目録
A. 聖書
B. ギリシャ語研究
Ⅰ οὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.の文法的構造と意味
Ⅱ οὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.の用法
C. 神学的小論
神学的小論① 「ヨハネ1:1-2におけるἦν(未完了過去時制)について」
神学的小論② 「この方(οὗτος)こそ」
神学的小論③ 「意味の源泉(富をめぐって)」
G.ギリシャ語からのShort message
A. 聖書
ギリシャ語訳聖書
Jn.1:2 οὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.
Latin Vulgate
Jn.1:2 Hoc erat in principio apud Deum.
明治元訳聖書
Jn.1:2 この道は太初に神と偕に在き
大正文語訳聖書
Jn.1:2 この言は太初に神とともに在り、
口語訳聖書
Jn.1:2 この言は初めに神と共にあった。
King James Version
Jn.1:2 The same was in the beginning with God.
American Standard Version
Jn.1:2 The same was in the beginning with God.
B. ギリシャ語研究
目録
Ⅰ οὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.の文法的構造と意味
Ⅱ οὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.の用法
(1)「οὖτος(この方)」
(2)「証言者バプテスマのヨハネ」
(3)「οὖτος(この方)と告白する信仰の重要性」
Ⅰ οὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.の文法的構造と意味
ヨハネ1:2 οὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν. この言は初めに神と共にあった。
οὗτος 人称代名詞(男性単数主格)。直前の「λόγος」(ことば、ヨハネ1:1)の内容を指す。「この方」また は「このもの」と訳される。
ἦν 動詞(不完了過去、能動態、3人称単数)。「存在する」という意味の「εἰμί」の不完了過去形で、「存在し続けていた」ことを強調する。ὁ λόγοςが被造物ではなく永遠の存在であることを明示する。
ἐν (エンen)G1722 前置詞与格、「〜において」。位置や手段をあらわし「~の中に、~の時に」の意味を持つ主要な前置詞。文法的には「ἐν + 与格」で「~の時に」と解釈されるため、「初めに」と訳される。
ἀρχῇ (アルケーarchē)G746、女性名詞「ἀρχή」の単数与格、「始め」「起源」。
「ἐν ἀρχῇ」前置詞句。「ἐν」は「~の中に」を意味し、「ἀρχή」は「初め」を意味する。ヨハネ1:1の「ἐν ἀρχῇ」に続き、時の起点である「初め」を指す。
πρὸς (プロスpros {pros}) G4314。 前置詞「〜に向かって」「〜とともに」で、対格(τὸν θεόν)を伴う。一般的にπρὸςは「~へ」「~に向かって」という動きを示すが、この場合は「~とともに」や「~と向き合って」という「親密な交わり」や「向き合う関係」を強調する。
τὸν 冠詞(男性単数対格) ὁ, ἡ, τό (ホ、へー、トho hē to {ho, hay, to})G3588
θεόν 名詞(男性単数主格)、θεός(てオス theos {theh‘-os})G2316 「神、神性、唯一の神」。定冠詞が付いているため、特定の神、聖書の「唯一の神」を意味する。
「πρὸς τὸν θεόν」 τὸν θεόν:(定冠詞+名詞)目的語。定冠詞が付いているため、特定の神、聖書の「唯一の神」を意味する。「πρός」は「~に向かって」「~と共に」の意味を持ち、「τὸν θεόν」は「神」(男性単数対格)を指す。ここでは、神とロゴスの親密な交わりや関係を示唆する。
Ⅱ οὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.の用法
(1) 「οὖτος(この方)」
前節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.」に対して、本節は「この言は初めに神と共にあったοὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.」と言われる。
一読してほぼ同じ内容が繰り返しのように見える。ギリシャ語の用法において、このような繰り返しは、「強調と区別」のためい用いられる。しかし、ヨハネ1:2は単なる1:1の確認と強調ではない。
ヨハネ1:2の重要性は、この節が「οὖτος(この方)」という指示語をもって語られることにある。ヨハネ1:1で時と空間が形づくられる前から神と共におられた「永遠のロゴス」を、ヨハネは「この方」と呼ぶ。
