目録
A. 聖書
B. ギリシャ語研究
Ⅰ οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν, この人はあかしのためにきた。
(1) οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν,の文法構造と意味
(2) οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν,の用法
Ⅱ ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός, 光についてあかしをし、 光についてあかしをし、
(1) ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός,の文法構造と意味
(2) ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός,の用法
Ⅲ ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ. 光についてあかしをし、 光についてあかしをし、
(1) ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ.の文法構造と意味
(2) ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ.の用法
C. 神学的小論
神学的小論① テーマ 「ヨハネの証し」
神学的小論② テーマ 「すべての人が信じるため」
G.ギリシャ語からのShort message
A. 聖書
ギリシャ語聖書
Jn.1:7 οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν, ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός, ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ.
Latin Vulgate
Jn.1:7 Hic venit in testimonium ut testimonium perhiberet de lumine, ut omnes crederent per illum.
明治元訳聖書
Jn.1:7 その來りしは證の爲なり即ち光に就て證を作(なし)すべての人をして己に因て信ぜしめんが爲なり
大正文語訳聖書
Jn.1:7 この人は證のために來れり、光に就きて證をなし、また凡ての人の彼によりて信ぜん爲なり。
口語訳聖書
Jn.1:7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
King James Version
Jn.1:7 The same came for a witness, to bear witness of the Light, that all [men] through him might believe.
American Standard Version
Jn.1:7 The same came for witness, that he might bear witness of the light, that all might believe through him.
B. ギリシャ語研究
目録
Ⅰ οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν, この人はあかしのためにきた。
(1) οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν,の文法構造と意味
(2) οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν,の用法
ⅰ) εἰς μαρτυρίαν あかしの為に
ⅱ) 「光(φῶς)」との関係
ⅲ) 「来た(ἦλθεν)」の神学的含意
Ⅱ ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός, 光についてあかしをし、
(1) ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός,の文法構造と意味
(2) ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός,の用法
ⅰ) 「光について」
ⅱ) 「証言」(μαρτυρέω) の法廷的ニュアンス
ⅲ) 「ἵνα」目的節の神学的意義
Ⅲ ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ. 彼によってすべての人が信じるためである。
(1) ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ.の文法構造と意味
(2) ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ.の用法
ⅰ) 「神 の目的」(ἵνα)
ⅱ) 「普遍的救い」(πάντεςすべての人)
ⅲ) 「信仰の本質と目的」(πιστεύσωσιν)
ⅳ) 「信仰の媒介としての光」(δι᾽ αὐτοῦ 彼を通して)
ヨハネ1:7
οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν, ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός, ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ.
この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
Ⅰ οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν, この人はあかしのためにきた。
