενεσεω᾽ ιησου χριστου υιου δαβιδ υιου αβρααμ

Scrivener 1894 Textus Receptus
βιβλο᾽ γενεσεω᾽ ιησου χριστου υιου δαβιδ υιου αβρααμ

Byzantine Majority
βιβλο᾽ γενεσεω᾽ ιησου χριστου υιου δαυιδ υιου αβρααμ

Alexandrian
βιβλο᾽ γενεσεω᾽ ιησου χριστου υιου δαυιδ υιου αβρααμ

Hort and Westcott
βιβλο᾽ γενεσεω᾽ ιησου χριστου υιου δαυιδ υιου αβρααμ

† ギリシャ語聖書 品詞色分け

Matt. 1:1

Βίβλος γενέσεως ᾽Ιησοῦ Χριστοῦ υἱοῦ Δαυὶδ υἱοῦ ᾽Αβραάμ

† ヘブライ語聖書 Matt. 1:1

Matt. 1:

   א סֵפֶר הַיּוּחֲסִין שֶׁל יֵשׁוּעַ הַמָּשִׁיחַ בֶּן־דָּוִד בֶּן־אַבְרָהָם

† ラテン語聖書 Matt. 1:1

Latin Vulgate
Matt. 1:1
liber generationis Iesu Christi filii David filii Abraham.
The book of the lineage of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham

† 私訳(詳訳)Matt. 1:1

【私訳】 「アブラハムの子<子孫、末裔>、ダビデの子<子孫、末裔>、イエス・キリストの系図の書<巻物、本>」

† 新約聖書ギリシャ語語句研究

Matt. 1:1

Βίβλος γενέσεως ᾽Ιησοῦ Χριστοῦ υἱοῦ Δαυὶδ υἱοῦ ᾽Αβραάμ

【アブラハムの子】 υἱοῦ ᾽Αβραάμ

【アブラハムの】 ᾽Αβραάμ ᾽Αβραάμ アブラアム Abraam {ab-rah-am‘ }  (n-gm-s 名詞・属男単)

アブラハム  ヘブル名「衆人の父、父は高められる」 (創世11~25章)

創世記11:26~17:5; マタ22:32;  ルカ19:9;  ヨハ8:33;  使徒3:25;  ロマ4:1~5;  ガラ3:6,7,29;  ヘブ7:1,2

【子】 υἱοῦ υἱός フゅィオス huios {hwee-os’}  (n-gm-s 名詞・属男単)

1)息子、子、子供、男の子、兄 2)子孫、末裔 3)従者、弟子、仲間 4)客、深い関係にあるもの 5)(ロバの)個

「υἱός フィオス」はヘブライ語「@Beベーン ben {bane}  息子」にあたり、「בֵּן  ベーン ben {bane}」は「בָּנָה バーナー banah {baw-naw’} 建てる」に由来する。「家を建ち上げる、興す者」の意味である。

マタ1:1; 3:17; 16:16; 22:42,45;  Ⅱコリ6:18;  ガラ3:7

ラゲ訳は「子」を「子孫」として、「裔」の字をあてる。「アブラハムの裔なる、ダヴィッドの裔」

【ダビデの子】 υἱοῦ Δαυιδ

【ダビデの】 Δαυιδ  Δἀυίδ  ダウイド  Dabid { dab-eed‘} (n-gm-s 名詞・属男単)

ダビデ  ヘブル名「愛せられる者」 イスラエルの王

マタ1:1,6,17;  マル11:10;  ルカ1:32;  使徒15:16;  ヘブ4:7;  黙示3:7

【子】 υἱοῦ υἱός フゅィオス huios {hwee-os’}  (n-gm-s 名詞・属男)

1)息子、子、子供、男の子、兄 2)子孫、末裔 3)従者、弟子、仲間 4)客、深い関係にあるもの 5)(ロバの)子

「υἱός フィオス」はヘブライ語「בֵּן  ベーン ben {bane}  息子」にあたり、「בֵּן ベーン ben {bane}」は「בָּנָה バーナー banah {baw-naw’} 建てる」に由来する。「家を建ち上げる、興す者」の意味である。

マタ1:1; 3:17; 16:16; 22:42,45;  Ⅱコリ6:18;  ガラ3:7

【イエス】 ᾽Ιησοῦ  ᾽Ιησοῦς イエースウース  Iēsous {ee-ay-sooce‘ } (n-gm-s 名詞・属男単)

