Chat009-なじむ

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私の育った環境はとくに信仰的な背景のない普通の家庭でした。私自身も宗教に深い関心はなく、たまたま、家の前で教会に通っていた同級生のA君に教会学校に誘われて、ついていったのが始まりです。その日曜日は4月1日で、「エイプリルフールの出来事」くらいの意識だったのです。あとで分かりましたが、その日はイースターでした。私が中学2年に進級する春のことです。その教会は、外観からして、とても「教会」とは言い難く、玄関は雨漏りで天井に大きなしみがあり、二間の和室を一つにして椅子をならべただけのみすぼらしい民家でした。教会らしさは全くありませんでしたが、毎週の教会学校に通い、教会になじむのにさして時間もかからず、私は教会に自分の居場所を見つけることができたのです。

このことは考えてみれば不思議なことです。ですが、この「なじむ」という信仰のあり方は、教会学校から信仰に進んだ人の特徴かもしれません。さらに言えば、日本人は古来から、この「なじむ」というかたちで、日本の伝統とは全く異質な信仰や文化を受け入れてきたのではないかと私は考えています。スペインやポルトガルから宣教師が日本にキリスト教を伝えたときも、民衆の多くは、いち早く、この新しい信仰になじんだのではないでしょうか。「なじむ」は、異質なものと正面から衝突することをしません。「それはそれとして受け入れる」という方法です。

日本人の精神的な世界には、個人の意思にかかわらず、長い歴史の中でなじんできた「神」が柱として存在し、それが日本人という精神的世界を形成しているのでしょう。当然、私の中にも、個人の信仰告白など必要としない形で、自明のものとして「神」なるものがあるわけです。私が教会に「なじむ」ことができたのは、すでに「神」なるものが私の意志とはかかわりなくあり、神を説く教会になじむのに何の問題も感じなかったからです。ものごとを問うことをせずに、自明のものとして受容する精神的構造は、実に柔軟に教会の環境になじんだのです。私は当然のように信じ、お祈りもするようになりました。私のお祈りも告白も、はじめから不自然なところのないものだったのです。

私の信仰は、対決から生まれたのではなく、なじむかたちで形成されていきました。しかし、私はいくつかの経験を通して、聖書が強烈に「私」という存在を問うことに気づくようになっていきます。

復活のイエスはガリラヤでペテロにあらわれ、ペテロがどのような死に方(殉教)をするかを示され、「私に従いなさい」と言われました。するとペテロはヨハネを見てイエスに「主よ、この人はどうですか」と問います。イエスはペテロをご覧になって「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい」と言われます。(ヨハネ21:19~22) ペテロには、この時、十二人の弟子団のことが頭にあったのかもしれません。しかし、主イエスは「あなたは」と、個人としてのペテロを名指しされます。ヨハネはヨハネとして、ペテロはペテロとして主イエスにお従いすべきでした。

ペテロに語られた主の御言葉から、私は自分の内にあるものについて、そのひとつひとつに神の御言葉の光を当て、疑いなく信じたことについて、何故、自分は信じることができるのか、私が教会で信じて告白したものは何かを問い直すことになったのです。「私」の内に生きているものが何なのかが問題なのです。ここから、私は長い時間をかけて「私」というものを追求することになりました。(このプロセスについては、長い話になりますので、おいおい書かせていただきます)

私は「なじむ」という日本的な精神構造を悪しきものとは考えていません。それは抜くことのできない柱として深く私に突き刺ささっており、しかも、それは、「私」というものを支える力とも言えると思えるからです。これは抜き去るべきものでもなく、抜き去れるものでもない、むしろ、なくてはならない大切なものなのだと考えています。日本人の魂からこの柱を抜こうとする試みはことごとく失敗するでしょう。それは善でも悪でもなく、まぎれもなく存在するのです。問題は「なじむ」の方向ではないかと私は考えています。

聖書は実に厳しく、徹底的に「私」を問題にします。「私」の存在なくして信仰はありません。しかし、この厳しい神と私の対決に、私を向かわせるのは、生きとし生きた日本人の心が見つめつづけ「なじんだ」あの有無をいわせずに私を従わせる力でもあり、それは聖書との避けがたい対決を生み出すのです。内にあって、私を促してやまないもの、それが神の恵みとして働くとき、はじめて私は自己を損なうことなく聖書の深みへと入っていけるのではないかと私は考えてきました。

信仰の経験は一つではありません。私が経験してきたのはその一つにすぎません。このように悩み、このように信じたことをありのままに書き記してみようと考えて、しばらく続けてみたいと思っています。

皆川誠

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