(1) οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν,の文法構造と意味
οὖτος (houtos) G3778 指示代名詞(主格・単数・男性)文頭強調「この人(ヨハネ)」。直訳で「この者」。前節で言及されたバプテスマのヨハネを指す。ヨハネによる福音書では、οὖτος は、しばしば「指示+強調」の働きを持ち、「この人物こそまさに…」というニュアンスを帯びる。バプテスマのヨハネの役割の特殊性を示し、他の預言者と明確に区別する効果がある。
ἦλθεν (ēlthen) G2074 動詞(アオリスト・能動・直説法・3単)、過去の単一行為「来た」。「彼が来た」という事実を簡潔に述べる。アオリストは「完了した一回的行為」を示すが、ヨハネ文書では、しばしば神的使命を帯びた到来を表す語彙として使われ、バプテスマのヨハネの到来が「神の計画の中の到来」として描かれる。
εἰς (eis) G1519 前置詞目的・方向「〜のために」「〜へ」。εἰς は方向だけでなく、ヨハネ文書では、しばしば目的(purpose)を表す。
μαρτυρίαν (martyrian) G3141 名詞(対格・単数・女性)、εἰςの目的語「証し、証言」。
ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν 前置詞 εἰς に支配され、「証しのために」という目的を表す。「証しをする目的のために来た」。
全体の構造
「οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν」は「この者が証しのために来た」という意味になる。この句は、バプテスマのヨハネの使命と目的を要約している。
(2) οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν,の用法
ⅰ) εἰς μαρτυρίαν あかしの為に
εἰς μαρτυρίαν は、ヨハネの存在目的を「証し」に限定する。彼は光ではない(1:8)、道を整える者であり(1:23)、花婿ではなく花婿の友(3:29)である。ギリシャ語の構造は、ヨハネの役割をキリストの光の証人として位置づける。
「証しμαρτυρία」は ヨハネ福音書の神学的キーワードであり、神の真理を指し示す行為を意味する。バプテスマのヨハネの証し(1:7, 8, 15, 19)、父・子・業・聖書の証し(5:31-39)、十字架の証し(19:35)など、重層な「証し」の全体から理解する必要がある。バプテスマのヨハネの「証しαρτυρία」は神の啓示の連鎖の最初の声として位置づけられる。
ⅱ) 「光(φῶς)」との関係
1:7 「οὐκ ἦν ἐκεῖνος τὸ φῶς 彼は光ではなかった」の目的節は、次の 1:8 と密接に連動する。文脈的に、「光」はヨハネによる福音書でイエス・キリストを象徴する。(ヨハネ1:4-5, 1:9)。光は、神の真理、啓示、生命を指し、人々を闇から救い出す役割を果たす。バプテスマのヨハネは光そのものではなく、光を指し示す者である。ギリシャ語の構造は、「光(キリスト)と証人(ヨハネ)」という神学的二項関係を形成する。
ⅲ) 「来た(ἦλθεν)」の神学的含意
ヨハネによる福音書では「来る(ἔρχομαι / ἦλθεν)」は、しばしばイエスのメシア到来を示す。
例
10:10 「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。ἦλθεν ἵνα ζωὴν ἔχωσιν」
12:47 「わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためであるοὐ γὰρ ἦλθον ἵνα κρίνω τὸν κόσμον ἀλλ᾽ ἵνα σώσω τὸν κόσμον.」
動詞 ἦλθεν(来た)は、アオリスト形を取ることで、バプテスマのヨハネが「一度きりの重要な出来事」としてこの地上に現れたことを示す。これにより、神の救済計画におけるヨハネの役割の重要性が強調される。
Ⅱ ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός, 光についてあかしをし、
(1) ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός,の文法構造と意味
ἵνα (hina) G2443 目的を表す接続詞、「〜するために」や「~するように」と目的または結果を示す接続法と共に使われることが多い。この文脈では「全ての人が信じる」という目的を示す。
μαρτυρήσῃ (martyrēsē) G3140 動詞 μαρτυρέω の アオリスト接続法・能動・三人称単数形。接続法は ἵνα と共に用いられ、目的や意図を示す。主語として機能し、全人類を包括的に指す。
περὶ (peri) G4012 前置詞。「~について」を意味し、属格と共に使用される。
τοῦ φωτός (phōtos) G5457 名詞 φῶς(光)の属格単数形。「光」。
περὶ τοῦ φωτό 前置詞 περὶ(〜について)+属格=「光について」。
(2) ἵνα μαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός,の用法
ⅰ) 「光について」
バプテスマのヨハネは「光」ではなく、「光につてい証しする者」であった。ヨハネによる福音書で「光」は神の本質的自己啓示である。
1:4「καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·命は人の光であった」
1:9「ἦν τὸ φῶς τὸ ἀληθινόνまことの光」
8:12「ἐγώ εἰμι τὸ φῶς τοῦ κόσμου·わたしは世の光である」
したがって「光について証言する」とは、「神の自己啓示(ロゴス)について証言する」との意味である。
