「主の晩餐」はⅠコリント11:20にありますように、原始教会の大切な会食でした。これについては聖書の食べ物の「愛さん」で触れましたのでご参照ください。(「愛さん」は「主の晩餐」とも言われ、別々のものではありません)
「主の晩餐」の起源はイエス様が十字架にかかられる前日に弟子たちとなされた「最後の晩餐」にあります。(マタイ26:20~25)
やがて、「主の晩餐」が教会の「聖餐式」(カトリック教会では「ミサ」)として守られることになるわけです。
その意味では「主の晩餐」は信仰生活の中心に置かれる重要な儀式になります。「聖書の食べ物」のコーナーで取り上げるには大きすぎるテーマを含んでいます。短い紙面の制約もありますので、ここでは原始教会で守られた「主の晩餐」がどのような「食事会」であったか調べてみたいと思います。
過越しの祭と主の晩餐
モーセとともにエジプトを脱出したイスラエルは、脱出前夜に守られた「過越しの食事」をいつまでも忘れないように「過越しの祭」を定めました。
「主の晩餐」に用意されたのは「過越しの食事」でした。(マタイ20:19)
「過越しの食事」は現代もユダヤ教によって守られ、「ペサハ」と呼ばれます。それは概略次のようなものです。
食事は子羊のすねの骨(現在は鶏の骨を代用)と苦菜とハセロット(エジプトの土を思い出すように)「セデル」と呼ばれる皿に盛られます。
家族が集まると蝋燭に点火し祈ります。次にぶどう酒を回し飲みし、苦菜をとり、種なしパンが裂かれます。続いてぶどう酒が回され、詩篇が朗読されます、続いて再び種なしパンが裂かれ、苦菜を食べます。
これがすむと、食事になります。食事がすむと、又ぶどう酒が回され、感謝の祈りがささげられ、詩篇の朗読し、最後の杯が回され、祈りと共に終わります。
「過越しの食事」に飲まれるぶどう酒は、干しぶどうを水に浸した「ぶどう液」を使う家もあるといいます。
主の晩餐と聖餐式
十字架の前夜になされた「主の晩餐」は「過越しの食事」と同じでしたが、主イエスはその意味を明らかにされた点で違っていました。
「主の晩餐」ではパンを裂くことが十字架における主イエスの御身体を、回し飲みされるぶどう酒は十字架に流される主イエスの血を意味することが明らかにされたのです。
「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」 マタイ26:26~28 新改訳聖書」
使徒行伝の原始教会は「主の晩餐」を「愛さん」として守り、その後、教会は「聖餐式」として聖礼典の一つとして守ることになりました。
教会の聖餐式
教会の聖餐式では「愛さん」の食事はなくなり、礼拝の中で「パンとぶどう酒(またはふどう液)」の聖餐式になりました。主イエスの十字架と復活への告白として「パンとぶどう酒」を受け、主の交わりに入ることの象徴として礼拝の中心に置かれたのです。
教会では種なしパンは普通のパンになり、パンを裂くということもなくなって、あらかじめ小さく切ったパンが配られます。教会によってはパンの代わりにその為に焼いた小さなウエハースを用います。
しかし、原始教会が「主の晩餐」を日々の食卓の中で守ったことは忘れてはいけないと思います。迫害の中、信徒たちは暗いカタコンベの中で、人々が集まり、一つのパンを裂き、何度も同じ杯を回し、聖書を読み、祈り、同じものを食べ、感謝と願いを共にしたのです。
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