イエス 意味は「ヤㇵウェは救いである」

「イエス」はヘブル語「 יְהוֺשׁוּעַ イェホーシュア Yehowshuwa` {yeh-ho-shoo’-ah} ”Jehovah is salvation” 主は救い、ヨシュア」の ギリシャ名

「モーセ、ヌンの子ホセアをヨシュアと名づけたり」 民数13:16「ホセア(救い)」「ヨシュア(主は救い)」。

マタ16:16;  マル5:7;  ルカ1:32;  ヨハ1:29,36; 14:6; 6:33,51;  ロマ1:16; 3:29; 11:26; 14:9;  Ⅰコリ1:24; 2:8; 15:45;  Ⅰテモ6:15;  ヘブ2:10; 3:6; 9:11,15; 12:24;  黙示1:5,8; 2:8; 3:14 etc.

【キリストの】 Χριστοῦ Χριστός  くリストス Christos { khris-tos‘ } (n-gm-s 名詞・属男単)

キリスト ヘブライ語「םָשִׁיחַ メシーハー mashiyach {maw-shee’-akh}」、アラム語の「メシアーハー」のギリシャ名で「油そそがれた者、メシア」の意味

「油そそぎ」は王や大祭司の任職式に行なわれた。(Ⅰサムエル10:1、出エジプト30:22~30「聖なるそそぎ油」(出エジプト30:25)と呼ばれ、「油そそがれたもの」は聖なるものとされた。(出エジプト30:29)

マタ16:16; 24:24;  マル8:29; 13:22;  ルカ9:20; 24:46;  ヨハ4:25;  使徒17:3;  ピリ1:15;  Ⅰヨハ2:22; 5:1;  黙示20:4 etc.

【系図】 原文「系図の書」 Βίβλος γενέσεως

【系図の】 γενέσεως  γένεσις  ゲネシス  genesis { ghen‘-es-is } (n-nf-s 名詞・属女単)

< γίνομαι ギノマイ 成る

1)誕生、血統、世代、出所、系統、起源 2)生成、成立、出生、産出、発生、創造、起源、3)被造物、生物、部族、種族 4)自然、生命、生 5)生存、存在

LXXにおいて「創世記」は「GENESIS  ゲネシス Genesis」であり、創世記5:1「系図の書」は「Βίβλος  γενέσεως」と表現される。

ラテン語 generationis は「繁殖、発生、血統、家系、世代」をあらわす。

マタ1:1,18;  ルカ1:14;  ヤコ1:23; 3:6

【書】 Βίβλος  βίβλος  ビブろス  biblos { bib‘-los }(n-nf-s 名詞・主女単)

1)パピルス紙 2)書物、巻物、文書、論文、本、書 3)手紙 4)詩篇

ピリピ4:3「命の書」 βίβλῳ ζωῆς

「パピルス」はエジプト産の葦「パプロス πάπυρος」の茎の繊維で作った紙。

マタ1:1; マル12:26; ルカ7:42; 20:42; ピリ4:3; 黙示3:5; 20:15

† 英語訳聖書 Matt. 1:1

King James Version
1:1 The book of the generation of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham.

American Standard Version
1:1 The book of the generation of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham.

New International Version
1:1 A record of the genealogy of Jesus Christ the son of David, the son of Abraham:

Bible in Basic English
1:1 The book of the generations of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham.

Darby’s English Translation
1:1 Book of the generation of Jesus Christ, Son of David, Son of Abraham.

Douay Rheims
1:1 The book of the generation of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham:

Noah Webster Bible
1:1 The book of the generation of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham.

Weymouth New Testament
1:1 The Genealogy of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham.

World English Bible
1:1 The book of the generation of Jesus Christ, the son of David, the son of Abraham.

Young’s Literal Translation
1:1 A roll of the birth of Jesus Christ, son of David, son of Abraham.

Amplified Bible
1:1 The record of the genealogy of [a]Jesus the [b]Messiah, the son (descendant) of [c]David, the son (descendant) of Abraham:

Footnotes:
[a]Heb Yeshua (Joshua), meaning The Lord is salvation.
[b]Gr Christos. Greek for Messiah, which means Anointed One. Throughout his gospel, which is directed primarily to Jewish believers, Matthew uses OT Scripture to emphasize the fact that Jesus is their promised Messiah.

[c]The shepherd boy who killed the Philistine giant Goliath, and later became king of Israel.