(2) 「証言者バプテスマのヨハネ」
ヨハネは、ヨハネ1:1で述べた「神と共にあり、神であるロゴス」が、今やヨハネの目の前に立ち現れ、「神と共にあって、「存在を創り出す力」であることを知った。ヨハネはどこで、それを知ったのか? 福音書の著者ヨハネは、自分の経験を語るよりも、最初にイエスキリストを「この方こそ」と指差したのがバプテスマのヨハネであったことを告げ、バプテスマのヨハネの証言の重要性に読者を導く。
(3) 「οὖτος(この方)と告白する信仰
ヨハネ1:1から1:2への展開は、福音の理解に対してきわめて重要な信仰的意味をもつ。「創造以前の超越的存在であるロゴス」は、今や人間が「この方」とお呼びし、呼び交わすことのできる位置に神自らが降りてこられた。
福音は神のロゴス(創造的力)が直接的に人の内に宿り、そのいのちを新しくする神の創造的な御業である。
これより、「人と神の関係」は、「我と汝」の内に入る。ヨハネは神と人間の間にある「隔ての壁」を一気に取り除き、「永遠のロゴス」がイエス・キリストであることを信仰的経験として語る。
C. 神学的小論
目録
神学的小論① 「ヨハネ1:1-2におけるἦν(未完了過去時制)について」
神学的小論② 「この方(οὗτος)こそ」
神学的小論③ 「意味の源泉(富をめぐって)」
神学的小論①
テーマ 「ヨハネ1:1-2におけるἦν(未完了過去時制)について」
序
ヨハネ福音書1:1-2には三位一体の神の「あった(存在した)」を意味する動詞にἦν(未完了過去形)が4度用いられている。ギリシャ語の未完了過去形(imperfect)は「過去における継続・存在・状態」を表す時制である。この時制は単なる「過去にそこにあった」ことを示すのではなく、「その時、すでにそこにあり続けた」という継続的存在を示す。ヨハネ福音書1:1-2における「4つのἦνの未完了過去時制の用法」は、それぞれの文節に従いながら、全体として意味を告げる神学的メッセージである。
Ⅰ 「4つのἦν」
ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, 初めに言があった。(ヨハネ1:1)
初めにἐν ἀρχῇ〔神が天と地を創造される以前に〕、ὁ λόγος〔イエス・キリスト〕は、すでに「ὁ λόγος」として、継続的に〔永遠に〕ἦν、存在し続けた。
καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, 言は神と共にあった。(ヨハネ1:1)
天と地が創造される以前に、すでに「ὁ λόγος」として、継続的に〔永遠に〕存在し続けたイエス・キリストは「神と共にπρὸς τὸν θεόν(神と向き合って)」、継続的に〔永遠に〕存在し続けた(ἦν)。
καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος. 言は神であった。(ヨハネ1:1)
創造以前から、すでに「ὁ λόγος」として継続的に〔永遠に〕神と向き合って存在し続けたイエス・キリストは神の属性ではなく、もう一つの神の位格(三位一体の第二の位格)、すなわ「神」であった。
οὖτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν. この言は初めに神と共にあった。(ヨハネ1:2)
「天と地が創造される以前に、すなわち、初めが始まる前から、すでに「ὁ λόγος」として、継続的に〔永遠に〕存在し続けἦν、神と共にπρὸς τὸν θεόν」継続的に〔永遠に〕神と向き合って存在し続ける神のロゴス」は、「すべての人を照すまことの光として世にこられ」、「この方οὖτος」と指差すところに立ち給うた。
Ⅱ ἦνの未完了過去時制
ヨハネは「εἰμί存在する」という「時の前から続く永遠的現在」を、あえてἦν(未完了過去時制)で語ることによって、「ὁ λόγος」の「継続的〔永遠の〕存在」を明らかにし、今やその「ὁ λόγος」が「時」の中に来られ、「この方οὖτος」とお呼びする人格的関係のなかに、その存在を明らかにされるという、驚くべき事実を大胆に告げるのである。
「『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中に〔真ん中に〕あるのだ」。(ルカ17:21)
神学的小論②
テーマ 「この方(οὗτος)こそ」
序
「ヨハネ1:1から1:2へ」
ヨハネ1:1で「ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος. 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と「初めにἐν ἀρχῇ〔神が天と地を創造される以前に〕、継続的に〔永遠に〕神として、神と共に存在し続けたὁ λόγος〔イエス・キリスト〕は、ヨハネ1:2で「οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν. この言は初めに神と共にあった」と告白される。人は如何にしてこの告白に至るのであろうか?
