Chat007-礼拝する(プロスクユネオー)

キーワードを入力
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
カテゴリーで絞込み
チャットルーム
ノート
ヨハネによる福音書
ルカによる福音書
俳句短歌
創世記
履歴
系図
聖書の食べ物
聖書引照
黙示録

イエスは神なのか – 礼拝する

信仰を持って間のなく,「本当にイエス様はあの天と地とを創造なさった神様なのか」「私はそれを本当に信じているか」は,自分にとってとても大きなチャレンジになっていました。お腹の底からイエス様を信じたいけれども,本当に納得しているのか信仰を見つめるということでした。

ところで,つい昨年のはじめごろまで米国に出かける機会は多くありました。滞在期間が日曜にかかれば現地で教会を探してあて礼拝を守ることが習慣になっていました。そんなとき「礼拝する」は英語に訳すとSunday Serviceなんだよななどと,いまひとつしっくり来ないと感じていました。「私が神様に仕える日? Worshipの方がずっと受け入れやすいなぁ」 結局,思いはWorshipだけれど会話の中ではServiceと呼んでいました。

新約聖書で礼拝,Wordshipをギリシャ語で読むと,προσκυνέω プロスクユネオーとなっています。これはどういう意味なのだろうというのが私にとって一つのテーマでした。

皆川師のマタイ伝の解説によれば,

「προσκυνέω  プロスクゆネオー  proskuneō {pros-koo-neh‘-o} (vppanf-s 分詞・現能主女単)< πρός ~に + κυνέω  接吻する,1)平伏して敬意を表す、ひざまずく、拝する、恭しく挨拶する、尊崇の意をあらわす、敬礼する、2)拝する、礼拝する」

となっています。

この礼拝する(プロスクユネオー)が新約聖書でどう使われているのか,興味本位で調べたことがありました。誰が,誰を,プロスクユネオーして,それがどういう状況だったのかという見方です。

父なる神が礼拝を受ける

「父なる神」が礼拝を受ける,プロスキユネオーされた箇所は,18箇所見つかりました。

マタイ伝は4:10他で2箇所,ヨハネ伝は4:20他で10箇所,黙示録が11:16他6箇所でした。誰が礼拝したかを見ると,イエスが9箇所,サマリヤの女が2箇所,人々が3箇所,24人の長老が1箇所,四つの生き物が1箇所,天使が2箇所です。

口語訳では,礼拝する,拝む,拝するなどと訳しています。

イエスが礼拝を受ける

「イエス」が礼拝を受ける,プロスキユネオーされる箇所は,11箇所ありました。

マタイ伝で2:8他7箇所,マルコ伝5:6他2箇所,ヨハネ9:38で1箇所,ヘブル書で1:6の1箇所です。

同じく口語訳では,拝む,ひれ伏す,拝するなどと訳されています。

ここにイエス様を礼拝すると訳してさえあれば,「父なる神」と「イエス」は神様だと受け取りやすいのに残念だと,当時は思いました。イエス様が人として地上におられたので,日本語的には生きているイエス様を目の前で「礼拝する」と翻訳するのには無理があるのかもしれません。

それ以外の者が礼拝を受ける

私の信仰の確信のためには,プロスキユネオーされるのは神様だけなのかという裏を取る必要もありました。

「父なる神」と「イエス」以外にプロスキユネオーを受けた人が新約聖書にないかを調べてみるとルカ伝4:7,使徒10:25,黙示録9:20他で5箇所,合計7箇所ありました。

主語はイエス,コルネリオ,人々,ヨハネです。

礼拝を受けたのは,悪魔,ペテロ,偶像,獣,獣の像,天使です。

いずれも礼拝としては否定的な意味で使われています。悪魔に対してはもちろんイエスが否定的に答えています。ペテロは「私もただの人間です」と拒んでいます。偶像,獣は言うに及ばず。天使はペテロと同じようにこれを拒否しています。

こうやって新約聖書を読むと,礼拝を受けることが許されているのは,「父なる神」と「イエス」であってそれ以外は礼拝の対象ではないと納得しました。

こうしてようやく「イエスは神なのだ」とお腹の底に落ちたと感じた出来事でした。

hiroshi

コメント

  1. Ogacha より:

    「礼拝する」と訳されそうな語についての、これは現時点での私の解釈です。日本語のニュアンスです。

    1. προσκυνῶ …… 崇拝する、ひれ伏す
    2. λατρεύω …… お仕えする、
    3. λειτουργῶ …… 礼拝をする、(祭司などが)おつとめをする

    言語ごとに単語が持つニュアンス、範疇が異なるので、完全一致はしませんが、およそのイメージです。
    1 は個人的に崇拝、崇敬をする様子です。だから、教会での礼拝などの儀式のことを指しません。
    2 は元々、雇われて働くことを意味しました。しかし、七十人訳では常に、民や祭司が宗教行為を行うときに使われます。神の民、僕としてお仕えすることを指します。
    3 は元々、祭司とレビ人の役職のつとめを果たすことを意味しました。基督教会では、歴史的にこの語を使用してきました。英語では liturgy です。

    英語の service は 2 と 3 とに当てはまると思います。そして、Worship は 1 と 2 かと思います。

  2. 皆川誠 より:

