パン好きの私は、一度は聖書のパンを食べてみたいのですが、まだその機会がありません。
私はパンは一旦冷凍保存したものを解凍して食べるのが好きです。これでパン好きと言えるのかわかりませんが要するに古いパンが好きなのです。
大麦のパンと小麦のパン
聖書の時代では、小麦で焼いたパンは贅沢品で、一般的には大麦のパンでした。
イエス様がガリラヤ湖畔で少年が持っていた5つのパンと2匹の魚で五千人を養われたのはよく知られていますが、その時少年の持っていたパンは「大麦のパン」だったことから、貧しい家庭の母親が少年に持たせたお弁当だったことがわかります。
小麦の栽培がはじまると裕福な人々は小麦のパンを食べるようになりました。小麦は大麦にくらべて味がよく美味しかったのです。小麦のパンにも、小麦のふすまを除かない色の黒いパンと、粉からふすまを除いて精製した白いパンがあり、色の白いパンは最高級で、とても贅沢なパンでした。
マムレの樫の木のそばで天幕の入口に座っていたアブラハムが砂漠から来た三人の旅人のために大急ぎで焼いたパンは「ふすまを除いた上等の小麦」で焼いた最上級の白いパンでした。この時アブラハムは知りませんでしたが、後に、この三人の旅人はソドムとゴモラを裁くために向かわれる神の使いで、その一人は神御自身だったことがわかります。(創世記18:16)
アブラハムは見ず知らずの旅人に、常に持てるものの中から最も良きものをもってもてなす人で、それが神との出会いに繋がっていくのです。
聖書の時代のパンの焼き方
イザヤ書からは、人々は野で焚火をして身をあたため、それでできる熱い灰の上に大麦の粉をこねて置いてパンを焼いことがわかります。
「こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き」(イサヤ44:15)
やがて、人々はこうした単純な焼き方から石をつかうようになります。平たい石を火で熱し、そこに練った粉を置いてパンを焼くのです。
預言者エリヤがいのちを狙うイゼベルから逃れた荒野で御使いから食べるように促されたのは「焼石で焼いたパン」でした。(Ⅰ列王記19:6)
パンが主食となる頃にはどの家にもパンを焼く「かまど」が作られるようになります。
レビ記には「十人の女が一つのかまどでパンを焼く」(レビ記10:26)とあるのは、飢饉や戦争で一つのパンのかまどを大勢の家族が共有したという意味です。
パンとパン種
イエス様のお話に「パリサイ人やサドカイ人のパン種に注意しなさい」という言葉があります。(マタイ16:6)
「パン種」はパンを膨らませるために前日のパン生地を残したもので、それを新しいパン生地に練り込んでパンに焼いたものです。イースト菌の役割を果たすもので、一晩おくとパン生地全体をふくらますところから、パリサイ人やサドカイ人の悪しき教えが行き渡る危険を譬えたものです。
焼いたパンはバターや汁の入った鉢に浸して食べられました。(マタイ26:23)
私のパンを食べる人
「親しい友」とは一つのパンを分け合って食べる人のことでした。
箴言41:9は自分を裏切ったのが「私のパンを食べた親しい友」だったことを心から哀しむことばです。
十字架の前夜、イエス様がユダに鉢にひたしたパンを与えたのはそのためだったのかもしれません。(マタイ26:23)
その後、イエス様はパンを取って祝福し、弟子たちに与えて、「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と言われたのです。(マタイ26:26)
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