マタイによる福音書11章28節

マタイによる福音書
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† 福音書縦観 「イエスの喜びと招き」 マタイ11:25~30

マタイ11:25~30 ルカ10:21~24
マタイ11:25~30

Matt.11:28すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 口語訳聖書

† 日本語訳聖書 Matt.11:28

【漢訳聖書】
Matt.11:28 凡勞苦任重者歟、就我、則我賜爾安。

【明治元訳】
Matt.11:28 凡(すべ)て勞(つかれ)たる者また重(おもき)を負(おへ)る者は我(われ)に來(きた)れ我(われ)なんぢらを息(やす)ません

【大正文語訳】
Matt.11:28 凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。

【ラゲ訳】
Matt.11:28 我に來れ、総て勞苦して重荷を負へる者よ、我は汝等を回復せしめん。

【口語訳】
Matt.11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

【新改訳改訂3】
Matt.11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

【新共同訳】
Matt.11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

【バルバロ訳】
Matt.11:28 労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私は、あなたたちを休ませよう。

【フランシスコ会訳】
Matt.11:28 重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

【日本正教会訳】
Matt.11:28 凡そ勞苦する者及び重を任ふ者は我に來れ、我爾等を安んぜしめん。

【塚本虎二訳】
Matt.11:28 さあ、疲れている者、重荷を負っている者はだれでも、わたしの所に来なさい、休ませてあげよう。

【前田護郎訳】
Matt.11:28 すべて疲れたもの、重荷を負うものは、わたしのところに来たれ。休ませてあげよう。

【永井直治訳】
Matt.11:28 すべて勞する者、また重荷を負へる者は我が許に來れ、さればわれ汝等を休ましめん。

【詳訳聖書】
Matt.11:28 詳訳聖書 「苦労しまた重荷を負っている<重すぎる荷を背負っている>者はみな、私のところに来なさい。そうしたら私はあなたたちを休ませる<あなたたちの魂を安らかにする《助け出す、元気づける》>」

† 聖書引照 Matt.11:28

Matt. 11:28 凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。

[凡て勞する者・重荷を負ふ者] マタ23:4; 創世3:17~19; ヨブ5:7; 14:1; 詩篇32:4; 38:4; 90:7~10; 伝道1:8,14; 2:22,23; 4:8; イザ1:4; 61:3; 66:2; ミカ6:6~8; 使徒15:10; ロマ7:22-25; ガラ5:1
[われに來れ] イザ45:22~25; 53:2,3; 55:1~3; ヨハ6:37; 7:37; 黙示22:17
[われ汝らを休ません] マタ11:29; 詩篇94:13; 116:7; イザ11:10; 28:12; 48:17,18; エレ6:16; Ⅱテサ1:7; ヘブ4:1

† ギリシャ語聖書 Matt.11:28

Stephens 1550 Textus Receptus
δευτε προς με παντες οι κοπιωντες και πεφορτισμενοι καγω αναπαυσω υμας

Scrivener 1894 Textus Receptus
δευτε προς με παντες οι κοπιωντες και πεφορτισμενοι καγω αναπαυσω υμας

Byzantine Majority
δευτε προς με παντες οι κοπιωντες και πεφορτισμενοι καγω αναπαυσω υμας

Alexandrian
δευτε προς με παντες οι κοπιωντες και πεφορτισμενοι καγω αναπαυσω υμας

Hort and Westcott
δευτε προς με παντες οι κοπιωντες και πεφορτισμενοι καγω αναπαυσω υμας

† ギリシャ語聖書 品詞色分け

Matt.11:28

Δεῦτε πρός με πάντες οἱ κοπιῶντες καὶ πεφορτισμένοι, κἀγὼ ἀναπαύσω ὑμᾶς.

† ヘブライ語聖書 Matt.11:28

Matt.11:28

בּוֹאוּ אֵלַי כָּל הָעֲמֵלִים וְהָעֲמוּסִים וַאֲנִי אַמְצִיא לָכֶם מְנוּחָה

† ラテン語聖書 Matt.11:28

Latin Vulgate
Matt.11:28

Venite ad me omnes, qui laboratis, et onerati estis, et ego reficiam vos.
Come to me, all you who labor and have been burdened, and I will refresh you.