Ⅰ 「この方」
口語訳聖書は「οὗτος」を「この」と訳すが、「οὗτος」は指示代名詞(男性単数主格)で「この方」とも訳される。(新改訳聖書「この方は」、永井直治訳聖書「此の者は」)。ヨハネは創造以前に、すでにロゴスが継続的に(永遠に)神と共にあったというヨハネ1:1の客観的叙述から、「この方οὗτος」こそが、その「初めに神と共に存在した神のロゴスである」とイエス・キリストを指差す。ここには、時空を超えた超越的存在としてのロゴスを、「この方」として、「自己との直接的関係」に指差す信仰の決定的な転換(信仰の跳躍)がある。父、御子、聖霊の三位一体の、永遠の深い関係性」は「この方こそが、そのロゴスである」と指差す瞬間に、神の内に止まらず、「私の出会い得た方(ἐφανερώθη)Ⅰヨハネ3:5」となるのである。
Ⅱ 「聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」
ヨハネが「この方」と指差す「ロゴス」は、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言(ロゴス)」であった。(Ⅰヨハネ1:1)ヨハネの「この方」はヨハネ自身が「耳で聴き」、「目で見」、「つらつら見て手でさわった」、「いのちの言葉(ロゴス)」であった。
Ⅲ 「ロゴスの接近(受肉)によって」
ヨハネは如何にして、超越的存在としてのロゴスを「この方」と指差し、「耳で聴き、目で見、つらつら見て手でさわる信仰の跳躍へと進むことができたのか? ヨハネはこの問いに、「このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである」と答える。(Ⅰヨハネ1:2) すなわち、それはロゴス自らの「現れἐφανερώθη」によるのである。人が神との、この関係に入るのは、「ロゴス自身」の人への接近によるのである。しかし、人間は罪人である。神を遠くに見るしかない人間にロゴスは如何にして接近されるのであろうか?
「ロゴスの神」が「私」との人格的内側にこられるということは、「ロゴスの神」が罪を含めた人間の存在そのものを「耳で聴き、目で見、つらつら見て手でさわられる」ことであり、そこに御自身を現わされるのである。「ロゴスの現れ」は、人を隠しどころなく御覧になった上での「受肉」であった。これにより、人間はその存在そのものにおいて、神を「この方」とお呼びし、自らの存在を通して神を知る者とされたのである。
Ⅳ 「聖霊によって」
ヨハネ1:1の「永遠の存在としての神」からヨハネ1:2の、永遠の神を「耳で聞き、目で見、よく見て手でさわり、「この方」と指差せる信仰への突入は、知的認識によってなるものではない。それは「ロゴスすなわち神の御言葉」による「啓示」と、「あらゆる真理に導く真理の御霊〔聖霊〕」(ヨハネ16:13)によるのである。「聖霊」は、父なる神からロゴス(御言葉)としてあらわされた「この方」を受けて、人に解き明かされ、ロゴスの創造的御業を在らしめる力である。この経験がおこるとき、人の神との関係を決定的に変わる。その時から、人は神の前に立つ一人の人間としてロゴスに生き、確信をもってイエスを「この方」とお呼びする関係に入るのである。すべての信仰は、ここに始まる。
神学的小論③
テーマ 「意味の源泉(富をめぐって)」
序
ヨハネは「福音」の冒頭に、「ὁ λόγος」を置く。主イエス・キリストは「ὁ λόγος」であり、「福音」は「神の御言葉」による「新しいいのちの創造」である。「ὁ λόγος」は存在に意味を告げる神のことばであり、「意味の源泉」である。
Ⅰ 「意味の創造」
主イエス・キリストは「人間とは何か」を問うサタンに「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる」と答えられた。(マタイ4:4) 「神の口から出る一つ一つの言ἐπὶ παντὶ ῥήματι ἐκπορευομένῳ διὰ στόματος θεοῦ.」、「ῥῆμαことば」は「語られることば、出来事、事実」を意味し、「παντὶ」は「πᾶς」の複数形で「どれでも、全部の、あらんかぎりの、1つも欠けが無く、全体の」を意味する。人は、パンの豊かさによって生きるのではなく、神の語られる御言葉(ὁ λόγος)一つ一つのすべてによって、自己に確かな存在と意味を見出すのである。
Ⅱ 「ὁ λόγοςを失う人生」
ルカ12:16-21に、ある「金持ち」の話がある。この「富める人」の畑が倉に納めきれないほどの大豊作であった。そこで彼は倉を壊して、「もっと大きな倉」に立て直し、「長年分の食糧」を貯え、魂に「さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」と言った。
この金持ちは愚か者ではない。「豊作」に奢らず、勤勉に働き、すべての収穫物を貯えた。彼はただ蓄える人ではなく、それを開いて人々と「楽しむ」ことの出来る人であった。しかし、その夜、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか?」という声を聞くのである。(ルカ12:20)
神を失った人の多くは、存在の意味を物質的世界に見出すようになる。ルカの「金持ち」はその成功者である。彼は賢く振舞い、人生は彼を祝福したが、「意味」の欠けた「富」は彼を「愚か者」と呼ぶ。収穫の祝いの夜に「いのち」が取り去られたら、その富はだれのものになるのか?
