Chat014-レオポン

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進化論について私の見方を証したいと原稿を掲載始めたところ,皆川師からこのテーマへの期待とご意見をいくつかいただきました。聖書の信仰を学ぶ一つの切り口を提供するつもりで原稿を書いています。

自己紹介

サイト管理者の私(hiroshi)自身は皆川師のサポート役であっていまのところ氏名を公開していません。私のお証しでこれまでお世話になった方々にご迷惑をおかけしたくないという気持ちもあります。しかしそれでは記事の背景が分かりにくいでしょうから,hiroshiの立場を少し述べることにします。

私は教職者ではないのと同じように,生命科学の専門家でもありません。エンジニア,研究者,会社経営者というのが近いところです。専門分野は比較的広くて機械工学,金属工学,経営工学,電気工学,電子工学,情報工学,制御工学など。修士号は精密工学,博士号は電子情報工学でいずれも某国立大学からいただいています。仕事上,解剖学とか経営学について専門教育を受ける機会もありました。

2020年(昨年)夏に大手企業を退職して現在はフリーランス。長年にわたり放射線や電磁波を用いた医用診断機器と放射線を利用した大規模治療器機の開発設計を生業としてきました。結果的に30年以上人体を観察することになり,また何種類かの特殊な難病治療にも携わってきたわけです。

進化論に対する立場

聖書研究のホームページに原稿を添える私の立場は「進化論を無批判に受け入れることはしない」というところです。進化論そのものは決して本コーナーChat roomの中心テーマではありませんけれども。

「環境によって生物が変化しうること」「同一種内の交配によってその種の性質が多様化しうること」については肯定しています。

一方で「偶然生命が発生した」「自然淘汰で種が多様化した」,まとめて言えば「単純な生物が偶然生まれ,それが進化してやがて猿から人間が進化した」については否定的です。突然変異(偶然)と自然淘汰で説明しようとする進化論であれば,私には受け入れられません。

創世記にある天地創造が科学的,論理的に正しいとまで言いませんが,少なくとも天地が形作られ,そして生命が生まれるところに「偶然」「自然淘汰」の類の論理が通用するとは考えていません。まして「進化論が神を否定」したり,「人は偶然生まれたのだ」とに強く主張する方に対しては自分を抑えない限り議論し始めてしまうのです。

レオポン

かつての同僚や共同研究者たち,彼らの多くは高学歴の研究者やエンジニアたちですが,私になぜ進化論を受け入れないのかと問うような場面が幾度かありました。そんなときはたいてい次のようなことをお話しします。

「ヒョウの父親とライオンの母親から生まれた雑種でレオポン (leopon)というのが知られている。 人為的やよほど特別な環境でしかこのような交配は起きないが,頭はライオンに、体はヒョウに似ているとのこと。レオポン同士は生殖能力がなくその子供ができないので通常はこの交雑種を独立した種とは呼ばない。同様の交雑例はいくらかあるようだが,いずれも交雑した動物同士は子を生まない。

仮に猿Aと猿Bが別の種であれば,交雑があって猿ABが生まれたとしても,猿ABには子が生まれないので猿ABの子孫がいつか人になることはない。少なくともそういう実験なり観察が成立していない。

地球上のどこかで突然変異でオスのニホン猿C雄が生まれたとする。その猿の繁殖適齢期間(長くても20年未満)の行動範囲内(例えば10km平方以下)で全く同じ突然変異のメスの猿C子が生まれなければ,レオポンの例から新しい種が成立しない。新しい種となるには,この2匹の猿が限られた地域,限られた年月の中で,偶然出会って子供の猿C男を生まねばならない。さらに同じ猿C雄と猿C子が,もう1匹の猿C娘を生み,さらに猿C男と猿C娘との間に猿C孫太郎,猿C孫娘が生まれていくという猿Cの家系を考えることになる。

ところで,ニホン猿の行動範囲10km平方以内,適齢期の20年以内という制約下(いずれもざっくりした仮定)で,突然変異で生まれた猿C雄と猿C子が出会って子をもうけるという事態が本当に起こりうるのだろうか。

仮に数百年に1度そのようなことがあったにせよ,一度の突然変異における進化は小さいものだろうから,例えば猿が人に進化したとされる200万年ほどのスケールでは短すぎないだろうか。どんなに長く見ても地球の年齢45億年なわけで,その期間に単純生命体から人へ進化するのは不十分ではないか。」

天地創造,生命の起源を理解するための謙遜

ノアの子孫のところで学ぶように,人は世界の各地域に分散して生きたとされています。生きる環境適応のために皮膚や髪,目の色,身長など地域に応じて変化していったのかもしれません。それが自然淘汰なのかは横に置くとして,見た目の違いがあってもこれら人種の間には子孫が生まれます。ですから人は同じ種に属するのであってどの人種が進化形などということを考えるのはナンセンスです。私たちがはっきり確認できるのはそんなところです。

進化論を考えるにあたり,聖書を信じる者として整理しなければならない切り口はいくつかあります。生命の起源,種の起源,突然変異,自然淘汰,種とは何か,私が生きているWhyとHowの区別などがその例です。先述の「時計」の話は生命の起源に関連付けたつもりでした。今回のレオポンの記事は種の起源に関するものです。

仮に種を超えて生物が偶然変異するとして,まずレオポンの例を示した上で猿に何が起きたろうかと少し具体性を添えてお話してみると,大抵のエンジニアたちは「突然変異と自然淘汰」を中心に構築された「進化論」には無理があると理解してくれます。少なくともターウィンにはじまる進化論には「何かが足りない」とまでは気付いてくれました。そうでない例外的なケースは議論の打ち切りだけでした。

いずれにしてもこれが天地創造,生命の起源に対して,聖書が私たちに求める「謙遜」のスタートだと思うのです。

hiroshi

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