† 細き聲 聖書研究ノート

 <新約・旧約データ>

新約聖書 27巻 260章 7959節

旧約聖書 39巻 929章 23214節

(カトリックでは旧約外典7巻を加えて旧約聖書46巻とする)

 <共観福音書>

マタイ、マルコ、ルカの三福音書はイエスの生涯につていの記述から「共観福音書」とよばれる。

英語 Synoptic Gospels はギリシャ語 σύνοψις(通観) 「σύν 一緒に + ὄψις 見る、外観、外見」で「一緒に見る」の意味である。

 <マタイによる福音書>

「マタイによる福音書」には著者の名前は記されていないが、その著者は使徒マタイである。マタイは収税人であったがイエスに召されて弟子となり、ユダヤ人のために「マタイによる福音書」を書いた。(マタイ9:9)

マタイは福音書を整理して書いており、イエスの行った奇跡の中に自分の召命を置いている。それはあたかも自分の救いが「奇跡中の奇跡」であるというがごときである。

 <アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系圖>

多くの聖書はマタイ1:1を「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系圖」とするが、日本正教会訳では「ダワィドの子、アウラアムの子、イイスス ハリストスの族譜(ぞくふ)」とし、ダビデの重要さを強調している。

 <イエス・キリスト>

「イエス」は御使いガブリエルによって母マリヤに示された名である。(マタイ1:21、ルカ1:31)

「イエス」はヘブル語「י‏ְהוֹשׁוּעַイェホーシュア Yehowshuwa` {yeh-ho-shoo’-ah} ”Jehovah is salvation

主は救い、ヨシュア」の ギリシャ名である。(現代ヘブライ語聖書で Chrisut はMessiah הַמָּשִׁיחַ )「キリスト Χριστός くリストス Christos { khris-tos‘ } 」は動詞形 χρίω  油を注ぐ からきた名である。

ヘブライ語「מָשִׁיחַ メシーハー mashiyach {maw-shee’-akh}」、アラム語の「メシアーハー」のギリシャ名で「油そそがれた者、メシア」の意味である。

イエスに出会ったアンデレは兄弟ぺテロに「私たちはメシア(訳して言えば、キリスト)に会った」と告げた。(ヨハネ1:41)

 <アブラハムの子 υἱοῦ ᾽Αβραάμ

神はアブラハムを「大いなる国民」とすると約束し、アブラハムを祝福の基とされた。(創世記12:1~3 Ⅱサムエル7:12~16)「アブラハムの子」はこの祝福を受け継ぎ、成就する者である。

 <ダビデの子 υἱοῦ Δαυὶδ

「ダビデの子」のテーマはⅡサムエル7:12~13のナタンのダビデの契約「わたしはあなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる」(Ⅱサムエル7:12)にはじまる。ダビデは息子ソロモンを契約の「ダビデの子」としたが、ダビデ王国は滅び、ソロモンの神殿は破壊され、イスラエルにダビデの契約に基づくメシヤ待望が生まれた。

最初にイエスを「ダビデの子 υἱοῦ Δαυὶδ」と呼んだのは、神殿の祭司でもエルサレムの学者でもなく、二人の視力を失った男(マタイ9:27~31)であり、エリコの道端の二人の目の不自由な男(一人はバルテマイ)であり(マタイ20:29~34、マルコ10:46~52、ルカ16:35~42)、そして異邦の地ツロ・シドンに住むカンン人の女だった。(マタイ15:22)。その後、エルサレムの民衆に「イエスはダビデの子ではないか」とのささやきがひろまった。(マタイ12:23) 十字架の直前にイエスがエルサレムに入城されると、人々は上着を道に敷き「ダビデの子にホサナ」と叫び、祭司長、律法学者たちは、子どもが宮で「ダビデの子にホサナ」と叫ぶのを聞いて腹を立てた。(マタイ21:7~15)

(「ダビデの子」 細き聲聖書研究ノート マタイ9:27<ダビデの子> 参照)

 <契約の成就者>

マタイはイエスの系図をアブラハムからはじめる。それはイエスがアブラハムとダビデの両契約の成就者であることとを示すためである。

 <人間の歴史としての系図>

「系図 Βίβλος γενέσεως ビブロス ゲネセオース」は「誕生、生成、成立、出生、発生、創造、起源、血統、生存、存在、出所」についての「書物、文書、巻物、論文、手紙」の意味である。聖書はイエスの「誕生、生成、成立、出生、発生、創造、起源、血統、生存、存在、出所」を問う。

