新約聖書入門
三浦綾子さんの著作「新約聖書入門」をご存知の方は多いでしょう。私はこの本を何冊買ったか覚えていません。そのすべてを友人や出会った方に差し上げてしまうので,この原稿を書き始めた先日までは手元に一冊も残っていませんでした。それであってもなお教会への新来会者や聖書を読もうとしている友人には三浦さんの言葉,つまり今日のお話の箇所(マタイ1章のみ)をお話しています。
新約聖書入門の中で三浦さんは「この冒頭(マタイ1章)の文をはじめて読まれて,『これはおもしろそうだ』とか,『何とすばらしい書き出しだろう』と最初から思われる方があったら,お便りをいただきたいものである。」また「この系図を一字も飛ばさずに読まれた方は,幾人いることだろう。」と書いておられます。
私が最初に読んだ聖書は,当時の学校の卒業を記念としてカトリック教会のD神父からいただいたものでした。新約聖書(バルバロ訳)でコンパクトなものですが革の装丁のものでした。私は既に親元を離れ何年も学寮生活をしていましたが,あらたに進学することになり,それまでよりさらに遠い地で下宿生活を始めるタイミングでした。新しい土地に引っ越しても当初は友達が少なかったので時間の余裕があって,1ヶ月ぐらいかけてひたすらこの新約聖書と格闘しました。確かに苦笑いしながらマタイ1章の系図を読みました。D神父への敬意と義理を感じていましたので丁寧に読んだはずではあります。そうかと言っても「一字も飛ばさず」ではなかったでしょう。
イエス・キリストの系図(マタイ書,ルカ書,旧約聖書)
洗礼を受けた教会(福音系のプロテスタント教会)に私が通うようになるまでは,格闘の1ヶ月からは3年近く要しました。いずれにしても繰り返し聖書を読んでいるうちにマタイ書にあるイエス様の系図とルカ書の系図,詳しく読めば旧約聖書の歴史書の記述がどうも違うようだと気付きました。そして旧約に遡ってじっくり調べたものがこのサイト「Smallvoice 細き聲」に掲載した「イエスキリストの系図」です。
三浦さんは,マタイ書の系図に記載されている女性,タマル,ラハブ,ルツ,ウリヤの妻(バテシェバ),マリヤに一つの光を当てています。三浦さんのいう「イエスキリストの系図」には,罪のある者,異邦人などユダヤ人が忌み嫌う血筋について記載されており,またそれが罪ある私たち人間の社会とそれを含む長い時代を映していて,そこにこそまさにイエス様がお生まれになった事実が平易に厳かに解説されています。
ユダヤ人にとって問題となるような人々を,マタイはあえて隠さずむしろ強調するように記しています。三浦さんの言葉を借りれば「あえてこうした荒唐無稽ともいうべき事柄を,新約聖書はその第一ページに記しているのである。しかしそのことは,それがあまりにも動かしがたい事実だったからかもしれない。」と記しています。私にもイエス様の系図はそれ自体が聖書の神聖さを現しているような気がしてなりません。
ところで先に書いたように創世記(とそれに続くマタイ1章)では,アルパクシャデ(創世記10:22)の長男シェラフ(創世記10:24)からアブラハム,ダビデ,イエス様へと系図がつながっています。これに対してルカ3章ではアルパクシャデの長男シェラフではなく弟カイナンから系図が続いていることになっています。創世記ではアルパクシャデの孫エベル(創世記10:24),ルカではアルパクシャデの曽孫エベル(ルカ3:45)につながっていますし,いずれの福音書でもアブラハム,ダビデはイエス様の直系の先祖になっています。この食い違いはある意味で大きなことではないのかもしれません。一方マタイ書ではイエス様の祖父はヤコブ。ルカ書では祖父はヘリと記していますから,二つの記述が「わずかな違いだ」とは言えないだろうというのが私の本音です。日本であっても祖父の名前を間違えることは少ないでしょう。まして血統を重んじるユダヤでのことです。
ルカは,マタイの資料を知っている(もしくは少なくともその元資料を知っている)上で福音書を書いたとされています。その意味ではルカが,マタイ書との食い違いをあえて補正もせずに記載したという点で,かえってルカの几帳面さや自ら調べたことをぶれずに記した決意のようなものを感じるのは読み過ぎでしょうか。
聖書は誤りなき神の言葉
「聖書は誤りがない神の言葉」であり「信仰と生活の誤りなき規範」ということに異論はありません。私もそう信じています。同時に聖書の記述自体を細かく追えば,イエス様の系図で分かるようにいくつかの矛盾はあります。
聖書をどう読み理解すべきかについては,記述の幅,ブレ,曖昧さをしっかり捉えて,聖書全体の流れ,表現の広さと深さを味わうべきなのでしょう。残念ながら神学校に通ったこともない一信徒の私にとってそれは容易ではないし,教職の先生方からのご指摘も頂戴しつつ,自己中心的な信仰に陥らないよう自分に言い聞かせています。引き続きこのコーナでは聖句にこだわって証をするつもりなのですが,この聖書の読み方について常に自戒しつつ進めていきます。
hiroshi
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