† 福音書縦観 「悪霊論争」 マタイ12:22~37
マタイ12:22~37 マルコ3:19~30 ルカ11:14~23
マタイ12:22~37
Matt.12:23すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。 口語訳聖書
† 日本語訳聖書 Matt.12:23
【漢訳聖書】
Matt.12:23 眾民䮄異曰、此非大闢之裔乎。
【明治元訳】
Matt.12:23 衆人(ひとびと)みなみて曰(いひ)けるは此(こ)はダビデ(だびで)の裔(こ)に非(あら)ざる乎(か)
【大正文語訳】
Matt.12:23 群衆みな驚きて言ふ『これはダビデの子にあらぬか』
【ラゲ訳】
Matt.12:23 群衆皆驚きて、是ダヴィドの子に非ずや、と云へるを、
【口語訳】
Matt.12:23 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。
【新改訳改訂3】
Matt.12:23 群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」
【新共同訳】
Matt.12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
【バルバロ訳】
Matt.12:23 人々は驚いて、「この人はダヴィドの子ではなかろうか」と言い合った。
【フランシスコ会訳】
Matt.12:23 群衆は皆、驚嘆して、「この人こそダビデの子ではないだろうか」と言った。
【日本正教会訳】
Matt.12:23 衆民駭きて曰へり、此れダワィドの子ハリストスなるに非ずや。
【塚本虎二訳】
Matt.12:23 群衆が皆呆気にとられて言った、「もしかしたらこの人は、ダビデの子ではなかろうか。」
【前田護郎訳】
Matt.12:23 群衆は皆おどろいていった、「これはダビデの子ではないか」と。
【永井直治訳】
Matt.12:23 されば諸群衆みな驚かされ、且つ云へり。此の者はダビデの子にはあらざるか。
【詳訳聖書】
Matt.12:23 人々[の群衆]はみな驚きたまげて言った、「このかたがダビデの子でないというはずはあるまい」。
† 聖書引照 Matt.12:23
Matt.12:23 群衆みな驚きて言ふ『これはダビデの子にあらぬか』
[群衆みな驚きて言ふ] マタ9:33; 15:30,31
[これはダビデの子にあらぬか] マタ9:27; 15:22; 21:9; 22:42,43; ヨハ4:29; 7:40~42
† ギリシャ語聖書 Matt.12:23
Stephens 1550 Textus Receptus
και εξισταντο παντες οι οχλοι και ελεγον μητι ουτος εστιν ο υιος δαβιδ
Scrivener 1894 Textus Receptus
και εξισταντο παντες οι οχλοι και ελεγον μητι ουτος εστιν ο υιος δαβιδ
Byzantine Majority
και εξισταντο παντες οι οχλοι και ελεγον μητι ουτος εστιν ο υιος δαβιδ
Alexandrian
και εξισταντο παντες οι οχλοι και ελεγον μητι ουτος εστιν ο υιος δαβιδ
Hort and Westcott
και εξισταντο παντες οι οχλοι και ελεγον μητι ουτος εστιν ο υιος δαβιδ
† ギリシャ語聖書 品詞色分け
Matt.12:23
καὶ ἐξίσταντο πάντες οἱ ὄχλοι καὶ ἔλεγον, Μήτι οὗτός ἐστιν ὁ υἱὸς Δαυίδ;
† ヘブライ語聖書 Matt.12:23
Matt.12:23
הִשְׁתּוֹמְמוּ כָּל הֲמוֹנֵי הָעָם וְאָמְרוּ: “הַאִם לֹא זֶה בֶּן־דָּוִד
† ラテン語聖書 Matt.12:23
Latin Vulgate
Matt.12:23
Et stupebant omnes turbæ, et dicebant: Numquid hic est filius David?
And all the crowds were stupefied, and they said, “Could this be the son of David?”