ギリシャ語本文の「系図 Βίβλος」には定冠詞がない。しかし、属格の語尾変化により「The book」であることは明らかである。

Moffatt は「the birth roll of Jesus Christ」と訳す。

マタイ1:1~17の「系図」は人間の歴史そのものである。イエスは人間そのものを内にもつ者として来られる。

そのことからも、「個」としての「私」は私にはじまり、「私」に終わる存在ではなく、生きとし生けるものの、また存在するであろう、いのちの経験のすべてを内に持つ者として、すなわち、すでに在りこれらも在り続ける者として生きる存在であることを示唆されるのである。そして、人間の全経験は「イエス・キリスト」という中心に収斂されるのである。

  <世代 generation>

英語の「世代 generation」はラテン語 generare(発生する、生む)が語源で、その語根 gen(er)- から
generare (to produce 生む)、 genus (a race 種族)、gignere (to bear 産む、 beget 生じさせる)などの言葉が派生する。generare の語源はギリシャ語 γένεσις  ゲネシス  genesis { ghen‘-es-is } ( origin 起源、 source 源)である。「生み出す」から「おなじもとから生まれたもの」を意味する。

 <自己>

マタイがイエスの存在を「系図」から説きおこすのは、人がイエスに到達するには自己の全存在に含まれるものを経なければならないことを示唆する。人の「自己」に含まれる、生きとし生けるものの全体、すなわち全存在、全経験、全出来事、そして全意味についてである。

 <ヘロデと系図>

ユダヤ人は系図に特別な関心を寄せた。系図は重要なもので子供が生まれると記録され会議所に厳重に保管された。家系図を失った祭司は祭司職に就く事を禁じられている。(エズラ2:61~63)

しかし、ヘロデ大王は自分の家系に半分エドム人の血が混じっていたためユダヤ人からは軽蔑されることになった。ヘロデはそれを恥じて記録係の役人を殺害し、自分の不完全な家系図を隠そうとしたばかりか、ユダヤ全国の家系図を焼き捨てるよう命じたという。(エウセビオス「教会史」1章7節)

マタイのイエスの家系図はヘロデ大王の命令にもかかわらず残されたものである。

「ヘロデは、イスラエル人としての一族の系図などは、自分には何の役にも立たなかったのと、自分の出自の卑しさを知って衝撃をうけ、自分の一族の系図を焼き払ってしまった。彼は、もし人が公共の記録から彼の一族を、(ユダヤ人の)祖父や、改宗者、ゲイオラスと呼ばれる混合者などに遡らせることさえできなければ、自分の出自のよさを見せかけることができると考えたのである」(エウセビオス「教会史」より 「ゲイオラス geio-ras」はヘブル語「ゲル よそ者」の音訳)

 <系図とアイデンティティ>

「系図」は個人のアイデンティティと深くかかわる。それは個人が家系、血筋,血統をもつのみでなく、その民族、人種アイデンティティに生きる者であることを示す。

いかなる「系図」も、「私」が人間の「祝福と呪い」を生きる者であることを証する。「純粋な系図」というものはない。「血の流れ」は「私」の、重く避けることのできない荷物である。しかし、信仰者は、己が「血の流れ」と向き合い、そのアイデンティティを受容することを厭わないであろう。キリスト者になることは日本人のアイデンティティを損なうのではなく、むしろそれを完成することに新たな信仰を見出すからである。

だが、そのプロセスは単純に「民族アイデンティティ」を継承することなどではない。その「祝福と呪い」と向き合うことなしに、新たなアイデンティティを見出すことはできない。そのようにして獲得されたアイデンティティは常に新たなものである。

 <書物>

「書 βίβλος ビブロス」は「パピルス」、エジプト産の葦「パプロス πάπυρος」の茎の繊維(<植>カミカヤツリ(パピュロス、古代エジプトの紙の原料)で作った紙を糊で繋いで作られた長い巻物であった。(ラテン語で volumen 「巻く」を意味するラテン語 volvere に由来する。英語のvolume は「音量、巻、体積、量」の意味である。

パピルスの巻物は、再び読むにも全部を広げる必要があり、使い勝手の悪いところもあった。

ラテン語 liber は、もともと「樹皮」を意味したことばであったが、やがて「本」をあらわすようになった。

英語の Bibleはラテン語 biblia「書物、本、文書、手紙」からきている。

図書館 library もラテン語 liber が語源である。

ヤングは「系図の書」が巻物であったところから、「The book of the generation」を「A roll of the birth」としている(Young’s Literal Translation)。