    Ogachiさん
    聖書で「礼拝」を意味するギリシャ語はとても多く、そこから英語のWorshipとServiceに関して適切なご説明をありがとうございます。聖書のギリシャ語を愛する方と学びあうことの幸せを感じています。感謝とともに。皆川

    • Ogacha より:

      ご返信ありがとうございます。こちらも幸せを感じております。
      ギリシャ語コンコルダンスがネット上やアプリで使えるなど、本当に便利な時代となりました。
      これによって、単語が使われている箇所が簡単に参照できるようになり、用法などがより正確に理解できるようになりました。
      ギリシャ語ということについて一つお話を書かせていただきます。

      ちょうど 30 年前、ギリシャに行ったときに、ギリシャ人に言われました。
      「主いえす様はこのギリシャには来られていません。でも、人間に伝えられたその福音はギリシャ語で書かれ、教会はギリシャ語世界で生まれたのです。私たちはその受けた信仰をずっと伝え続け、今に至ります。ここに基督教の原点があるのです。このギリシャにいる間に、それを存分に感じ取ってください。あなたは基督者、だからここにあなたの信仰の原点があるのです。」
      私はそれ以来、信仰の、そして教会の継承、連続性というものを強く意識するようになりました。ギリシャ語は聖書原典を読む原点です。

      旧約も、基督教会ではマソラではなく七十人訳を用いてきた連続性が重要だと思っています。現に新約の引用個所は七十人訳との一致があります。そして、新約聖書は、19 世紀ごろに学者によって作成されたヒューマニスティックかつリベラルな聖書批評学による改訂本ではなく、基督教会が生で伝えてきたビザンチン テキストのギリシャ語を、活きた福音として読むことの重要性を感じています。
      お交わりに感謝†

  3. 皆川誠 より:

    Ogachaさん
    こうして聖書のギリシャ語についてお話のできることは感謝の他ありません。貴重なお考えを知ることのできることも嬉しいことです。
    聖書に関して私の願いは「本当の日本語で聖書を読みたい」にあります。使徒2章のペンテコステの日に、「パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者、ローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人、アラビヤ人」がいましたが、「それぞれ、生れ故郷の国語」で福音を聞きました。もし、そこに何らかの事情で「日本人がひとり」いたとすれば、日本語で神のことばを聞くことができたはずです。「本当の日本語で」というのは、「もし、自分がペンテコステの日に、そこにいたら聞けたであろう日本語で」という意味です。私は英語で聖書を学ぶ機会がありましたが、どれほど読んでも、アメリカ人ならざる私には「本当の日本語で読む」ことに程遠いものでした。では、アメリカ人であればどうかと問えば、おそらくアメリカ人もギリシャ語の聖書のために英語を学ぶ必要があるでしょう。つまり、すべての人は「自身のことば」で神のことばを聞き、理解するために、それにみあう、ことばの豊かさを見出す必要があるということです。
    その意味で私は聖書を翻訳する働きに心からの敬意をもち、可能な限りの言語に訳された聖書を開いて、そこから聖書のギリシャ語の意味するところを学ぶことを常としてきました。Obachaさんのいわれるように、今は、ネットからギリシャ語本文を読めますし、優れたコンコルダンスを利用することもできます。クリスチャンが個人で聖書本文を学ぶことも不可能ではない時代を迎えたわけです。しかし、Obachaさんのいわれる「継承と連続性」が「私」のうちにあるかといえば、そうではなく、これは、そのために、一人一人のクリスチャンに主が個別に与えられるテーマなのだと思います。つまり、「継承と連続性」は個のなかに始まり、個へと伝わりながら、個を完成していくのではないかと思います。それには、ギリシャ語からラテン語、ラテン語から英語(ヨーロッパ言語)への流れとともに、日本語とその源流を見出す必要があります。これは、到底、一個人にできることではなく、互いの共同があっての業と考えるところです。ギリシャ語の語句の意味とその位置づけ、歴史的な意味の流れなど、英語ではかなりの研究がなされていますが、日本では英語で書かれたものを読むという段階にとどまっているのが実情で、そのことが私も含め日本人の信仰の貧しさにつながっているようにも感じるところです。
    長くなりましたので、聖書本文批評について、Obachaさんの興味深いご指摘については稿を改めさせていただきます。皆川

  4. 皆川誠 より:

    Ogachaさん
    ギリシャ語聖書のテキストについて、Ogachaさんからのご指摘は、細き聲の聖書研究への励ましのお言葉と感謝しています。30年前のギリシャでのビザンチンテキストに関わる意味深い出会いから、ビザンチンテキストを「活きた福音として読む」こと、LXXに学ぶことの重要性をお伝えいただきました。
    私は、オリジナル・テキストが失われてしまった以上、出来る限りの異なるテキストに触れ、そこから訳出される夥しい数の聖書を、可能な限り読むことから聖書研究をしてまいりました。しかし、そこには、その聖書の底本となるテキストからくる、深刻な問題が存在し、時にそれは信仰を激しく揺さぶります。それでも、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして」、「聖書を熟読すること」そして「読む聖書を正しく調べること」を続けたいと思っています。そのためにも、古代ギリシャ語とそれによる聖書の学びが欠かせなません。とはいえ、私のギリシャ語の学びは貧しい限りです。間違った理解や、御助言などいただければ本当に幸せです。Ogachaさんのお働きに主の祝福をお祈りいたします。皆川