ⅱ) 「証言」(μαρτυρέω) の法廷的ニュアンス
μαρτυρέω は法廷用語であり、真理を公的に証言する行為を意味する。
ヨハネによる福音書では「証言μαρτυρέω」は神学的キーワードであり、「バプテスマのヨハネの証言」「イエス自身の証言」「父の証言」「聖霊の証言」「聖書の証言」が重層的に展開される。ここでの μαρτυρήσῃ は、救済史的・法廷的・啓示的証言という三重の意味を帯びる。
ⅲ) 「ἵνα」目的節の神学的意義
ἵνα は単なる目的ではなく、「神の救済意図(divine purpose)」を示す接続詞として機能する。神はヨハネを遣わされた。その目的は、光(ロゴス)について証言させるためである。ヨハネの存在理由は、光そのものではなく、光を指し示すことにある。文脈的に、「ヨハネが証言した目的は全ての人々がイエスを通じて信じることである」ことを強調する。
Ⅲ ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ. 彼によってすべての人が信じるためである。
(1) ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ.の文法構造と意味
ἵνα (hina) G2443 接続詞、目的節を導き「〜するために」。
πάντες(pantes) G3956 形容詞(名詞的用法)主語(複数)、「すべての人が」。
πιστεύσωσιν (pisteusōsin) G4100 動詞(aorist subjunctive, 3pl)目的節の述語、「信じるようになる」。ヨハネによる福音書では「信じる」は、しばしば現在形で継続的信仰を表すが、ここではアオリストで「信仰への到達点」を強調している。
ἵνα πάντες πιστεύσωσιν 「〔民族・階層・宗教的境界を超えて〕すべての人が」「信じることに達成するために」。
δι᾽ (di’) G1223 前置詞(διά)手段・媒介、「〜を通して」。
αὐτοῦ (autou)G846 代名詞(属格)ιάの目的語「彼を」。
δι᾽ αὐτοῦ 「彼を通して」。
(2) ἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ.の用法
ⅰ) 「神の目的」(ἵνα)
信仰の対象は、バプテスマのヨハネはという偉大な個人に向かうものではなく、「すべての人」が「ロゴス」に向かうことにある。それ以外に向かわせる信仰は神からのものではない。
ⅱ) 「普遍的救い」(πάντεςすべての人)
ヨハネによる福音書は、神の救いの意図が〔民族・階層・宗教的境界を超えて〕全人類に向けられていることを明示する。「πάντας ἑλκύσω πρὸς ἐμαυτόν.すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。(ヨハネ12:32)
ⅲ) 「信仰の本質と目的」(πιστεύσωσιν)
信仰(πίστις)は単なる知的同意ではなく、人格的な応答を伴うものである。信仰の本質と目的は、あくまでも神と人との関係の中に置かれるものである。
ⅳ) 「信仰の媒介としての光」(δι᾽ αὐτοῦ 彼を通して)
信仰の主体は「光(ロゴス)」である。「光」は神の自己啓示そのものを表す。したがって信仰とは、光を通して神の自己啓示に応答する行為である。
C. 神学的小論
目録
神学的小論① テーマ 「ヨハネの証し」
神学的小論② テーマ 「すべての人が信じるため」
神学的小論①
テーマ 「ヨハネの証し」
序
「οὖτος ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν, この人はあかしのためにきた」。(ヨハネ1:7)
バプテスマのヨハネは「証しのために」神から派遣された。「証しμαρτυρία」は法廷における証言、立証を意味する。バプテスマのヨハネは人を照らす神の光について、証拠をもって立証し、証言するために来たのである。しかし、ヨハネの「証し」は、すべてを知ったうえでのものではなかった。ヨハネ自身がメシアについて「証し」を求めるかたちで始まり、その目で見たことを「証し」したのである。
Ⅰ 「わたしは知らない」
ユダヤ人が、エルサレムから祭司やレビ人をヨハネのもとにつかわして、「あなたはどなたですか」と問わせたが、ヨハネは「わたしはキリストではない」と告白し、「あなたはエリヤですか」には「いや、そうではない」と言い、「では、あの預言者ですか」にも「いいえ」と答えた。「あなた自身をだれだと考えるのですか」に「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」と証しした。(ヨハネ1:19-23)
バプテスマのヨハネは、イエスがヨハネからバプテスマを受け「御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見る」までは、メシアについて「私は知らなかった」と二度証言している。(ヨハネ1: 31,33) ヨハネを照らした「光」が明らかにしたのは、「メシアについて私は知らない」という事実であった。ヨハネが法廷に立つ証言者のごとくに、証拠をもって立証しなければならない「証しμαρτυρία」は、まず、このことであった。ヨハネは「光」ではないばかりでなく、「光を知らない」ことを証言する証言者であった。
ヨハネの「知らない」は、知識の欠如や、弱い信仰を意味するものではない。むしろ、希望をあらわすものである。「知らない」は「かつて見たことも、知ったこともないことが起きようとしているが、まだ起きていない」ことを明らかにする言葉である。人は神の前に立つごとに、「私はこれまで知らなかったあなたを、今知りました」と告白する。神の現れは、常に新しく、「それまで見たことも、知ったこともない神」である。反対に「私は知っている」という者は、求めることをしない。その信仰は死んだものである。この「希望としての無知」を照らす「光」は、その事実を告げるだけでなく、「知るべきことを、その都度新たに在らしめる光」である。この「光」の中で、人は「かつて知らないかったイエス」に、常に出会うのである。
