私を教会に誘ってくれたのはA君でした。A君は中学校の同級生ですが、クラスではそれほど親しい友ではなく、教会に通うようになってから親しくなったのです。いわばA君は私の最初の教友になった人です。教会の中でもA君は常に中心にいて、頼りになる人でした。次第に互いの家を訪ねるような関係になりました。A君は私を教会に誘うだけでなく、私の信仰の模範ともなった人物です。
そのA君に変化が生まれたのは二人が高校に進学した頃でした。教会を休んだことのないA君が休むようになったのです。そして、次第に教会から離れ、ついに教会には来なくなりました。私は何度もA君を訪ねました。普通の会話はできるのですが、教会についてはかたく口を結び、教会に来ない理由は、ついに明かしてはくれませんでした。やがて、私は献身し、A君は結婚し、新婚旅行の行く先からの手紙を最後に連絡が途絶えたのです。神学校の夏休みにA君を自宅に訪ねましたが、自宅のあったところは更地で、ご家族もA君も、どこに引っ越したかも分からず、以来音信不通になってしまったのです。
私はA君に教会に戻って欲しいと熱心に告げました。しかし、それを告げる私の思いがつのればつのるほど、A君は教会から遠さかって行ったように思えるのです。A君に何が起こったのか、そこには信仰の危機だけでなく、思春期に特有の、何かわからぬものがA君の心に始まったのかもしれません。ただ、わかることは、私にはまだA君の心に始まったものを共有する力がなかったという悲しい事実です。その意味ではA君と私の間にあったのは、友というにはほど遠いものでしかなかったのかもしれません。当時の私には友としての力のない自分を振り返ることもできずに、A君が教会に戻ってさえくれれば、すべての問題は解決すると信じるのみだったのです。
教会での友人は、信仰が中心にあることは言うまでもありません。二人が教会にいるかぎりはよいのですが、信仰に何らかの疑問が生まれ、それが解決されないと、教会の外に去っていくことになります。信仰に何らかの疑問が生まれるということは必ずしも悪いことではなく、信仰の成熟のために避けられない危機かもしれません。その苦しさを共にできてこそ、信仰の友ではないでしょうか。
A君と別れてから60年以上の時が経過しました。今も手作りのラジオを組み立てて、一緒に聞いたことや、器用に彫って私にくれた木彫りの人形を思い起こします。あるいは日本のどこかの教会に通っているのではないかと想像したりしながら祈っています。
皆川誠
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