† 私訳(詳訳)Matt.11:28

【私訳】 「疲れ果てた<弱り果てた、疲れ果てるまで働いた>者や荷を負わせられた<重荷を負う、荷を運ぶ>者は一人残らずわたしのところに来なさい。わたしもまたあなたがたを休ませ<再び働く為に体力を回復すべく休ませ>よう」

† 新約聖書ギリシャ語語句研究

Matt.11:28

Δεῦτε πρός με πάντες οἱ κοπιῶντες καὶ πεφορτισμένοι, κἀγὼ ἀναπαύσω ὑμᾶς.

【疲れた者】 κοπιῶντες  κοπιάω コピアオー kopiaō {kop-ee-ah‘-o} (vppavm2p 分詞・現能呼男2複)

< κόπος  苦

1)疲れ果てる、弱り果てる 2)働く、労する、疲労する 3)苦労する、疲れるまで働く

(G2872 κοπιάω From a derivative of 2873 to feel fatigue; by implication to work hard: – (bestow) labour, toilbe wearied.  Internet Sacred Text Archive)

マタ6:28; 11:28; ルカ5:5; ヨハ4:38; ロマ16:6,12; Ⅰコリ4:12; 16:16; ピリ2:16; コロ1:29 etc.

【そして】 καὶ  καί カイ kai {kahee} (cc 接続詞・等位)

1)~と、~も、そして 2)~さえ、でさえも 3)しかし 4)しかも、それは 5)それでは、それだのに 6)そうすれば、すなわち 7)のみならず、もまた

(G2532 καί Apparently a primary particle, having a copulative and sometimes also a cumulative force; and, also, even, so, then, too, etc.; often used in connection (or composition) with other particles or small words: – and, also, both, but, even, for, if, indeed, likewise, moreover, or, so, that, then, therefore, when, yea, yet.  Internet Sacred Text Archive)

【重荷を負う者は】 πεφορτισμένοι  φορτίζω  ふォルティゾー  phortizō {for-tid‘-zo} (vprpvm2p 分詞・完了受呼男2複)

< φόρτος 重荷

1)荷を負わせる、荷を運ぶ 2)負う 3)重荷を負わせる 4)重荷となる 5)つまらない、くだらない

この語は「船に荷を積み込む」にも用いる

(G5412 φορτίζω From 5414 to load up (properly as a vessel or animal), that is, (figuratively) to overburden with ceremony (or spiritual anxiety): – lade, be heavy laden.  Internet Sacred Text Archive)

マタ11:28; ルカ11:46

【誰でも】 πάντες  πᾶς パース pas {pas} (a–vm-p 形容詞・呼)

1)どれでも、何であれ、何でも、あらゆる、みな  2)~全部の、あらんかぎりの、1つも欠けが無い、ひとり残らず 3)全体の、全部の、すべて 4)混じりものがなく、純粋な

πᾶσαι パーサイ 「πᾶς どれでも、全体の」の複数形

(G3956 πᾶς Including all the forms of declension; apparently a primary word; allanyevery, the whole: – all (manner of, means) alway (-s), any (one), X daily, + ever, every (one, way), as many as, + no (-thing), X throughly, whatsoever, whole, whosoever.  Internet Sacred Text Archive)

【わたしの】 με  ἐγώ エゴー egō {eg-o‘} (npa-1s 代名詞・対1単)

1)私 2)わたし

(G1473  ἐγώ A primary pronoun of the first person, “I” (only expressed when emphatic): – I, me. For the other cases and the plural see 1691 1698 1700 2248 2249 2254 2257 etc.  Internet Sacred Text Archive)

【もとに】 πρός  πρός プロス pros {pros} (pa 前置詞・対)

