「しゃこ」と聞けば、日本人としては回転寿司の「しゃこ」が頭に浮かぶところですが、ここでは鳥の「しゃこ」です。
キジ科の鳥で、体形はキジとウズラの中間のずんぐりとした形の鳥です。ヘブライ語でコーレーと呼ばれます。「コーレー」は「呼び屋」の意味で、独特な鳴き声からきたものです。
ダビデと「しゃこ」
ダビデがサウル王の追跡を逃れて荒野にいたとき、サウル王に「どうか今、私が主の前から去って、この血を地面に流すことがありませんように。イスラエルの王が、山で、しゃこを追うように、一匹の蚤をねらって出て来られたからです」(Ⅰサムエル26:20 新改訳聖書)と告げています。
「しゃこ」は岩場に隠れ住んでいますが、めったに飛ばない鳥ですが、(飛んでもすぐに疲れてしまい、地面を走り出します。)たいへん素早く走ることができるので、猟師は見つけると仲間と大騒ぎして追いかけるのです。岩場から岩場に逃げるうちに「しゃこ」も疲れてくるので、その時を見計らって棒で叩いて捕えるのだそうです。
ダビデの「山で、しゃこを追うように」は、「イスラエルの王」が「一匹の蚤」にすぎない自分を猟師が「しゃこを追う」ように捕えようとしているのです」とサウル王に訴えているのです。
「しゃこ」には気の毒な狩りの仕方ですが、その肉はとても美味しいので、パレスチナでは古くから人気のある食材で、「しゃこ」獲り専門の猟師もいたのです。
旧約聖書外典のシラ書には「籠にいれられたおとりの鶉」ということばがあります。
「高慢心は籠に入れられた鶉のようなもの。彼は間者のようにお前の没落を狙う」 シラ11:30 フランシスコ会訳聖書
「鶉」は「しゃこ」のことで、猟師が岩場に隠れている「しゃこ」をおびき出すために、おとりの「しゃこ」を籠に入れ、その鳴き声で仲間をおびき出すために使ったものです。「籠に入れられたしゃこ」は仲間の破滅を誘う「高慢な者」の喩えになっているわけです。
「しゃこ」の卵
聖書にでてくる「しゃこ」のもう一つのお話は卵に関するものです。
「しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得る者がある。彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。」 エレミヤ17:11 新改訳聖書
「しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように」というのは、「しゃこ」が他の鳥の産んだ卵を盗んで抱くと思われる表現ですが、「しゃこ」の名誉のために言えば、そのようなことはありません。「しゃこ」は沢山の卵を産む鳥で、20個もの卵を産んで抱いているのが知られているくらいです。そのことから、「自分で産まなかった卵を抱いている」と疑われたのでしょう。
そればかりか、エレミヤ書では「しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得る者がある。彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。」 (エレミヤ17:11 新改訳聖書)とあって、不正な手段で得た富はいつか失わるということの喩えに使われてしまいます。
これは「しゃこ」の巣には他の鳥よりもはるかに多くの「卵」があるので、効率よく獲れるところから、「しゃこの卵」を集めて売る人もいて、よい商売になったのです。「しゃこの卵」もうずらの卵のようによく食べられる食材だったのです。
「しゃこ」は他の鳥の卵をこっそり盗む鳥ではなく、まして「籠に入って」高慢な態度で仲間の破滅を誘う鳥でもなく、むしろ、沢山の卵を狙って獲ってまわったり、「しゃこ」の独特な鳴き声を利用して隠れている「しゃこ」を誘い出す人間の方がよほど悪賢いといわねばなりません。
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