Jn.1:8
οὐκ ἦν ἐκεῖνος τὸ φῶς, ἀλλ᾽ ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός.
聖書協会共同訳聖書
彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
【中心聖句】 ヨハネ1:8
【聖書引照】 ヨハネ1:8 ルカ3:15 ヨハネ1:20 ヨハネ3:28 使徒19:4
「メサイアコンプレックス」
Ⅰ 民衆の期待
ルカ3:15
προσδοκῶντος δὲ τοῦ λαοῦ καὶ διαλογιζομένων πάντων ἐν ταῖς καρδίαις αὐτῶν περὶ τοῦ ἰωάννου, μήποτε αὐτὸς εἴη ὁ χριστός,
聖書協会共同訳聖書
民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
バプテストのヨハネがユダの荒野で宣教を始めると、メシアの来臨を待ち望むユダヤの民衆は、バプテスマのヨハネこそが約束のメシアではないかという期待が高まった。人の中には、常に「見えるメシア」への期待が存在するのである。
Ⅱ メサイアコンプレック
バプテスマのヨハネに寄せられる民衆の期待は、ヨハネに「メサイアコンプレック Messiah complex」を抱かせるに十分なものであり、それはバプテスマのヨハネに霊的危機をもたらし得る力をもっていたと思われれるのである。
「メサイアコンプレック Messiah complex」は「救世主妄想」と呼ばれるもので、聖なることに関わる者の肥大化した自我が、自己を「救済者」と位置づけ、人を救済することに自己満足的な喜びや、自己の存在意味をみいだそうとするものである。その背景には自尊心の貧しさがあり、人を救済する自己を意識することで自己充足感を満たそうとするのである。したがって、他者に提示する救済が受け入れられる限りは自己満足は充足するが、ひとたび、他者に拒まれると、あっさりとすべてを放棄し、身を引いてしまう。
Ⅲ パプテマスのヨハネの告白
ヨハネ1:20
καὶ ὡμολόγησεν καὶ οὐκ ἠρνήσατο, καὶ ὡμολόγησεν ὅτι ἐγὼ οὐκ εἰμὶ ὁ χριστός.
聖書協会共同訳聖書 1:19
彼は公言してはばからず、「私はメシアではない」と言った。
ヨハネ3:28
αὐτοὶ ὑμεῖς μοι μαρτυρεῖτε ὅτι εἶπον [ὅτι] οὐκ εἰμὶ ἐγὼ ὁ χριστός, ἀλλ᾽ ὅτι ἀπεσταλμένος εἰμὶ ἔμπροσθεν ἐκείνου.
聖書協会共同訳聖書
『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、まさにあなたがたが証ししてくれる。エルサレムからユダヤ人の祭司とレビ人が派遣されてヨハネに「あなたはどなたですか」と問うと、ヨハネは「私はメシアではない」と明言し、「では、エリヤですか」という問いにも「わたしはエリヤでもあの預言者でもない」と否定し、「あの方の前に遣わされた者だ」と答える。(ヨハネ1:19~27,3:28)
Jn.1:8
οὐκ ἦν ἐκεῖνος τὸ φῶς, ἀλλ᾽ ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός.
聖書協会共同訳聖書
彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
バプテスマのヨハネがこのように答え得たのは、自分は「光ではない」との明確な自己認識と、「光について証しをするために来た」という存在への明確な確信によるのである。
Ⅳ 使徒パウロの証言
使徒19:4
εἶπεν δὲ παῦλος, ἰωάννης ἐβάπτισεν βάπτισμα μετανοίας, τῶ λαῶ λέγων εἰς τὸν ἐρχόμενον μετ᾽ αὐτὸν ἵνα πιστεύσωσιν, τοῦτ᾽ ἔστιν εἰς τὸν ἰησοῦν.
聖書協会共同訳聖書
そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を授けたのです。」使徒パウロはコリントの教会に、「自分はヨハネのパプテマスを受けた」と主張する信徒がいることを知ると、「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を授けたのです。」と告げると、人々は罪を告白してパウロから「イエスのバプテススマ」を受けた。(使徒19:1~7)
使徒パウロもバプテスマのヨハネの告白に従い、イエスがキリストであることを力強く証しした」のである。(使徒18:28)
(聖書研究ノート 00054-43-01-08-1 「メサイアコンプレックス」 ヨハネ1:8)
コメント