1)~のところへ、~の方へ、~に向かって 2)~の近くに、~の側に、~に接して 3)~のために 4)~に対して 5)~について 6)~の面前で

(G4314 πρός A strengthened form of 4253 a preposition of direction; forward to, that is, toward (with the genitive case the side of, that is, pertaining to; with the dative case by the side of, that is, near to; usually with the accusative case the place, time, occasion, or respect, which is the destination of the relation, that is, whither or for which it is predicated): – about, according to, against, among, at, because of, before, between, ([where-]) by, for, X at thy house, in, for intent, nigh unto, of, which pertain to, that, to (the end that), + together, to ([you]) -ward, unto, with (-in). In compounds it denotes essentially the same applications, namely, motion towards, accession to, or nearness at.  Internet Sacred Text Archive)

【来なさい】 Δεῦτε  δεῦτε デウテ deute {dyoo‘-the}  (ab^vmaa–2p 副詞/動詞・命アオ能2複)

1)ここへ 、ここに 3)さあ、いざ、来なさい、さあ~しなさい、おいで

(G1205 δεῦτε From 1204 and an imperative of εἶμι eimi (to go); come hither!: – come, X follow.  Internet Sacred Text Archive)

マタ4:19; 11:28; 22:4; 25:34; 28:6; マル1:17; 6:31; ヨハ4:29; 21:12 etc.

【そしてわたしは】 κἀγὼ  κἀγώ カゴー  kagō {kag-o‘} (cs&npn-1s 接続詞・従位&代名詞・主1単)

< καί ἐγώ

1)そして私は 2)私もまた 3)私でさえも

(G2504 κἀγώ So also the dative (second form) and accusative (third form); from 2532 and 1473 and (or alsoeven, etc.) I, (tome: – (and, even, even so, so) I (also, in like wise), both me, me also.  Internet Sacred Text Archive)

【あなたがたを】 ὑμᾶς  σύ スゆ sou {soo} (npa-2p 代名詞・対2複)

1)あなた 2)汝 3)君

(G4771 σύ The personal pronoun of the second person singular; thou: – thou. See also 4571 4671 4675 and for the plur. 5209 5210 5213 5216.  Internet Sacred Text Archive)

【休ませてあげよう】 ἀναπαύσω  ἀναπαύω  アナパウオー   anapauō {an-ap-ow‘-o} (vifa–1s 動詞・直・未来・能・1単)

< ἀνά + παύω 止める

1)休ませる 2)静かに待つ 3)休養させる、静かに待つ 4)仕事を一時中断させる 5)再び働く為に体力を回復すべく一時休む 6)安心させる、力づける 7)止めさせる、終わらせる、遠ざける、妨げる、免除する

(G373  ἀναπαύω From 303 and 3973 (reflexively) to repose (literally or figuratively (be exempt), remain); by implication to refresh: – take ease, refresh, (give, take) rest.  Internet Sacred Text Archive)

マタ11:28; 26:45; マル14:41; 黙示14:13

† 英語訳聖書 Matt.11:28

King James Version
11:28 Come unto me, all [ye] that labour and are heavy laden, and I will give you rest.

New King James Version
11:28 “Come to Me, all you who labor and are heavy laden, and I will give you rest.

American Standard Version
11:28 Come unto me, all ye that labor and are heavy laden, and I will give you rest.

New International Version
11:28 “Come to me, all you who are weary and burdened, and I will give you rest.

Bible in Basic English
11:28 Come to me, all you who are troubled and weighted down with care, and I will give you rest.

Today’s English Version
11:28 “Come to me, all of you who are tired from carrying heavy loads, and I will give you rest.

Darby’s English Translation
11:28 Come to me, all ye who labour and are burdened, and I will give you rest.

Douay Rheims
11:28 Come to me, all you that labour, and are burdened, and I will refresh you.

Noah Webster Bible
11:28 Come to me, all ye that labor, and are heavy laden, and I will give you rest.

Weymouth New Testament
11:28 ‘Come to me, all you toiling and burdened ones, and *I* will give you rest.

World English Bible
11:28 ‘Come to me, all you who labor and are heavily burdened, and I will give you rest.

Young’s Literal Translation
11:28 ‘Come unto me, all ye labouring and burdened ones, and I will give you rest,

Amplified Bible
11:28 “Come to Me, all who are weary and heavily burdened [by religious rituals that provide no peace], and I will give you rest [refreshing your souls with salvation].

