ヨハネ8:56
ἀβραὰμ ὁ πατὴρ ὑμῶν ἠγαλλιάσατο ἵνα ἴδῃ τὴν ἡμέραν τὴν ἐμήν, καὶ εἶδεν καὶ ἐχάρη.
新共同訳聖書
あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
【中心聖句】 ヨハネ8:56
【聖書引照】 ヨハネ8:56 使徒2:25~28
「アガるリアオー 喜び アブラハムとダビデ」
Ⅰ 用語 ἀγαλλιάω アガるリアオー
ἀγαλλιάω アガるリアオー agalliaō {ag-al-lee-ah‘-o}
①喜ぶ、非常に喜ぶ、喜びにあふれる ②狂喜する、非常に喜ぶ ③小躍りして喜ぶ ④歓呼する ⑤うれしがる
ἐπί ἔν とともに喜びの理由、原因をあらわす
ἀγαλλιάω は聖書特有の表現
(ἀγαλλιάω マタ5:12 ルカ1:47, 10:21 ヨハ5:35; 8:56; 使徒2:26, 16:34 Ⅰペテ1:6,8; 4:13; 黙示19:7)
Ⅱ アブラハムのἀγαλλιάω
ヨハネ8:56
ἀβραὰμ ὁ πατὴρ ὑμῶν ἠγαλλιάσατο ἵνα ἴδῃ τὴν ἡμέραν τὴν ἐμήν, καὶ εἶδεν καὶ ἐχάρη.
新共同訳聖書
あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
アブラハムは神のことばに従ってカルディアのウルを出立しカナンに到着した。神はアブラハムを祝福し、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」(創世17:1~2 新共同訳聖書)と契約を結ばれた。アブラハムは息子イサクを得たが、それは契約のすべてではなかった。アブラハムは神のもとに召されて後、神の契約がはたされる日を仰ぎ望んで楽しみにし(ἀγαλλιάω)、遂に主イエス・キリストが地に遣わされるのを見て、喜んだ。「喜ぶ ἀγαλλιάω」は「歓喜にみちた信仰の喜び」である。アブラハムは神の懐で、神の国の実現に歓喜雀躍するのである。
Ⅲ ダビデのἀγαλλιάω
使徒2:25~28
δαυὶδ γὰρ λέγει εἰς αὐτόν, προορώμην τὸν κύριον ἐνώπιόν μου διὰ παντός, ὅτι ἐκ δεξιῶν μού ἐστιν ἵνα μὴ σαλευθῶ.διὰ τοῦτο ηὐφράνθη ἡ καρδία μου καὶ ἠγαλλιάσατο ἡ γλῶσσά μου, ἔτι δὲ καὶ ἡ σάρξ μου κατασκηνώσει ἐπ᾽ ἐλπίδι·ὅτι οὐκ ἐγκαταλείψεις τὴν ψυχήν μου εἰς ᾅδην, οὐδὲ δώσεις τὸν ὅσιόν σου ἰδεῖν διαφθοράν.ἐγνώρισάς μοι ὁδοὺς ζωῆς, πληρώσεις με εὐφροσύνης μετὰ τοῦ προσώπου σου.
新共同訳聖書
ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
王ダビデは、常に「目の前に主を見ていた」(使徒2:25 新共同訳聖書) それによってダビデの心は「楽しみ ἀγαλλιάω 歓喜し」、体は希望のうちに生きた。ダビデは「いつも目の前に主を見ていた」ので、「主がわたしの右におられ」、「わたしは決して動揺しない」と告白している。神への信頼は「ἀγαλλιάω 歓喜」を生み、「ἀγαλλιάω 歓喜」は「希望」を生み、「希望」は「いのちに至る道」に導く。
(聖書研究ノート 00076-45-8-56-1 「アガるリアオー 喜び アブラハムとダビデ」 ヨハネ8:56)
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