富を求めることは正しい。思わぬ豊作に倉を建て替える知恵も正しい。しかし、人間は「神の口から出る一つ一つの言」に生きるために「パン」を必要とするのである。「存在の意味」に生きることなしに富を貯える人は、魂のとられるその夜にも、「さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」と言う。
Ⅲ 「富の意味」
一般的に、「富」そのものに意味はないと考えられている。「富」はそれを所有する者が「意味」を付与するのである。しかし、ヨハネ1:3「πάντα δι᾽ αὐτοῦ ἐγένετο, すべてのものは、これによってできた」によれば、「富」も「ロゴスὁ λόγος」によって成り、「目的(τέλος)と秩序(λόγος)を内在的に持つ」のである。人はそれを発見しなければならない。富(πλοῦτος / μαμωνᾶς)は「ロゴスὁ λόγος」から切断されれば、「マモンμαμωνᾶς」という神になり、人を支配する。「切断(ἀποκοπή)とは、富が「神への応答関係」から外れ自己完結的な意味を持ち始めることである。「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。(マタイ6:24)
「富」に付与されている「意味」とは、「高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおき、また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げる」ことである。(Ⅰテモテ6:17-19)「富」は「ロゴスの目的(愛・命の分与)に奉仕するために託される神の賜物(δωρεά)である。
「多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多くを要求されるのである」。(ルカ12:48) 「富」は「ロゴスの目的(愛・命の分与)に奉仕する「媒介(μέσον)」である。
G.ギリシャ語からのShort message
目録
Ⅰ 心のデボーション6263 「はじめ」 ヨハネ1:1
Ⅱ 心のデボーション5160 「この道」 ヨハネ1:2
Ⅲ 心のデボーション2017 「創造的業」 ヨハネ1:2
Ⅳ 心のデボーション5026 「言は神と共にあった」 ヨハネ1:1
Ⅴ 心のデボーション5048 「事の初めてに」 ヨハネ1:1
Ⅵ 心のデボーション5095 「神と共にあった」 ヨハネ1:1
Ⅶ 心のデボーション5146 「神のロゴスなるイエス」 ヨハネ1:1
Ⅰ 心のデボーション2015
「この言は太初に神とともに在り」 ヨハネ1:2 大正文語訳聖書
「この言は初めに神と共にあった」 口語訳聖書
「永遠から永遠にわたって」
「凡ての智慧は主より來り、永遠(とこしへ)に主と偕(とも)に在り」 πᾶσα σοφία παρὰ κυρίου καὶ μετ᾽ αὐτοῦ ἐστιν εἰς τὸν αἰῶνα ベン=シラの知恵1:1 聖書協会共同訳聖書
ベン=シラの知恵は「すべての知恵」は「παρὰ κυρίου 主から来て」、「εἰς τὸν αἰῶνα 永遠に(わたって) μετ᾽ αὐτοῦ 主と共に、在る。」と記す。「ことば ロゴス」は、永遠(とこしへ)から永遠(とこしへ)にわたって、神と共にあり、神と共に働く、神の知恵である。
関連ギリシャ語
(αἰών「永遠」G165)
(λόγος「ことば」G3056)
Ⅱ 心のデボーション5160
「この言は太初に神とともに在り」 ヨハネ1:2 大正文語訳聖書
「この言は初めに神と共にあった。」 口語訳聖書
「この道」
「この言は初めに神と共にあった」。(ヨハネ1:2) 本節を明治元訳聖書は「この道は太初に神と偕に在き」と訳した。「ことば」は「道」である。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。(ヨハネ14:6)
関連ギリシャ語
(ὁδός「道」G3598)
(ἀρχὴ「起源、初め」別稿「新約聖書ギリシャ語辞典」G746参照)
(ἂλφα「アルファ 初め」別稿「新約聖書ギリシャ語辞典」G1参照)
Ⅲ 心のデボーション2017
「この言は太初に神とともに在り」 ヨハネ1:2 大正文語訳聖書
「この言は初めに神と共にあった」 口語訳聖書
「創造的業」
すべての創造的業は「神と共にある」ことかすべてである。
「私の家は神と共にある。神は永遠の契約を私に賜り、すべてを整え、すべてを守られる。私の救い、私喜びをすべて神はかなえさせてくださる。」 Ⅱサムエル23:5 聖書協会共同訳聖書
