俳句短歌2024-7~2024-9 

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<2024.9.29>
手探りの 指にうれしや 秋茗荷
秋草の なほ猛々し 放置畑
萎へてきし 足を励まし 歩を踏むも 先行く人に われは遅れて
やうやうに 暑気は去りしか 喧騒の 鎮まりかへる 夕のよろしき

<2024.9.22>
芋のつる 幾重かさなる 畑地かな
秋場所の ラジオのもれる 牧師館
人見れば なつきて騒ぐ 犬つれて 老女はいつも ひとり歩ける
稀人の 現る時刻 夕暮れの 人のかたちに 薄影を見つ

フォロ・ロマーノ,ローマ

<2024.9.15>
秋暁や 雨戸を待ちて 風の入る
秋の蚊の いつ訪れし 足の指
くる朝は 巡りて来れど この朝の 今を限りと 明くるこの時
叢雲の 月のありかも 朧げに 静かなる里 人ゆき交へる

<2024.9.8>
御言葉の ひとつを学ぶ 妻の秋
秋めくや わずかにのびる 一夜かな
星降るが ごときが空の 言の葉の 生まれしところ だたに仰ぎつ
日を延べて われにくれしや 老いの日の 価得難き 今日の一日

フォロ・ロマーノ,ローマ

<2024.9.1>
長き夜や 妻の話の ややこしき
目も口も なき混沌の 秋に入る
夜祭の 瓦斯の臭いの 漂へる 記憶の底の われは遊びて
ことなきは 思ひに過ぎず 来し方を 思へばゆかし われは生きをり

<2024.8.25>
蠅ひとつ 出で行くまでの 騒がしき
無花果の 色見てはかる 甘さかな
雷鳴の 轟く居間に それぞれの 思ひをもちて 妻とわれとの
起きてより もの思ひつつ 過ごしをり 恙なきにも 季節巡れば

コロッセオ,ローマ

<2024.8.18>
夕立や 後先なしの 家路かな
手に探り 目に確かめる 茗荷かな
なれともに 長き道のり あらばこそ われが思ひの 満ち来るもなほ
狭庭の 終はりのトマト 二個のせて 家に持ち帰る 妻の両の手

<2024.8.11>
素麵に オクラの小鉢 牧師館
炎天や 地にしがみつく 草深し
猪の いて猿のいる 里山に 移りし友は 美しく生く(道子)
人の声 久しく聞くも 往来の しづまりかへる 西日落つ街
悔いなきを 思ひつ悔ゆる 久方の 来し方見れば 蒼き遠山

コロッセオ,ローマ

<2024.8.4>
どくだみの 根を掘り起こす われが妻
老い知らず 知らぬと老いし 炎暑かな
葉にかくれ 咲くおくら花 みじかくも 淡き色して 猛暑にすずし(道子)
いささかの こと起こりをり 生くる身の ありしと思ふ 月冴ゆる庭
わが父は ことば少なき 人なりき ひとり場板に 座す人なりき

<2024.7.28>
とうすみを 見しこと久さし 草の先
いつ咲きて いつ散りたりし 柿の花
酷暑にも 戸惑う百合か 咲く時を 思案するかに 今日も開かず(道子)
新しき 家建ちたりと 時すでに ありしを忘る ことの寂しさ
かく云へば かくなることと かく知るも 云はずにをらぬ われがさがなる

カラカラ浴場,ローマ

<2024.7.21>
陰を出て 陰に戻れる 暑さかな
短夜や 妻の寝息に おくれとる
逝くときは 川のほとりを 手をとりて 歩みしごとく のぼりゆきたし(道子)
蚊がをると 眠りに入れる 妻起こし 電気蚊取りを 探る暗闇
夜更けて 冷たき雨は 遠のきて 湿りけ多き 夏に入りゆく

<2024.7.14>
すだれごし 外を窺ふ 野猫かな
蝉殻を こはさぬやうに 子らつまむ
洗たく機 まわしてまわして 梅雨晴れ間 汗ばむ顔に 風吹きぬける(道子)
虫食ひの トマトは赤く 色づけり 腐れ半ばを ままに熟しつ
風向きに よりて聞こゆる 終電の 入り来る音の 耳にかそけし

<2024.7.7>
ひとことも 出でぬ暑さや 西日中
炎天や 童の声の ひとしきり
暑き日々 断熱カーテン めぐらせて 室温チェックの きのう又今日(道子)
やうやうに トマトの棚の 色づける 時の流れを ひたに思ひつ
やや耳の 遠くなりたる われなるか もの再びに 聞きつ語らふ

コメント

  1. 皆川誠 より:

    コロッセオの写真、写っている観光客の姿からその大きさがわかり、想像していたよりもはるかに巨大な建造物に、驚きます。特に今回の写真ではコロッセオの内部が見えます。これは以前には公開されていなかった所で、今はその中を歩けるのですね。興味深い写真です。石組みの部屋が沢山あって、そこに動物や、獣と戦わされた人々、そして命がけで戦う剣闘士などが出番を待っていたのでしょう。この部屋の上に木製の舞台があって、多くのキリスト者が殉教したと思うと胸がつまります。実際にそこに立つと、さらに直接的な感覚に満たされるに違いありません。いつも貴重なお写真をありがとうございます。皆川