† 心のデボーション

「彼らはクレメンス其のほか生命の書に名を録されたる我が同勞者と同じく、福音のために我とともに勤めたり」 ピリピ4:3 大正文語訳聖書

「いのちの書に名のしるされているクレメンス」 新改訳聖書

 「私のはじめ」

新約聖書の冒頭の言葉は「Βίβλος γενέσεως ᾽Ιησοῦ Χριστοῦ υἱοῦ Δαυὶδ υἱοῦ ᾽Αβραάμ」であり、旧約聖書の第一書「創世記」は רֵאשִׁית Genesis と呼ばれる。LXXにおいて「創世記」は「GENESIS  ゲネシス Genesis」であり、創世記5:1「系図の書」は「Βίβλος γενέσεως」と表現される。

「創世記 Genesis」は「Book of beginnings  始源の書」であり、「系図の書 Βίβλος γενέσεως」 は「Record of beginnings」である。創世記は「私」の「はじめ」について語り、マタイは「私」の救いの「はじめ」について語る。共に「いのちの書 βίβλος ζωή」である。

私たちは「いのちの書 βίβλος ζωή」(ピリピ4:3、黙示3:5)に、自分の名の刻まれたのを知る。しかし聖書のどこに、「私のはじめと終わり」が、そしてどのように「私の存在の名」が刻まれてあるのを見出したというのだろうか?

(†心のデボーション00018 マタイ1:1)

† 心のデボーション

「キリストの系圖(けいず)」 マタイ1:1 大正文語訳聖書

「イエス・キリスト<メシヤ、油そそがれたかた>の家系の書<系図>」 詳訳聖書

 「いのちの鎖」

マタイの福音書の冒頭で、アブラハムからイエスまで、我々は沢山の人の名を読むことになる。その名の数だけの固有ないのちがある。異なるいのちは繋がれて1本の鎖となる。

人間は多様である。しかし、その一つも「失われてよい」いのちはない。

「私」の内には、人間によって生きられたいのちが全体として宿っている。そこから「私」への歩みが始まる。

(†心のデボーション00024)

† 心のデボーション

「アブラハムの裔(こ)」 マタイ1:1 大正文語訳聖書

「亞伯拉罕(アブラハム)の裔(すえ)」 漢訳聖書

 「アブラハムの裔(こ)」

漢訳聖書、明治元訳聖書は、「子」に「裔(こ)」の字をあてる。「裔(こ)」は「衣服のふち、へり、すそ」を意味する言葉で、後代の子孫をさす。「裔孫」といえば「遠い子孫」である。

人は「衣服のふち、へり、すそ」までを含めての「私」である。「私」は自身の内に「遠い子孫のいのちとなるであろう信仰」を見出さなければいけない。

(†心のデボーション00039)

† 心のデボーション

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系圖(けいず)」 マタイ1:1 大正文語訳聖書

「イエス・キリスト<メシヤ、油そそがれたかた>の家系の書<系図>」 詳訳聖書

 「ビブロス」

「書  βίβλος ビブロス」はエジプト産の葦「パプロス πάπυρος」の茎の繊維で作られた長い巻物であった。

ラテン語 liber は、もともと「樹皮」を意味したことばであったが、やがて「本」をあらわすようになった。

英語の Bibleはラテン語 biblia「書物」からきている。

16世紀フランスの愛書家ジャン・グロリエは8000の蔵書を金箔押しの幾何学的な文様で装飾された皮装丁本とし、表紙下方にはラテン語で「IO. GROLIERII ET AMICORUM(ジャン・グロリエとその友人たちのもの)」という銘を金箔で入れたという。

「書」は友人と共有するべきものであった。共有すべき「書」を見出す喜びがここにある。

(†心のデボーション00056)

† 細き聲 小論

「イエス・キリストの系図(マタイ1:1~17)についての一考察」

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」 マタイ1:1 新共同訳聖書

1 「系図」について

「系図 Βίβλος γενέσεως ビブロス ゲネセオース」は「γενέσεως  誕生、生成、成立、出生、発生、創造、起源、血統、生存、存在、出所」についての「βίβλος 書物、文書、巻物、論文、手紙」の意味である。