関連ギリシャ語
(ἀγαλλίασις「深い喜び、楽しみ」G20)
Ⅳ 心のデボーション5026
「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」 ヨハネ1:1
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」 口語訳聖書
「言は神と共にあった」
「言は神と共にあったὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν」「言は神であったκαὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.」。(ヨハネ1:1) Amplified Bible 「and the Word was God Himself.そして、ことばは神御自身であった」。人は、ここに、「ことば」によって神を知り、神と交わる道が開けたことを知る。「ことば」はすべての信仰の経験の土台であり、力である。一つ一つの御言葉に「神が居ます」ことを感受するのは、聖霊によるのである。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない」。(Ⅰコリント12:3)
関連ギリシャ語
(πρὸς「共に」G4314)
Ⅴ 心のデボーション5048
「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」 ヨハネ1:1 大正文語訳聖書
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 口語訳聖書
「事の初めてに」
「初めἀρχή」は神の臨在とともにある。「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた」。(箴言8:22-25) 神を、その初めに見る者は、ことの初めの前に、「わたしは立てられ、わたしはすでに生れた」ことを知るであろう。生まれるべくして生まれたのである。
関連ギリシャ語
始め
(ἀρχὴ「起源、初め」G746)
(ἂλφα「アルファ 初め」G1)
Ⅵ 心のデボーション5095
「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」 ヨハネ1:1 大正文語訳聖書
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 口語訳聖書
「神と共にあった」
「言は神と共にあったὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν」。(ヨハネ1:1)「πρὸς τὸν θεόν神と共に」は「πρὸς~に向かって、常に交わり、行き来し」に導かれる。一方、マタイ1:23「神我らと共にしますμεθ᾽ ἡμῶν ὁ θεός」は「μετά真ん中に、~の間に」に導かれる。「神と共に、神にむかって、常に行き来される」お方が、私たちの「真ん中に、私たちの間」に居られる。
関連ギリシャ語
共に
(πρός 「共に」G4314)
(μετά「共に、真ん中に」G3326)
Ⅶ 心のデボーション5146
「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」 ヨハネ1:1 大正文語訳聖書
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 口語訳聖書
「神のロゴスなるイエス」
「言は神と共にあったὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν」。(ヨハネ1:1) 神は「ことば」をもって天と地を創造された。「神は「光あれ」と言われた。すると光があった」。(創世1:3) 神が「光よあれ」といわれると「光がある」。そこにいささかの躊躇いもない。「神のことばλόγος」は空しく彷徨うことがない。神の口から出たロゴスは、神の業をなして、神に帰る。主イエス・キリストは「生ける神の」ことばλόγος」であり、「父〔父の口〕から出てこの世にきて、〔父なる神の業をなし終え〕、この世を去って、父のみもとに〔父の口に〕行く〔帰られた〕」のである。(ヨハネ16:28) 人は神の口から「かく在れ」との言葉によって存在を得、業をなし終えて神に帰る。
関連ギリシャ語
(λόγος「ことば」G3056)