† 細き聲 聖書研究ノート

 <凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません>

イエスは神が秘儀を現わされた「幼子」に、「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 (フランシスコ会訳聖書)と言われる。

 <凡て勞する者・重荷を負ふ者>

「疲れた者 κοπιάω コピアオー」は「疲れ果てる、労する、疲労する、弱り果てる、苦労する」者のこと。

「重荷を負う者 φορτίζω  ふォルティゾー」は「船に荷を積み込む」ように、「被征服民が征服者に負わせられる重税」のように「重荷を負わせられる」こと。

 <三つの「重荷」>

ギリシャ語に三つの「重荷」をあらわす言葉がある。

1 ὄγκος  オグコス 障害になる重荷、邪魔物、やっかいなもの
2 φορτίον フォルティオン 担うべきもの、担わせられるもの
(「税 φόρος」は被征服民が征服者に納めるもの「貢税」)マタイ11:28「重荷」は φορτίον フォルティオンで、「船に荷を積み込む」ように「荷を負わせる」こと。
3 βάρος バロス 重いもの、負担、苦労

 <われに來れ>

「来なさい δεῦτε デウテ」は命令形。すべての「疲れた者、重荷を負う者」に例外なく、イエスは「来なさい」と命令される。

 <われ汝らを休ません>

イエスは「重荷をとってあげよう」といわれずに、「休ませてあげよう ἀναπαύω アナパウオー」と言われる。「再び働く為に体力を回復すべく一時休ませてあげよう」と言われるのである。

† 心のデボーション

「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」 マタイ11:28 明治元訳聖書

「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 フランシスコ会訳聖書

 「担うべきもの」

人はだれでも「担うべき、担わせられるべき」ものをもって生まれ、負うことに「疲れた者」である。

† 心のデボーション

「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」 マタイ11:28 明治元訳聖書

「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 フランシスコ会訳聖書

 「再び負うために」

イエスは「重荷をとってあげよう」といわれずに、「休ませてあげよう ἀναπαύω  アナパウオー」と言われる。「再び働く為に体力を回復すべく一時休ませてあげよう」と言われるのである。休んだ後、人は再び「重荷」を担わなければならない。

イエスは「重荷」をとるのではなく、「重荷」を担わせてくださるのである。

† 心のデボーション

「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」 マタイ11:28 明治元訳聖書

「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 フランシスコ会訳聖書

 「回復のための一時的休み」

回復のための一時的休みがある。

必要なことは重荷を軽くすることでも取り去ることでもない。負う力を回復し、負い続け、負い遂げることである。

† 心のデボーション

「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」 マタイ11:28 明治元訳聖書

「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 フランシスコ会訳聖書

 「一日16トン」

マール・トラヴィスが1947年に作詞作曲した老炭坑夫の歌、『16トン』(人生の重荷)は、1955年、テネシー・アーニー・フォードが歌ってミリオン・セラーになった。

老炭坑夫は一日16トンの石炭を積みこむ。一日働いても与えられるのは会社の売店でしか使えない券だけ。明日も同じつらい仕事が待っている。聖ペトロよ、自分はあなたの天国に行けないのだから、私を呼ばないでくれ、と歌う。

† 心のデボーション

「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」 マタイ11:28 明治元訳聖書

「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 フランシスコ会訳聖書

 「最善のエネルギー」

カール・ヒルティは『心の病を癒す生活術』に一つの英語の格言を教えてくれる。「苦悩する者にわれわれが提供しうるもっとも本格的な援助はその人の重荷を取り除くことではなく、その人が力いっぱい耐えてゆくことができるような最善のエネルギーを発生させることである」

イエスがマタイ11:2で言われるはそのことである。

† 心のデボーション 

「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」 マタイ11:28 大正文語訳聖書

「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私は、あなたたちを休ませよう」  バルバロ訳聖書

 「待つ力」

「待ち草臥(くたび)れる」の「草臥(くたび)れ」は『詩経』から「疲れて草に臥す」の意味である。「年をとって人生に疲れる」をあらわすこともある。その人は、長く待ち、待つことに体力を消耗し、それ以上動くことができずに、草に臥すのかもしれない。イエスはそうした人を招かれる。