「系図」は家系図であるが、ユダヤ人にとっては自らの起源・由来を明確にするとともに、神の契約に基づく選びと救済を待ち望む信仰になくてはならない大切なものであった。

(旧約外典エズラ第一書5:38~39 には、捕囚から帰還した祭司たちの中に「系図の中に記録(名前)を見いだせない者」があり、祭司の務めから退けられたことが記されている)

2 新約聖書における二つの系図

新約聖書にはマタイ1:1~17とルカ3:23~38に二つの「系図」があり、いずれも「イエス・キリストの系図」である。マタイとルカの「二つの系図」は同じイエス・キリストの系図でありながら、その構図は大きく異なっている。

マタイがアブラハムから系図をおこすのに対して、ルカはアダムまで遡る。また、マタイがソロモンの系譜をたどるのに対して、ルカはナタンの系譜をたどってヨセフにいたる。

二つの系図にみられる差異はこれら二つの福音書が異なる読者に宛てて記されたことによるのではないか。マタイはユダヤ人読者を対象に福音書を記し、その冒頭にユダヤ人の信仰の父アブラハムを置き、そこからイエスの福音を説おこした。それに対してルカはすべての人間に読まれることを期待して福音書を書いた。すべての人が神の救いの対象であることを、イエス・キリストから最初の人アダムに遡り、神に創造されたアダム(人間)がイエス・キリストの福音によって完成されるというのがルカのメッセージであると思われる。

すなわち、「二つの系図」はそれぞれの読者に宛てた「神からのメッセージ、福音の書」である。

3 マタイの「イエス・キリストの系図」

マタイとルカにみられる二つの「イエス・キリストの系図」がユダヤ人と人間という異なる読者に宛てられたということが、直ちに二つの福音書をそれぞれの読者に限定することを意味するものではない。二つは互いに補いあって、一つの福音のメッセージとなっている。

そことはマタイの「イエス・キリストの系図」を詳細に学ぶことからも明らかである。

マタイの「イエス・キリストの系図」は17節にあるように三つの「十四代」に区別される。

第一 アブラハムからダビデまでの「十四代」(マタイ1:2~6)
第二 ダビデからバビロン移住までの「十四代」(マタイ1:6~11)
第三 バビロン移住からキリストまでの「十四代」(マタイ1:12~16)

マタイのイエス・キリストの系図はアブラハムからイエス・キリストまでのイスラエルの歴史を三つの十四代に整理したもので、幾つかの世代が省略されている。「ヨラム」と「ウジヤ」の間には「アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤ」の三世代が省かれ(1:8)、「ヨシヤ」と「エコンヤ」の間には「ヨヤキム」が省かれ(1:11)、「シャルティエル」と「ゼルバベル」の間には「ペダヤ」が省かれている(1:12)。

これによって、「マタイの系図」は、人間が一人神の前に在るものであるとともに、その時代に深くかかわる存在者であることを示すのである。

この視点から三つの区分を考察すると、そこに一人の人間の罪と救済の経験が浮かび上がるのである。

マタイは人間の救済を、第一の区分「アブラハム」から始める。

神はカルデヤのウルでアブラハムに、「生まれ故郷、父の家を出て、示す地へ行きなさい」とお命じになり、そうすれば「あなたを大いなる国民にする」と約束される。(創世記12:1~4) アブラハムは神の祝福にしたがってカナンの地に出発した。アブラハムの子孫はカナンでイスラエル民族として発展しダビデ王によってイスラエル王国に統一された。

ダビデのイスラエル王国はダビデの子ソロモンの死後北王国イスラエルと南王国ユダに分裂し、レハベアムが

南王国ユダの最初の王に即位した。(マタイ1:7 Ⅰ列王14:21)

その後、イスラエルには「ソロモン、アサ」など神を畏れ律法を守る王たちだけでなく、「レハブアム、アビヤ」など神を退け異教崇拝を受け入れる王たちが出現する。

アブラハムに約束された祝福は第二区分のダビデによる「イスラエル王国の建設」によって成就されたかに見えたが、繰り返される神への背信により、分裂と衰退の歴史を歩むことになり、ついにイスラエル民族はバビロン捕囚によって約束の地を失い、イスラエル民族は離散の民として世界を彷徨うことになる。

マタイ1:12~16の第三区分はバビロンの捕囚後にイスラエルに帰還を許された者たちの歴史である。しかし、マタイ1:12の「アビウデ」以下の人名は旧約聖書にも記録されておらず、われわれは第三区分の人々について何も知ることができないのである。