† 私訳(詳訳)Matt.12:23
【私訳】 「そして、群集はみな<一人残らず>驚いて<驚愕して、仰天して、びっくりして>、言った。『これがダビデの子でないわけがないではないか?』」
† 新約聖書ギリシャ語語句研究
Matt.12:23
καὶ ἐξίσταντο πάντες οἱ ὄχλοι καὶ ἔλεγον, Μήτι οὗτός ἐστιν ὁ υἱὸς Δαυίδ;
【そして】 καὶ καί カイ kai {kahee} (ch 接続詞・完)
1)~と、~も、そして 2)~さえ、でさえも 3)しかし 4)しかも、それは 5)それでは、それだのに 6)そうすれば、すなわち 7)のみならず、もまた
(G2532 καί Apparently a primary particle, having a copulative and sometimes also a cumulative force; and, also, even, so, then, too, etc.; often used in connection (or composition) with other particles or small words: – and, also, both, but, even, for, if, indeed, likewise, moreover, or, so, that, then, therefore, when, yea, yet. Internet Sacred Text Archive)
【群衆は】 ὄχλοι ὄχλος オくろス ochlos {okh‘-los} (n-nm-p 名詞・主男複)
1)群衆、集団、群れ、大勢の人々 2)軍勢 3)大衆、民衆、人民、市民、 4)人だかり、雑踏 5)ごたごた、煩わしさ、迷惑、厄介、面倒
(G3793 ὄχλος From a derivative of 2192 (meaning a vehicle); a throng (as borne along); by implication the rabble; by extension a class of people; figuratively a riot: – company, multitude, number (of people), people, press. Internet Sacred Text Archive)
【皆】 πάντες πᾶς パース pas {pas} (a–nm-p 形容詞・主)
1)どれでも、何であれ、何でも、あらゆる、みな 2)~全部の、あらんかぎりの、1つも欠けが無い、ひとり残らず 3)全体の、全部の、すべて 4)混じりものがなく、純粋な
πᾶσαι パーサイ 「πᾶς どれでも、全体の」の複数形
(G3956 πᾶς Including all the forms of declension; apparently a primary word; all, any, every, the whole: – all (manner of, means) alway (-s), any (one), X daily, + ever, every (one, way), as many as, + no (-thing), X throughly, whatsoever, whole, whosoever. Internet Sacred Text Archive)
【驚いて】 ἐξίσταντο ἐξίστημι エクシステーミ existēmi {ex-is‘-tay-mee} (viim–3p 動詞・直・未完・中・3複)
1)正常な位置から外にだしてしまう 2)外に投げ出す 3)仰天させる、仰天する、びっくりさせられる 4)甚だしく驚かす、驚愕させる 5)冷静な状態から外に出してしまう 6)脇に離れる、退く 7)正気を失わせる 8)すっかり変えられる
(G1839 ἐξίστημι From 1537 and 2476 to put (stand) out of wits, that is, astound, or (reflexively) become astounded, insane: – amaze, be (make) astonished, be beside self (selves), bewitch, wonder. Internet Sacred Text Archive)
マタ12:23; マル2:12; 5:42; 6:51; ルカ8:56; 24:22; 使徒2:7,12; 8:9,11,13; 9:21; 10:45; 12:16; etc.
【そして】 καὶ καί カイ kai {kahee} (cc 接続詞・等位)
1)~と、~も、そして 2)~さえ、でさえも 3)しかし 4)しかも、それは 5)それでは、それだのに 6)そうすれば、すなわち 7)のみならず、もまた
(G2532 καί Apparently a primary particle, having a copulative and sometimes also a cumulative force; and, also, even, so, then, too, etc.; often used in connection (or composition) with other particles or small words: – and, also, both, but, even, for, if, indeed, likewise, moreover, or, so, that, then, therefore, when, yea, yet. Internet Sacred Text Archive)
【言った】 ἔλεγον λέγω れゴー legō {leg‘-o} (viia–3p 動詞・直・未完・能・3)
1)言う、告げる、語る、話す、言い表す、述べる 2)呼ぶ、命ずる、指図する、言いつける 3)名づける、称する、呼びかける 4)意味する、指す
(G3004 λέγω A primary verb; properly to “lay” forth, that is, (figuratively) relate (in words [usually of systematic or set discourse; whereas2036 and 5346 generally refer to an individual expression or speech respectively; while 4483 is properly to break silence merely, and 2980 means an extended or random harangue]); by implication to mean: – ask, bid, boast, call, describe, give out, name, put forth, say (-ing, on), shew, speak, tell, utter. Internet Sacred Text Archive)
マタ1:20; 2:23; 5:44; 9:14,34; マル2:11; 5:9; 12:18; ルカ5:39; 6:46; 20:41; ヨハ1:29; 2:6; 16:12; etc.
