あつもの

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イサクの長子エサウは狩りに疲れ飢えて帰宅したとき、弟ヤコブが「あつもの」料理をしているのを見て、「見てくれ、死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言って一椀のあつものと長子の権利を交換してしまいます。(創世25:29~34)

「あつもの」の漢字「羹」は「羔」+「美」で、「羔」は「まる煮した子羊」、「美」は「美味しい」の意味です。「美しい羔」とは「柔らかく美味しそうな羔」なのですね。

「あつもの」は「熱物」のことで羔の肉と野菜などを入れて煮る吸物です。

ヤコブのあつもの

ヤコブが料理した「あつもの」は「羔の肉とレンズ豆で作った煮物」(創世25:34)で、エソウは「その赤いのを」と指さしています。

「レンズ豆」(学名: Lens culinaris 和名 ヒラマメ 扁豆)はその形が凸レンズに似ていることからこの名前がつけられたと思うところですが、むしろカメラの「レンズ」の語源が「レンズ豆」なのだそうです。

「レンズ豆」は黄色のものが普通です。しかし、エソウが「その赤いのを」といったところから、ヤコブが使ったのはエジプト産の「赤エジプトレンズ豆 red Egyptian lentil」であったことがわかります。エジプト産の「赤エジプトレンズ豆」はレンズ豆の中で最も美味とされる高級豆で、紀元前2000年頃のエジプト墳墓に「赤エジプトレンズ豆」が副葬品として納められ、「ファラオの食材」として発掘されています。

ヤコブはエジプトから運ばれた貴重で高価な輸入豆をふんだんに使って羔の「あつもの」を作り、パンを添えたのです。それは空腹とはいえエサウが何に換えても惜しくないと思うほどの「美味な料理」でした。

ヤコブの「あつもの」には愚かなエソウの行為を重ねてしまうところがあって、「貴重なものと交換してまで食べたい美味」に警戒する気持ちにもなります。しかし、聖書は決して、「贅沢な料理」を避けるように勧めているのではありません。清貧に生きることにこだわって「美味しい食物」を避けるのは「羹に懲りてなますを吹く」のたとえになってしまいます。

むしろ、「あつもの」は神への供え物」にもされる神なる料理でした。

イスラエル人がミデヤン人の軍隊と対峙したとき、神はギデオンを遣わされます。ギデオンはその「しるし」を求めて山羊の子を料理し、パンを添えて神にささげます。さらに供物には「鍋に入れた吸い物」が加えられました。すると主の使いがギデオンに「肉とパンを岩の上に置き、それに吸い物を注げ」と命じたのでギデオンがその通りにすると主の使いの杖が触れ、肉とパンは火で焼き尽くされたのです。(士師6:11~21)

「あつもの」は神への捧げものにも用いられる聖なる料理でした。

しかし、預言者イザヤは「あつもの」が偶像崇拝の儀式にも用いられたことを指摘して、それを「汚れた肉の吸い物」と呼びます。(イザヤ65:4) 「汚れた肉」は律法が汚れとした豚肉を用いた「あつもの」で、異教の神々への捧げものを意味します。イスラエルの民はギデオンの「あつもの」に「汚れた肉」を入れて神に捧げたのです。それは神の民の偶像崇拝でした。

旧約聖書の時代からその成就としての新約聖書の時代にいたり、私たちは食物について律法のあらゆる制約から解かれました。いかなる食材も人を「汚れ」とすることはありません。

一椀の「あつもの」に神の御恩寵をあますところなく味わうことは何よりも深い恵みです。

すべてのことは「神の栄光を現わすために」与えられているのです。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」 Ⅰコリント10:31  新改訳聖書

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