Ⅱ 「証言」
バプテスマのヨハネの、もう一つの「証し」は、「神のロゴス、すなわちイエス」が「わたしのあとに来る」(ヨハネ1:15)というものであった。「あとに来る」をあらわす動詞「ἐρχόμενος」は「私の前に(すでに)存在したロゴス」が、」「今、私のすぐ後に来られている!」と告げる証言である。ヨハネは「光」に照らされて、その事実を、確信をもって、立証するのである。
「私がかつて見ることも知ることも出来ないロゴスの光」が「私の今いるところのすぐ後ろに来ている」という二つの確信は、「光」によって同時に起こることである。その「すべての人を照すまことの光」は人の存在以前からあり、同時に「私」を照らす光として「私」の目の前に来られる「光」である。
バプテスマのヨハネの証言は、その声を聞く者の「信仰」を形作るものである。「真の証言」はそれを聴く者を「証言者」としてゆく。その「証言」が導くのは、「これまで見たことも、知ることもない光が、すでに来て「私」の背後に迫っている」という緊張感に満ちたメッセージである。それはどのような状況にあっても裏切られることのない時の到来である。
神学的小論②
テーマ 「すべての人が信じるため」
序
ヨハネは「あかしのためにきた。ἦλθεν εἰς μαρτυρίαν」。彼は「光」ではなく、「光についてあかしをしたμαρτυρήσῃ περὶ τοῦ φωτός」。それは「彼によってすべての人が信じるためであるἵνα πάντες πιστεύσωσιν δι᾽ αὐτοῦ.」。(ヨハネ1:7)
「すべての人πάντες」は一人の例外もなく、バプテスマのヨハネの証しによって、「光」を信じるために、神は「一人の人、バプテスマのヨハネ」を世に派遣された。ヨハネに「証し」として与えられたのは、自分の後から来られる「一人の人」であり、その人は「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける」という「二つのしるし」であった。
Ⅰ 三位一体の神の証し
バプテスマのヨハネは、バプテスマを受けられるイエスに「御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見て」、「このかたこそ神の子であると、あかしをした」。(ヨハネ1:32,34)
しかし、イエスは「人間の証し」を必要とされない。(ヨハネ5:34)と語られている。イエスを証しするのは、神が御子に与えられた「力ある業」であり、父なる神御自身による御子の証しであり、神の御言葉すなわち聖書であり、父のみもとから来る真理の御霊である。(ヨハネ15:26) キリストの証しの源は、父、御子、御霊の三位一体の神御自身である。こららの神の証しが「ヨハネの証言よりもすぐれてイエスを証しするのである。人が神を信じるのは、この三位一体の神からの「光」によるのである。
Ⅱ ヨハネの証し
では、ヨハネの証しはどのような意味をもつのだろうか? それは、三位一体の神による人間の創造の目的と意味から知ることができる。「光」は証人を必要としない。しかし、神は人間を「光」を証しする者とされた。人間は、「光」ではなく、「光」を証しすることによって神の栄光をあらわす存在である。バプテスマのヨハネは「光」ではなく、「光」について証しする器として神から遣わされたのである。しかし、「証言」そのものに「人を救う力」はない。「人が光を信じる」のは「光」のものの働きによるのである。「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。」(ヨハネ6:44)
Ⅲ 二重の派遣
ここに「二重の派遣」がある。「二重の派遣」とは、まずイエス・キリスト御自身が「神からの派遣」であり、さらに、バプテスマのヨハネが、「神から派遣されたイエス」を証しするために「派遣された」ことを指す。創造以前の三位一体の神は、人間を「光」を証しする者として創造された。そして、その「光」は「人の光」として人の世に派遣され、人間はそれを証しする者として派遣されるのである。人間は光を証しする者としてそこにあるばかりでなく、伝える使命と共に派遣されたのである。派遣されたところで、伝えるべき人に「光」を証しするとき、「光」は人から人に神の栄光をあらわす力となる。これが「証し」であり、「宣教」である。
G.ギリシャ語からのShort message
目録
Ⅰ 心のデボーション2135 「よきおとずれ」 ヨハネ1:7
Ⅱ 心のデボーション5358 「あかし」 黙示1:2
Ⅰ 心のデボーション2135
「この人は證のために來れり、光に就きて證をなし、また凡ての人の彼によりて信ぜん爲なり。」 ヨハネ1:7 大正文語訳聖書
「この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。」 口語訳聖書
「よきおとずれ」
「この人」はバプテスマのヨハネである。バプテスマのヨハネが派遣されることによってイエスの宣教は始まる。神の福音が到達する前に、福音の先触れがある。「よきおとずれ」は、到達する前に、すでに始まっている。
Ⅱ 心のデボーション5358
「ヨハネは神の言とイエス・キリストの證とに就きて、その見しところを悉とく證せり。」 黙示1:2 大正文語訳聖書
「ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。」 口語訳聖
「あかし」
「あかし」とは「水と血とをとおってこられた」主イエスがなされ、聖霊によってなされる「御霊と水と血の証し」であり、「神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持ち」、神が「御子について立てられたあかしである」。「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである」。 (Ⅰヨハネ5:1-12 )
関連ギリシャ語
証し
(μαρτυρία「証し」G3142)
(μαρτυρέω「証しする」G3140)
