Chat006-私はある(エゴー・エイミ)

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救いの日

私が毎週教会(当時はD神父がおられたカトリック教会)へ通うようになったのは17歳の夏の終わりでした。それでも青年たちの交わりに加わるのであって礼拝(ミサ)には出席しませんでした。そのまま3年近くが経過しました。私が信仰告白するまでにはさらに4年。合計で7年もかかりました。信仰告白のきっかけは母教会(福音系のプロテスタント教会)に小田彰牧師(ライトハウス自由が丘チャペル)にお出でいただいた伝道集会でした。

あのときは小田師が持ってこられた弦楽器の音色と師の艶やかな歌声にすっかり心をうばわれました。メッセージでは父なる神様が子なるイエス様をどんなに愛しておられたか,そのイエス様を私たちの身代わりとして十字架で罰することが父なる神様によってどれほどつらいことだったかを語られました。このとき私はもうじたばたするのはやめイエス様を信じようと決心したのです。

私の信仰告白の出来事は笑い話のようなものでした。この伝道集会でとなりに座っていた中高生男子が小田師のメッセージ後の招きに応じて講壇の前へ出ようとしていました。しかし私がじゃまだったのでしょう。彼は私の脇腹を手で押したのです。痛いというかくすぐったいというか,つい私も立ち上がりそのまま前に出て,結果として師と母教会の牧師に救いの祈りをしていただいたのです。

イエスは神なのか

当時の私にとって信仰をもつための最大の壁は,自分にはイエス様が神だと受け入れられないことでした。

出エジプト3:14 神はモーセに,「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ,また,「イスラエルの人々にこう言うがよい。」『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(新共同訳聖書) 
God said to Moses, “I am who I am.”  He said further, “Thus you shall say to the Israelites, ‘I am has sent me to you.’ ” (New Revised Standard Version, Oxford)

イエス様が神であることは聖書の中では繰り返し表現されています。でも生真面目な私にはそれを腹の底から信じることができませんでした。

森山諭牧師(荻窪栄光教会)はご著書の中で,イエス様がおっしゃった「᾽Εγώ εἰμι(エゴー・エイミー)」「わたしである」「わたしはある」という言葉は出エジプトの3:14に照らして,ご自分を「」であると明言されたのだと記しています。

ヨハネ4:25-26 女が言った。「わたしは,キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき,わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは,あなたと話をしているこのわたしである。」(新共同訳聖書)
I that speak unto thee am he (᾽Εγώ εἰμι). ( The English Authorised Version)

ヨハネ8:58 イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から,『わたしはある。』」(新共同訳聖書)
I say unto you, Before Abraham was, I am (ἐγώ εἰμι). ( The English Authorised Version)

ヨハネ18:6 イエスが「わたしである」と言われたとき,彼らは後ずさりして,地に倒れた。(新共同訳聖書)
As soon then as he had said unto them, I am he (ἐγώ εἰμι), they went backward and fell to the ground. ( The English Authorised Version)

上記3つの聖句ではイエス様がご自分を父なる神様と同じだと宣言なさっているのではないでしょうか。そう読めば私にもイエス様が神であると諒解できます。そうでも理解しなければイエスを捕らえに来た人々が後ずさりして地に倒れる(ひれ伏す)理由はないでしょうから。

それにしても「ἐγώ εἰμι(エゴー・エイミ)」は英語にすれば「I am」です。出エジプト3章で神様がモーセに語られた言葉はあまりにもありふれた表現ですが,何と奥の深いことか。

私もいる

隣町にSさんという信仰告白をしたばかりのご老人(Sさん)がいました。私たちの教会の一人の姉妹のお父様でした。この娘さんが熱心にご家族へ伝道していたこともあり,Sさんと教会との関係ができて間もなくのころでした。当時Sさんは重い病気にかかっておられ,私がお見舞いに訪ねて行ったときは床に伏していました。

「こんな病気になってしまって私はもう何も役に立つことができない。何のために生きているんだろう。」とSさんは弱音をもらしていました。

私からは,神様がモーセに「わたしはあるという者だ」とご自分のお名前を伝えたことを話しました。「私たちが信じている神様は「ある」「おられる」という方だそうです。

その神様を私たち受け入れている。そのことを神様はとても喜んでくださいます。同じように,きっと神様はSさんがおられることを喜んでおられます。何ができるかではなくて神様はSさんが生きていることを受け入れておられると思います。私たちも同じです。ただ体をだいじにしてください。」とお話しました。

Sさんは床の中で涙を流していました。あの涙はくやしさとか悲しさとかいう涙ではなかったと思います。

hiroshi

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