しかし、第三区分の最後に突如としてわれわれは「マリヤの夫ヨセフ」の名を見出し、このマリヤから「キリスト(メシア)と呼ばれたイエス」が誕生を知るのである。

マタイ1:1~17の「イエス・キリストの系図」から「神に創られた人間の栄光と堕落、そしてイエス・キリストの救済」のメッセージを読むことができる。

神は人間を「ご自身のかたちに創造され」(創世記1:27)、祝福して「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世記1:28)と言われた。しかし、アダムとエバの堕落により、神の祝福は失われるのである。そしてアダムの栄光と堕落によってイスラエルの歴史がかたちづくられ、そのままに人類の歴史であることを知るのである。

そのことはマタイ1:1~17の「イエス・キリストの系図」にタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バテシバ)の四人の女性が記録されることからも明らかである。通常の系図では女性の名前は載せないのが原則であるが、マタイはあえて四人の女性にふれている。タマルは不幸な事件から子がなく、一計を案じて義父ユダによって子を得た女性であり、ラハブはエリコに住む異邦人の娼婦であり、ルツはモアブの異邦人であり、ウリヤの妻(バテシバ)は夫がありながらダビデと関係し夫ウリヤを戦場で戦死させた女性である。イエス・キリストの系図は選ばれた者の栄光の系譜ではなく、罪と背信の歴史を隠すことなく記録している。それは人間の歴史である。そして、救い主イエス・キリストは、そのような罪ある人間の中に「人」となられ、十字架に死なれ、人間の罪を贖われた。この贖いによって、信じる者にアブラハムの約束は成就し、「祝福の基」となるのである。

(皆川誠)

† 細き聲 説教

「アダムの系図とイエス・キリストの系図」

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」 マタイ1:1 新共同訳聖書

聖書  創世記5:6~32 マタイ1:1~17

新約聖書マタイの冒頭にある「イエスの系図」に戸惑わなかった者はいないであろう。何度目の通読でも、ここは割愛して18節から読みはじめてしまう。

しかし、「イエスの系図」は、旧約聖書から新約聖書への道を開く衝撃的なものである。マタイは「大きな感動」をもって「イエスの系図」を福音書の冒頭に置くのである。

聖書にはいくつかの「系図」がある。その最初のものは創世記5:6~32「アダムの系図」である。

「アダムは、百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生き、そして死んだ」(創世記5:3~5)

アダムの系図を読めば、そこに共通した「型」があり、どの人の生涯もそれに従って記録されることがわかる。

「アダムは」「百三十歳になったとき」「セトをもうけた後」「八百年生きて」「九百三十年生き」「そして死んだ」

アダムから「子ども」が生まれ、「子ども」から多くの「人々」が生まれた。生まれた人間の数だけ、他とは異なる固有の存在があり、それぞれの生があった。人は多様で、ユニークである。しかし、それらの一つ一つから固有なものを剥ぎ取れば、すべての人の人生は、例外なくこの短い数語のうちに収まる。

「00は生を受け、子どもをもうけ、何年かを生き、そして死んだ」

ある者は短くしてその生涯を終え、ある者は長寿を全うする。成功者もいれば、挫折に終わる人生もある。しかし、どの生涯であれ、人の一生はこの短い一節のうちにまとめられてしまう。

「生まれて、いくらかの年数を生き、そして死ぬ」人生にどれほどの意味があるのだろうか?

しかし、その一方で、「系図」は、この「生まれ、生き、そして死ぬ」人の生も、個々のそれを越えた「流れ」の内にあることを教えてくれる。

人の生の前に「生」があり、人の死の後に「生」がある。人は「前の生」から何かを受けて幾許かを生き、そして生の後に何かを残して必ず「死ぬ」のである。そこに一つの「大きな流れ」がある。それを意識するとしないとにかかわらず、「大きな流れ」は途絶えることがない。人の生涯はただ私のものではない。「人間」という流れの内にあって「私」を生きるのである。

創世記5章の「アダムの系図」はノアで終わり、創世10章の「ノアの系図」に繋がれる。そして、さらに多くの「系図」が続く。

この「大きな流れ」はどこに向かうのか?

