M教授とお弟子さんたち
私が尊敬する方のお一人にM教授がおられます。学際的にも人格的にも超一流な方です。東京大学で教鞭を取られた時代の教え子たちを大切にされていました。学際的な事柄に限らず,技術関連の国際規格制定といったテーマについても度々相談に乗っておられました。
教え子たちと言っても当時の私よりは年長の方々であって,彼らはみな大企業で部長職相当以上の立場でした。当時の私の上司もM教授の教え子の一人でした。東京大学出身者の集まりという意味で私は部外者なのですけれど,ある日上司に誘われてその相談会の場にいました。あの日は会のあとに教授を慕う4~5人の会食が設けられました。私を除けば東京大学出身のエリートばかりです。
食事会がすすんでいく中でいろいろな話題が語られ,その中でM教授が言われました。
「科学技術が最も進んでいる米国では,進化論を信じていない人の割合が全人口の60%近いのだそうだ。キリスト教の影響なのかもしれないが,私にはとても理解できないことだ。」
M教授のこの言葉を聞いた私の目が泳いだことに気付いた上司は「まぁまぁ」とこちらに目配せをしました。その場で反論はしなかった私に対して,後になって「何か言いたい目をしていたね」と声をかけてくれました。上司は私がクリスチャンであることを知っていました。
進化論
ウィキペディアによれば「進化論とは、生物が進化したものだとする提唱、あるいは進化に関する様々な研究や議論のことである。 生物は不変のものではなく長期間かけて次第に変化してきた、という仮説に基づいて、現在見られる様々な生物は全てその過程のなかで生まれてきたとする説明や理論群である。」とあります。
ダーウィンが「種の起源」で提唱した突然変異と自然淘汰を中心としたこの進化論は,その後多くの人たちに支持されました。自然博物館に行くと,そこには人が猿から進化したのだと示す展示物があります。いまや「進化」という言葉は,生物学に限らず自然科学の枠を超えて拡がり,社会的な事象でもしばしば用いられています。もちろん小学校や中学校でもこの進化論は教えられますし,社会の中では支持されるというより,当たり前の「科学」とほとんどの人々に理解されています。
しかし進化論にはいろいろな矛盾点があって,偶然生命が発生し,ある確率で突然変異を起こし,自然淘汰で生物が進化したとされます。とどのつまり偶然猿が人に進化したというのには相当な無理があります。ですから「進化論」は繰り返し見直されていて,現在の物理学や化学に比べればその体系はいまだにすっきりしません。そういった理由からこれを認めない人々もある割合でい続けます。
目的をもってつくられた
私が日曜学校で子供たちにお話してきたメッセージの一つに「神様は目的があってあなたをつくられた」という趣旨のものがあります。
神様は私たちにいつも関心を持っておられます。偶然私がいるわけではないということです。突然変異と自然淘汰が基本となる進化論とはある意味で対立する考えです。学校で学ぶ子供たちは進化論を特に疑ってはいないし,クリスチャンの家庭の子供たちであっても,これはこれ信仰は信仰と,大抵は割り切って生きています。かくいう大人も同じです。
学校で教えられたことをほとんどの子供たちが無批判に受け入れます。やがて大人に成長してもそれが理解の基本になる学校教育とは,ある意味恐ろしいものだとも感じます。
私としてはこのチャットルームで何度かに分けてこのテーマで証しをしたいと考えています。ご批判を喜んで受け入れるつもりで綴ってみます。
hiroshi
コメント
科学教という別の宗教だと思います。
本来、科学とは神様が創造されたこの世の様々な事象、法則、秩序などを人間が観測、研究することです。
しかし、現代において、科学と呼ばれるものは必ずしもそれに基づいていません。
進化説(論)の証拠はどこにもありません。定説ではなく、あくまでも仮説なのです。
ビッグバンの証拠もどこにもありません。特に、宇宙理論については、物理学者の計算上、架空で導き出しているだけのものに過ぎず、時代を追うごとに過去のものが否定され、アップデートされている状態です。ビッグバンは、ルメートルというイエズス会士が考え出したものです。
