信仰をもったばかりの兄弟姉妹が,教会のために是非と一生懸命奉仕活動をされる姿には頭が下がります。一方でそんなはじめの時期に教会の誰かに不信を抱いたり,奉仕に対して強い義務感を持ち過ぎて,ある日突然教会に通えなくなるケースを何度となく見てきました。
そういう熱心な兄弟姉妹には,「そんなに力まないで大丈夫。疲れちゃうよ。」と声をかけるようにしています。そして機会をつくってエペソ2章の御言葉や,他にもパウロが語っておられる救いについてお話をしています。
「あなたがたは,恵のゆえに,信仰によって救われたのです。それは,自分自身から出たことではなく,神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9,以下,新改訳聖書二版を引用)
「スタウロス(十字架)」の中でお伝えした記事の続きです。熱心に我が家を訪ねてこられた方と,その方のグループの伝道者(何とお呼びして良いかわからずここでは)に呼ばれて,近所のお宅を訪問したあの日の出来事をもう一つ記すことにします。
行ないによる信仰
この熱心に伝道されるグループからすれば,私たちの教会の信仰は生温く,信仰者としての行ないが見えないのかもしれません。また日々の生活の中で,私たちが神様に祈り,仕えている時間は短いのかもしれません。
一方で,教会で信仰生活を過ごしている多くの兄弟姉妹は,パウロのいう「信じる人はみな義と認められるのです。」(ローマ10:4)を救いの原点と信じているのではないでしょうか。
このグループの用いるテキストには,例えばヤコブの記した御言葉から「行ないのない」キリスト教会を,「信仰がない」「地上の楽園に行けない人々の集団」とみなしているのでしょうか。彼らの信仰の特徴として「行ない」がとても強調されています。
「私たちの父アブラハムは,その子イサクを祭壇にささげたとき,行ないによって義と認められたではありませんか。」(ヤコブ3:21)
「人は行ないによって義と認められるのであって,信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」(ヤコブ2:24)
しばしばヤコブ書の「行ない」を強調して引用するこのグループの信仰について,私はある程度整理していたつもりでした。パウロの記したロマ書や,エペソ書に対する記述と,ヤコブの手紙の記述の関係,その背景などについて,参加したセミナー(講師:ウィリアム・ウッド師)やいくつかの書籍を読んで知っていたからです。
伝道者にお会いしたあの日,彼は「行ないのない」「救われていない」私のために,「行ないの大切さを」聖書から解き明かすつもりだったと思います。推測ですが,彼としては繰り返し私の家を訪問下さった彼の管轄の信者さんを,その場に同席させることによって伝道の訓練をする意味もあったのかもしれません。
伝道者:「 あなたは行ないが,どんなに大切で,それなくては救いがないことをご存知ですか?」
こう言いながら,私の持っている聖書と同じ翻訳の聖書を用意しローマ人への手紙を開きながら彼は「行ない」の大切さを説き始めました。
hiroshi(心の中):「普通はヤコブを,それもこのグループの使っている新世界訳聖書を使って説明するものだろう。どうやってパウロの書簡から行ないによる救いを説明する気なんだろう。」
その場でメモを取れなかった昔のこと,今となっては引用されたロマ書の聖句を正確に記せませんが,およそ次のようなものでした。
伝道者:「パウロは『行ない』の大切さを繰り返し述べています。ローマ人への手紙を一緒に見てください,例えば,
『そのようなことを行えば,~ それを行なっているだけでなく,~ それを行なう者に心から同意しているのです』(ロマ1:32),『それと同じことを行なっている』(ロマ2:1),『そのようなことを行なっている』(ロマ2:2),『その人の行ないに従って報いをお与えになります』(ロマ2:6),『忍耐を持って義を行ない』(ロマ2:7),『善を行なうすべての者の上にあります』(ロマ2:10),『律法の命じる行いが』(2:15),『神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に,行われるのです』(ロマ2:16)。
他にもまだまだあります。
『一つの義の行為によってすべての人が義と認められ』(ロマ5:18),『あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい』(ロマ6:13),『私には善をしたいという願いがいつもあるのに,それを実行することがないからです』(ロマ7:18),『私は,自分でしたいと思う善を行わないで,かえって,したくない悪を行なっています』(ロマ7:19),『遣わされなくては,どうして述べ伝えることができるでしょう ~ 良いことの知らせを伝える足はなんとりっぱでしょう』(ロマ10:15),『キリストは,ことばと行ないにより』(ロマ15:18),『キリストの福音をくまなく伝えました』(ロマ15:19)
と書いてあります。このように聖書は,信仰と救いは行ないに基づいていると説明しています。そのことをご理解いただけますか?」
ここで私は放心状態にも近い,頭が真っ白な状態におちいりました。パウロは信仰による義を説いた使徒ですし,ここでひとつひとつに反論するには例示された聖句が多すぎます。にわかにはどうして良いかわからずにいました。
そのとき,私の聖書に赤鉛筆で線が引いてある次の聖句が目に止まりました。
hiroshi:「ここを一緒に見ていただけませんか?」と伝えて,私がぼそぼそ読みました。
hiroshi:「『もし恵みによるのであれば,もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら,恵みが恵みでなくなります』(ロマ11:6)」
ここで,しばし沈黙があって,
伝道者:「あなた(hiroshi)は面白い人ですね。」
また間があって
伝道者:「今日はここまでにしましょう」
この日を最後に,このグループの方は,私の家を訪問しなくなりました。
救いを知らせる難しさ
聖書を読むことの難しさ,またそれ以上に救いを知らせることの難しさを痛感しました。議論しても,どうにもならない壁があります。自分自身でしっかり聖書を学びたいと思った一つの機会でした。
hiroshi
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