【これは】 οὗτός οὗτος フートス houtos {hoo‘-tos} (apdnm-s 指示代名詞・主男単)
1)その、この、これ 2)この者、この男・女 2)そんな、こんな 3)すなわち、だから 4)そこで、それ故
(G3779 οὗτος Or, before a vowel, οὕτως houtōs hoo‘-toce . From 3778 in this way (referring to what precedes or follows): – after that, after (in) this manner, as, even (so), for all that, like (-wise), no more, on this fashion (-wise), so (in like manner), thus, what. Internet Sacred Text Archive)
【ダビデの子】 ὁ υἱὸς Δαυίδ
【ダビデの】 Δαυίδ Δἀυίδ ダウイド Dabid { dab-eed‘} (n-gm-s 名詞・属男単)
ダビデ ヘブル名「愛せられる者」 イスラエルの王
(G1138 Δἀυίδ From the same as 1730 loving; David, the youngest son of Jesse: – David.H1730דּד דּוד From an unused root meaning properly to boil, that is, (figuratively) to love; by implication a love token, lover, friend; specifically an uncle: – (well-) beloved, father’s brother, love, uncle. Internet Sacred Text Archive)
マタ1:1,6,17; 9:27; 12:23; マル11:10; ルカ1:32; 使徒15:16; ヘブ4:7; 黙示3:7
【子】 υἱὸς υἱός フゅィオス huios {hwee-os’} (n-nm-s 名詞・主男)
1)息子、子、子供、男の子、兄 2)子孫、末裔 3)従者、弟子、仲間 4)客、深い関係にあるもの 5)(ロバの)子
「υἱός フィオス」はヘブライ語「בֵּן ベーン ben {bane} 息子」にあたり、「בֵּן ベーン ben {bane}」は「בָּנָה バーナー banah {baw-naw’} 建てる」に由来する。「家を建ち上げる、興す者」の意味である。
(G5207 υἱός Apparently a primary word; a “son” (sometimes of animals), used very widely of immediate, remote or figurative kinship: – child, foal, son. Internet Sacred Text Archive)
マタ1:1; 3:17; 16:16; 22:42,45; Ⅱコリ6:18; ガラ3:7 etc.
【である】 ἐστιν εἰμί エイミ eimi {i-mee‘} (vipa–3s 動詞・直・現・能・3単)
1)ある、いる、~である、~です、~だ 2)行われる、おこる、生ずる、現れる、来る 3)いる、滞在する、とどまる 4)存在する 5)生きている
(G1510 εἰμί First person singular present indicative; a prolonged form of a primary and defective verb; I exist (used only when emphatic): – am, have been, X it is I, was. See also 1488 1498 1511 1527 2258 2071 2070 2075 2076 2771 2468 5600. Internet Sacred Text Archive)
【わけがない?】 Μήτι μήτε メーテ mēte {may‘-the} (qt 不変詞・疑複)
< μή 否定 + τέ そして
1)いけない 2)~もまた~でない 2)~でもなく~でもない
(G3383 μήτε From 3361 and 5037 not too, that is, (in continued negation) neither or nor; also, not even: – neither, (n-) or, so much as. Internet Sacred Text Archive)
† 英語訳聖書 Matt.12:23
King James Version
12:23 And all the people were amazed, and said, Is not this the son of David?
New King James Version
12:23 And all the multitudes were amazed and said, “Could this be the Son of David?”
American Standard Version
12:23 And all the multitudes were amazed, and said, Can this be the son of David?
New International Version
12:23 All the people were astonished and said, “Could this be the Son of David?”
Bible in Basic English
12:23 And all the people were surprised and said, Is not this the Son of David?
Today’s English Version
12:23 The crowds were all amazed at what Jesus had done. “Could he be the Son of David?” they asked.
Darby’s English Translation
12:23 And all the crowds were amazed and said, Is this man the Son of David?
Douay Rheims
12:23 And all the multitudes were amazed, and said: Is not this the son of David?
Noah Webster Bible
12:23 And all the people were amazed, and said, Is not this the son of David?
Weymouth New Testament
12:23 And the crowds of people were all filled with amazement and said, ‘Can this be the Son of David?’
World English Bible
12:23 All the multitudes were amazed, and said, ‘Can this be the son of David?’
Young’s Literal Translation
12:23 And all the multitudes were amazed, and said, ‘Is this the Son of David?’
Amplified Bible
12:23 All the people wondered in amazement, and said, “Could this be the Son of David (the Messiah)?”