もともと、フレッド・ホイルという、ビッグバンなどないと主張する学者がルメートルの説を「This big bang idea」と呼んだことに由来した名称であり、ホイルは進化説についても否定しています。しかし、日本の教育では、特定の仮説があたかも定説かのように教えられていることは由々しきことであると思います。
普通に考えても、偶然が重なって下等生物から高等生物になるわけがないのです。手元にあるキーボードを何十億年間ランダムに叩いても、簡単なプログラムすらでき上がらないでしょう。なのに、この素晴らしい愛と秩序に満ちた複雑で多様性に満ちた美しい世界が存在しているのです。
私たち人間の心も体も霊も、その神秘は自分たちでも解明できていません。自分でも解明できない複雑なプログラムが偶然できあがる確率は、まさにゼロであると言えるでしょう。
このように偏向した説をあたかも定説のように誤誘導する働きは、近代では 19 世紀から様々な分野でさかんに行われています。自由主義神学などもその一つです。「イエズス会」にご注意ください。
Ogachaさん,進化論のところにコメントくださりありがとうございました。とても嬉しく思いました。特に「キーボードをランダムに叩いて,簡単なプログラムすらでき上がらないでしょう」というところは「本当にそうなんです」と心から同意します。
この2ヶ月ほど近所の発達支援施設に使っていただく業務用アプリケーションプログラムを作っていました。ちょうどその取扱い説明会を開催したところです。私が作ったプログラムは,文字数で21,500文字。これが大文字小文字のアルファベットと主要な記号だけだったとして,使った文字は83種。仮にランダムに,しかも1秒間という短時間でこの83文字を使って21,500回キーボードから打ち込み,1本のプログラムを作ったとします。すると83文字の21,500乗本のプログラムもどきができるわけです。これはおよそ10の41,260乗組みのプログラムということです。これは10の41,260乗秒ぐらいの時間をかければ,一回だけ納品したプログラムができるといったレベルの奇跡です。1文字違っていれば,正常に機能しないプログラムになるでしょう。
ちなみに宇宙の年齢が138億年だとして,これは4.35 x 10の17乗秒のようです。この宇宙の年齢に対して10の41,260乗秒がどれほどとてつもなく長い時間を意味するのか想像できません。両者には1000倍ではなくて,1000桁,言い換えると100億倍の100億倍の100億倍ぐらいの差があります。まさに「キーボードをランダムに叩いて,簡単なプログラムすらでき上がらない」は言い得て妙なことばです。
所詮,私の書いたプログラムなどたいした機能はありません。それに対して神様が与えてくださった私たちの体はどれほど複雑なものか。ですから偶然,アミノ酸から生物が生まれ,淘汰によって微生物,動物,猿,人間になったなどと,平然と人に教える方の良心を私は理解できません。聖書を知れば,もっと謙遜になれると思うのですが。
一方で,放射線応用を長年の生業としてきた私は,宇宙の年齢が138億年と推定できるとか,炭素年代測定によってある生物が生きていた時代を推定できることを知っています。このことが私の信仰を揺さぶるようなこともないのですけれども,聖書の記述,特に天地創造の部分でいう「日」という時間の長さが,現在でいう24時間そのものだと告白することができません。神様がお作りになった生物は,環境に合わせて長い間に変化することも否定はしていないのです。
まったくそうですね。
わからないことだらけですよね。
日も年もわからないですよね。実際に時の流れ自体が速かったのかもしれませんし、地球の自転公転のスピードが違ったのかもしれませんし、別のことを意味しているのかもしれませんね。
信仰の観点から観れば、科学は神の造られた摂理の観察に過ぎず、まったく両立できるものです。
信仰と科学とを対立させるような風潮自体、誤誘導なのだと思います。
そして、この世界を知り切れないように、聖書自体も知り尽くせません。
私たちは、この世界のことも、聖書のことも、知ったかぶりをせず、謙虚に触れていきたいと思います。