しかし、「系図」に直接的な答えはなく、「系図」は何も語ってはくれない。幾千、幾万の「生まれて、いくらかの年数を生き、そして死ぬ」いのちの鎖があるばかりである。

「系図」は私たちに「人は何のために生き、そして死ぬのか」という問いを突き付けつつ、その長い鎖を切断することなく守る。しかし、人間の「過去」と「未来」を繋ぐ「鎖」は何を結びつけるのだろうか? 「系図」は何かを知っているに違いない。しかし、それは近づくほどに遠のく山のように「私」から隠されているのである。

「鎖」は途方もなく長い。しかも、確かに「私」にまで繋がっている。しかし、私は「鎖」の意味も知らずに一個の繋ぎでありつづけ、そして何を繋ぐのかも知らずにその役割を果たすというのだろうか?

マタイはこの問いに答えてくれる。その前に、われわれはルカの「イエス・キリストの系図」を見る必要がある。

マタイは「アブラハム」から「イエス・キリスト」までの系図を記録した。しかし、ルカはマタイとは逆に、「イエス・キリスト」から遡って「アダム」までの系図をとりあげる。その終わりには、「エノシュ、セト、アダム。そして神に至る」と記録されている。(ルカ3:23~38)

「エノシュ、セト、アダム。そして神に至る」はギリシャ語「τοῦ ᾽Ενὼς τοῦ Σὴθ τοῦ ᾽Αδὰμ τοῦ θεου/」で、単純に「τοῦ ᾽Αδὰμ アダムの」と同様に「τοῦ θεου/ 神の」と記される。 永井訳はカッコに言葉を補って次のように訳す。「〔カイナンは〕エノシュの、〔エノシュは〕セトの、〔セトは〕アダムの、〔アダムは〕神の〔子なり〕」 永井訳  

人間を遡れば「最初の人間 アダム」に至る。そして、「アダム(人間)を遡れば、神に至る」というのがルカのメッセージである。

「鎖」はどこにも繋がれておらず、したがって何の仕事もせずに、ただ「鎖」としてあるのではなかった。

「鎖」の片方の元は「わたしを創られた神」に繋がっており、「私」を繋ぎとめるものであった。

「人間とは何か」という問いは、人を「神に至らせる」のでなければならない。「大きな流れ」は「神が存在するにいたらせた人間」である。そのために無数の固有の生があり、それぞれに深い意味をもち、一本の「鎖」を為すのである。

「系図」に記録された(そして、記録されなかった)人々の名をただ黙して読むとよい。無数に存在するもの、それが神の創られた「人間」である。そして、そのどの一人もみな「神に至る」者である。

神はそのように存在を創造された。「私」は神のうちに創造され私に来る。私の存在の目的は「私」である。「私」とは、存在に先立って神のうちにあった「私」である。

しかし、ではなぜ、人は悩むのだろうか? なぜ確かな実在としての「私」ではないのだろうか?

人は「私」を熱望する。しかし、求めるほどに「私」は見いだせない。そればかりか、その目は自身の内に虚ろな空洞があるのを認めるのである。それは求めるものが「私」ではなく、「私」以外のものであるとこから来ている。それを知ったとしても、内にひろがる「空洞」が満たされることはない。

私たちは「鎖」の片方の元を確認するだけでは、存在の現実的な問題を解決することができない。そこで、この為に、マタイは私に「イエスの系図」を語るのである。

マタイは、「鎖」のもう一つの元を私たちに明らかにする。

「このマリヤからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」 マタイ1:16

「鎖」の一方の元は神に、そしてもう一方の元はイエスに結ばれるのである。そのことによって「私」であることは完成する。

Ⅰコリント15:45,47 に、アダムは「最初の人間(アダム)、第一の人間(アダム)」と呼ばれ、イエスは「最後の人間(アダム)、第二の人間(アダム)」と呼ばれている。神は「人間」を創造され、「第二のアダム」であるイエスは御自分によって「人間」を完成される。

「私として生まれ切り、私として生き切り、そして私として死に切る」とき、「鎖」の一個の輪にすぎない存在が「鎖」そのものであることに思い至るであろう。「鎖」の一個一個が全体である。≪生まれ、生き、そして死ぬ≫「弱き者」が神に至り、イエスに至ることのできる「人間」のただ一つのいのちである。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(Ⅱコリント4:7)  ここに私たちは神とイエスを繋ぐ「鎖」たる人間を、「私」のうちに見出すのである。「私」であることがイエスによる「救い」である。

マタイは「イエスの系図」によって「系図」を完成し、もはや新しい「系図」が書き継がれることはない。

(皆川誠)

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