† 細き聲 聖書研究ノート
<群衆みな驚きて言ふ『これはダビデの子にあらぬか』>
イエスが悪霊に憑かれた男を癒されると、群衆は驚き、「これはダビデの子にあらぬか」とイエスについて語り合った。
<群衆みな驚きて言ふ『これはダビデの子にあらぬか』>
『これはダビデの子にあらぬか Mh,ti ou-to,j evstin o` ui`o.j Daui,dÈ 』。「まさかダビデの子ではあるまいか?」という驚きと疑惑のこもった思いである。
<驚く>
「驚く ἐξίστημι エクシステーミ」は「正常な位置から外にだしてしまう、外に投げ出す、仰天させる、仰天する、びっくりさせられる、甚だしく驚かす、驚愕させる、冷静な状態から外に出してしまう」の意味。群衆はそれを見て、外に投げ出され<驚愕し、茫然自失し>、冷静な状態ではいられなくなり、イエスは「ダビデの子<来るべきメシア>ではないか」と動揺する。
† 心のデボーション
「群衆みな驚きて言ふ『これはダビデの子にあらぬか』」 マタイ12:23 大正文語訳聖書
「群衆は皆、驚嘆して、『この人こそダビデの子ではないだろうか』と言った」 フランシスコ会訳聖書
「群衆の驚き」
「群衆は皆驚いて」は「各々の群衆は驚き」。このとき群衆は一つではなく、いくつかの異なる群衆がいた。その中にはファリサイ派の「群れ」もいたが、彼らも「イエスはダビデの子ではないか」と「甚だしく驚いた」のである。
† 心のデボーション
「群衆みな驚きて言ふ『これはダビデの子にあらぬか』」 マタイ12:23 大正文語訳聖書
「群衆は皆、驚嘆して、『この人こそダビデの子ではないだろうか』と言った」 フランシスコ会訳聖書
「驚き」
人を「正常な位置から外にだしてしまう」ような「驚き」は、人を「外に投げ出して<正気を失わせて>」しまう。投げ出された人は正常な判断ができなくなり、逸脱する。人は「驚き ἐξίστημι エクシステーミ」を求めて奇跡を見たがる。しかし、この「驚き」から信仰は生まれない。
真の「驚き」は、人を「外に投げ出す(正気を失わせる)」ことをしない。
† 心のデボーション
「群衆みな驚きて言ふ『これはダビデの子にあらぬか』」 マタイ12:23 大正文語訳聖書
「群衆は皆、驚嘆して、『この人こそダビデの子ではないだろうか』と言った」 フランシスコ会訳聖書
「正気を取り戻す」
悪霊が取りついた人から出ると(マタイ8:28~34)、その人が「服を着、正気になって座っていた」ことに人々は驚いた(マルコ5:15)。悪霊にとりつかれた人は「正気」を取り戻したが、それを目撃した人が「正気」を失う。
† 細き聲 説教
「群衆の信仰」
「群衆みな驚きて言ふ『これはダビデの子にあらぬか』」 マタイ12:23 大正文語訳聖書
「群衆は皆、驚嘆して、『この人こそダビデの子ではないだろうか』と言った」 フランシスコ会訳聖書
イエスが悪霊に憑かれた男を癒されると、群衆は驚き、「これはダビデの子にあらぬか」とイエスについて語り合った。
『これはダビデの子にあらぬか Μήτι οὗτός ἐστιν ὁ υἱὸς Δαυίδ 』。「まさかダビデの子ではあるまいか?」という驚きと疑惑のこもった思いである。
「驚く ἐξίστημι エクシステーミ」は「正常な位置から外にだしてしまう、外に投げ出す、仰天させる、仰天する、びっくりさせられる、甚だしく驚かす、驚愕させる、冷静な状態から外に出してしまう」の意味。群衆はそれを見て、外に投げ出され<驚愕し、茫然自失し>、冷静な状態ではいられなくなり、イエスは「ダビデの子<来るべきメシア>ではないか」と動揺した。
「群衆の驚き」ということがある。
群衆は「驚き」に渇き、「驚き」に集まり、そして「驚き」を目撃もする。そして、「この人こそダビデの子ではないだろうか」とさえ言うが、「この人こそ、私のメシア」とは言わない。群衆という熱狂の中に身を置くことに安心するが、「私」はその外に置く。
信仰は決して「群衆」のものではない。
「集まり」への期待の底には「群衆」がいるのかもしれない。
(皆川誠)
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