イエスのもとで休んだら、また待とう。「待つ力」が回復したのだ。

(†心のデボーション00177)

† 心のデボーション

「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」 マタイ11:28 大正文語訳聖書

「すべて勞する者、また重荷を負へる者は我が許に來れ、さればわれ汝を休ましめん」  永井直治訳聖書

 「重荷の割り当て」

「なんぢの荷(に)をヱホバにゆだねよ さらば汝をささへたまはん」 詩篇55:22 明治元訳聖書

へブル語「荷」は「くじ」の意味で、その人に割り当てられたもののこと。

人にはそれぞれに割り当てられた「重荷」がある。私に「割り当てられた方」に委ねつつ、負わせていただく。

(†心のデボーション00185)

†心のデボーション

「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」マタイ11:28 大正文語訳聖書

「我に來れ、総て勞苦して重荷を負へる者よ、我は汝等を回復せしめん」 ラゲ訳聖書

 「静かに待つ」

「疲れ、疲労」を意味するフランス語 fatigue はラテン語 fatigo 「使い果たす」に由来する。

燃え尽き症候群は短期間に喜びと悲しみなどの正反対の感情を繰り返し経験することで心の力を使い果たすことから始まる。

「休む ἀναπαύω  アナパウオー」は「静かに待つ」の意味である。

(†心のデボーション00573)

† 細き聲 説教 

 「重荷を負ふ者」

「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」マタイ11:28 大正文語訳聖書

「我に來れ、総て勞苦して重荷を負へる者よ、我は汝等を回復せしめん」 ラゲ訳聖書

イエスは神が秘儀を現わされた「幼子」に、「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」 (フランシスコ会訳聖書)と言われる。

イエスの言葉は徳川家康の残した遺訓を思わせる。

 徳川家康の遺訓

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」は戦乱の時代を生き抜いた家康の処世訓であった。

しかし、「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ」は家康の遺訓とは別の趣をもつことばである。

「疲れた者 κοπιάω コピアオー」は「疲れ果てる、労する、疲労する、弱り果てる、苦労する」者のこと。

「重荷を負う者 φορτίζω  ふォルティゾー」は「船に荷を積み込む」ように、「被征服民が征服者に負わせられる重税」のように「重荷を負わせられる」ことである。

マタイ福音書の文脈に添って考えれば、「凡て勞する者・重荷を負ふ者」とはマタイ12:25~27の神が秘儀を現わされた「幼子」を指して言われたことは明白である。

神は「賢い者や知恵のある者」には隠された秘儀を「幼子」に現わされた。「幼子」はイエスが食事を共にされた「取税人や罪人たち」、そしてイエスに招かれた心貧しき者たちである。

信仰は、決して「重荷」が取り去られることではない。むしろ神は「幼子」に「重荷」を負わされるのである。

信仰には負うべき「信仰の重荷」があり、「幼子」が負うには「疲れ果てる」重さである。

そうした「重荷を負う幼子」にイエスは「われに來れ」と言われる。

「来なさい δεῦτε デウテ」は命令形。すべての「疲れた者、重荷を負う者」に例外なく、イエスは「来なさい」と命令される。

 「われ汝らを休ません」

イエスは「重荷をとってあげよう」といわれずに、「休ませてあげよう ἀναπαύω アナパウオー」と言われる。「休ませてあげよう ἀναπαύω アナパウオー」は「再び働く為に体力を回復すべく一時休ませてあげよう」という意味である。

「休み」は再び働くために体力を回復することで、体力を回復した者は再び「重荷」を担う。

イエスは「幼子」から「重荷」を取りのぞくのではなく、担う力を与えてくださるのである。

救いとはもはや苦悩も重荷もない人生ではない。最後まで己の十字架を担い、担い切る生涯である。「幼子の負う重荷」とは神に創られた「人間としての私」のことであり、「罪人である私」に負わせられた故にそれは「重荷」なのだ。

イエスは私の傍らにあって、たえず、重荷を担う私に担う力を与えて下さる。

(皆川誠)

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