こだわりの理由
私が聖書をこだわって学んだ理由を短く言えば次のようなものです。
(1) 私自身の信じているものは本当に信じるに値するものなのか納得したかった
(2) イエス様に救っていただいた恵みを,大切な家族や友人にきちんと伝えたかった
(3) キリスト教とはいいにくい方々からの不思議な指摘に抗しつつ伝道もしたかった
私の場合,特に(3)については,同僚について起きてしまった問題や,しばしば訪問を受ける方々,元同僚に騙されて連れて行かれたアパートの一室での事件など,必要にかられて止むを得ず学ぶにいたったという背景もあります。(1),(2)も含めてこのコーナで少しずつそのことをお話したいと思います。
聖書にこだわるといっても,知識も経験も浅かった当時はまだ,「聖書は聖書から学ぶ」というスタイルには達しておらず,神田の古本屋をあさったり,乳飲み子をかかえて国会図書館に行ったりし聖書以外の書籍を調べることもしばしばありました。子供は国会図書館の中に入れないので夫婦交代で子供をあやしつつ,一人が図書館に入って書籍を調べたものです。
最初の一つのテーマが「十字架」でした。熱心に家を訪ねてこられる方がおられて,「イエスは『十字架』にかかったというのは偽りであって『棒っ杭』にかけられたのだ」というものでした。
「はぁっ?」というため息にも似た嘆きが口から出てしまいます。でも訪ねてくださった彼はそれを信じているのです。無意味な議論は極力避けたいと思いつつも,最小限のやりとりでこれに分かりやすい決着をつけたいと思いました。彼とは再会を約束して一旦お帰りいただきました。ここからこだわりの学びが始まりました。
十字架について
当時の皆川師から頂戴した手書きのメモが,今でも私の書棚に残っています。その内容は次のようなものです。
「十字架と訳されたギリシャ語は,σταυρός(スタウロス)で,新約には28回出てくる。動詞形でσταυρόω(スタウロー)として46回用いられる。スタウロスは新約では十字架形にのみ用いられる言葉で,その他の用例はみあたらない。しかし『杭』と訳す事は可能である。(スタウロスを十字架形以外,例えば天幕の杭といった用い方はできない。)当時,十字架に処せられる者は十字架の横木を自分で背負って行く事が定められていた。十字架の縦木はあらかじめ刑場に運ばれているのが常であった。この為イエスも一本の杭を背にゴルゴダに向かわれ,そこで縦木と横木が十字架形に組み合わされた。(以下略)」
「聖書から論じる」という彼ら(訪問くださる方のグループ)の書物には,イエスは『十字架』ではなく『杭』につけられたことの根拠として,多くの文献が挙げられていました。このうち3例ほど示せば次のようなものです。
(1) 希英辞典,リデルとスコット共編,Oxford
(2) ブリタニカ百科事典,Encyclopædia Britannica
(3) デー・クルケ・リブリー・トレース(De cruce libritres),ユストゥス・リプシウス
英国のオックスフォードが,有名なブリタニカ百科事典が,そしてユダヤの歴史学者がイエスは「十字架」ではなくて「杭」にかかったと書いているんだと,そのときは少なからず動揺したものです。
笑い話のようなことですけれど,当時「希英辞典」という言葉の意味が,ギリシャ語-英語辞典であることさえ私は知りませんでした。東京の神田のすずらん商店街で何とか探そうと,これ以上のあてもなくただ一軒の古本屋に入りました。「神様,これから希英辞典なるものを探したいと思います。御心であれば与えてください。」と目をつむって短く祈り,さぁ何時間かけてでも探してみせると自分に言い聞かせたのです。目を開けてみると目の前,真っ直ぐ前,やや下の段,私の目から50cmぐらいのところに,手書きの帯と一冊の古本が見えました。何とそれには「リデルとスコット希英辞典」と書いてあるではないですか。
「GREEK-ENGLISH LEXICON, Oxfordって,背表紙そのまま読んでも私は理解できず,きっと希英辞典は見つからなかったなぁ。主に感謝します。」とつぶやきつつ早速これを購入しました。
この希英辞典には,σταυρός: an upright pale, stake or pole; in plur. a palisade. II. the Cross. と記載されています。
まず「杭」と訳されていますが,定冠詞を明確に付けて,「イエスのあの十字架 the Cross」と書いてあるじゃないですか。編者はイエスは十字架にかかったと記載しています。それなのにこの第一義のみを拾って,イエスは『十字架』ではなく『杭』にかかったのだと主張することは,その意図の背景に特異なものを感じます。「聖書から論じる」の著者,編者は,その読者がわざわざ引用文献を調べるはずがないとでも考えていたんでしょうか。
希英辞典の次に国会図書館で確認したブリタニカ百科事典(英語版)など,私たち夫婦が原文にたどり着いた文献には全てにおいて,イエスは「十字架」にかかったと書いてありました。絵まで添えてあるものもありました。
「聖書から論じる」が,「十字架」ではなく,あくまでも「杭」だと主張するのはなぜなのでしょうか。私の信じるイエス様は,私の罪をお赦しになるために十字架におかかりになりました。この救いそのものを人々から遠ざけ,イエスキリストを信じられないようにする意図を「聖書から論じる」に感じてしまいました。
改めて呼び出されて
後日,私の家を訪ねて下さっていた方の教区の伝道者のような方に,呼び出されて,近所のあるお宅に伺いました。その日,この伝道者も「杭」を強く主張され,上記の「デー・クルケ・リブリー・トレース」に記載されている棒っ杭にはりつけられた人の絵を私に示しました。この書籍は参考書で知っていたので,私が「その本のその絵の別のページをご覧になりますか?(横木のある)十字架にかけられた人の絵が掲載されているのですが」と,私の手元に用意してあったコピーをテーブルに広げようとしたとき,彼は私の手をいきなり遮り,とうとう十字架の絵を開かせてくれませんでした。
当時,皆川師が私に下さったもうひとつのメモには,「ヨハネ20:25 から「τὸν τὐπον τῶν ἤλων」『τὸν τὐπον 冠詞(単数)+複数名詞, τῶν ἤλων 冠詞(複数)+複数名詞』,『the mark of the nails』」と記されています。
「しかしトマスは彼らに『私は,その手に釘の痕を見,私の指を釘のところに差し入れ,また私の手をそのわきに差し入れてみなければ,決して信じません。』と言った。」 ヨハネ20:25から,新改訳聖書第二版
「釘」が複数形で書かれている以上,「聖書から論じる」などに記載されているような1本の釘でイエス様が棒杭に,両手をはりつけにされたはずがないのです。
一方で,横木があろうがなかろうが,私はイエス様が「σταυρός スタウロス」におかかりになったことで罪赦され,救われ,ずっと祝福されて来たと告白できます。
これらは「聖書は聖書から学ぶ」大切さを腹の底から感じたきっかけとなりました。
hiroshi
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