2021.05.232021.05.26
「しか」といえば私たちは奈良公園の鹿を思い起こしますが、パレスチナには多くの種類の動物が「しか」と呼ばれますので、聖書の中で「しか」がどの種類であるかを特定するのは難しいほどです。少なくとも、「奈良公園の鹿」ではないことは明らかです。
Ⅰ列王記にはソロモン王の食卓を思わせる記述があります。(Ⅰ列王4:22~23) その中に「雄鹿」が記されています。ヘブライ語で「雄鹿」はアッヤールで、成長した雄の鹿を意味します。
「雄鹿 アッヤール」は新聖書大辞典は「かもしかであろう」とし、砂漠地帯に棲む「砂漠羚羊」の中の小さな種類ではないかと推測しています。(新聖書大辞典)
(この項については、聖書の中の食べ物「こじか」で触れましたので、参考になさってください。)
祝福として
聖書は信仰上の理由で、食べることのできる「きよい動物」と、食べることのできない「汚れた動物」を区別しました。イスラエル人が実際に食べられたのは、神殿にささげられた羊や牛の肉の他に、神にささげられないけれど「きよい動物」として食べることができる「肉」でした。
申命記には神にささげる生贄の家畜について厳しい規則が設けられています。
「全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。」 申命記12:13~14 新改訳聖書
羊や牛を捧げるときは「定められた場所」で、「定められた人」によって、「定められた方法」でささげなけれなりませんでした。神への捧げものであっても、「かって気ままに」できることではなかったのです。その後、犠牲として捧げられた肉は祭司とささげた人が食べることがゆるされたのです。(全焼の生贄の場合は、すべてを祭壇で焼かれました。)
神への捧げものに対して、「しか」などの野生の動物は次のように決められています。
「しかしあなたの神、主があなたに賜った祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。」 申命12:15 新改訳聖書
神にささげる動物とちがって、食料としての肉は、「食べたいとき」に、町の中で屠って食べてよいとされたのす。当時の町は城壁に囲まれ、門で外の世界と区切られていました。羊や牛、そして野生の鹿でも「城壁の内側で屠って食べることが「神の祝福」として語られているのです。
ここには小さな疑問が生じます。「しか」が砂漠地帯に棲む「砂漠羚羊」のことだとすれば、町から離れた砂漠の荒地にに棲む敏捷な「しか」を、漁師は忍耐強く追って仕留めなければなりませんでした。首尾よく仕留めたとしても重い「しか」をそのまま町に運ぶことはできません。そこで漁師たちは仕留めたしかをその場で解体し、肉を町に持ち帰ったに違いないのです。
すると、「自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる」というのは、しかなどの野生動物を町の中で屠ってもよいという意味よりも、「神、主があなたに賜った祝福にしたがって」、しかを羊や牛の家畜でも食べるように町囲いの中で食べることができると、神がイスラエルに与えられる祝福の豊かさを示すことばではないでしょうか。
現在、私たちはスーパーに行けば、奇麗にスライスされた「肉」が「欲しいだけ」並んでいます。それを手にするとき、「神、主があなたに賜った祝福にしたがって」が心に思い浮かびます。
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