聖書を読む人は、初めて自分が手にした聖書について、どのようにして聖書に出会ったのか、聖書を開いたときの思いなど、忘れられない思い出があると思います。私の場合は、初めての聖書は教会学校に行ったとき、戴いたヨハネの福音書文語訳の分冊になります。ポケットに入るくらいの小型で赤い表紙でした。私の行った教会では、文語訳聖書が使用されていて、教会学校の子どもも文語訳聖書を使っていました。次に戴いたのは黒い表紙の文語訳の新約聖書でした。そのうちにどうしても自分の旧新約聖書が欲しくなり、古本屋でみつけて購入しました。これが私自身で手に入れた最初の聖書になります。元訳の新約聖書も古本屋でみつけて購入しました。
最初の聖書が文語訳の旧新約聖書であったことは、私の聖書を読む姿勢に少なからぬ影響がありました。なにしろ文語訳の旧約聖書は明治時代に翻訳されたもので、旧かな、旧漢字を用い、ルビがふってあるので読めるのですが、見たこともない漢字と仮名遣いで、聖書の意味を知る前に、旧漢字の意味を調べるところから始めなければならなかったのです。そこで手に負えないところは図書館の漢和辞典で調べながら読んだのです。「聖書は難しい」というのが私の認識になったのは当然のことと言えます。そして、スタートにあった聖書への私のイメージは現在まで変わることなく続き、それが聖書研究を支える力になっていったのです。
教会に通ううちに、私の手元には文語訳聖書に加えて、口語訳聖書、新改訳聖書、新共同訳聖書、フランシスコ会訳聖書、ラゲ訳聖書、バルバロ訳聖書、日本聖公会訳聖書、永井直治訳聖書、塚本虎二訳聖書等、日本語で読める聖書が続々と増えました。(日本語訳聖書はその他にもあります。上記の聖書は私が手元においているものにすぎません。) これに英語訳の聖書を加えると聖書の数はさらに増えます。加えてギリシャ語聖書、ヘブライ語聖書、LXX、ラテン語訳聖書があります。一節ごとにこれらの聖書をすべて開いて、聖書の原語がどのように訳されているかを調べることが私の聖書研究の基礎になったのです。この聖書研究は、当然、多読には向きませんが、立ち止まって考え、聖書のことばの理解を深めていく楽しさがあります。これも私の初めての聖書が、中学生には難解な文語訳聖書であったところから自然に始まったことなのです。
皆川誠
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