ヨハネによる福音書1章4節

ヨハネによる福音書
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目録

A. 聖書 
B. ギリシャ語研究
Ⅰ ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν,  この言に命があった。
 (1) ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦνの文法構造と意味
 (2) ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦνの用法
Ⅱ καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων· そしてこの命は人の光であった。
 (1) καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·の文法構造と意味
 (2) καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώ
C. 神学的小論
 神学的小論① テーマ 「ヨハネ1:1-5のοὖτοςとαὐτός」
 神学的小論② テーマ 「いのちを意味するギリシャ語βίος、ψυχή、ζωήの考察」
 神学的小論③ テーマ 「ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν, この言にいのちがあった」
 神学的小論④ テーマ 「καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων· そしてこの命は人の光であった。」
D. ギリシャ語からのShort message 

A. 聖書 

ギリシャ語聖書
Jn.1:4 ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·

Latin Vulgate
Jn.1:4 in ipso vita erat, et vita erat lux hominum:

明治元訳聖書 
Jn.1:4 之に生(いのち)あり此生(いのち)は人の光なり

大正文語訳聖書 
Jn.1:4 之に生命あり、この生命は人の光なりき

口語訳聖書
Jn.1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

King James Version
Jn.1:4  In him was life; and the life was the light of men.

American Standard Version
Jn.1:4 In him was life; and the life was the light of men.

B. ギリシャ語研究

目録

Ⅰ ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν,  この言に命があった。
 (1) ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦνの文法構造と意味
 (2) ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦνの用法
  ⅰ) ἐν + 与格
  ⅱ) ζωή
  ⅲ) ἦν(未完了過去)
  ⅳ) 生命の普遍性と神性
Ⅱ καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων· そしてこの命は人の光であった。
 (1) καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·の文法構造と意味
 (2) καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·の用法
  ⅰ) 文法構造
  ⅱ) ἡ ζωὴとτὸ φῶςの関係
  ⅲ) 「人間の光」としてのキリスト

Ⅰ ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν,  この言にいのちがあった。

Jn.1:4 ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

(1) ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦνの文法構造と意味

ἐν (エンen {en})G1722 主要な前置詞で「~の中に」「~において」を意味し、与格を取る。場所や時間をあらわし「~の中に、~の時に」の意味を持つ。
αὐτῶ 代名詞 αὐτός (アウトスautos {ow-tos‘})G846の三人称単数男性与格。
ἐν αὐτῷ
前置詞句。「ἐν~の中に、~において」+「αὐτῷ三人称単数男性与格」で、文脈上「言(λόγος)」を指す。「その中に」「彼のうちに」。

ζωὴ  名詞、女性形 ζωὴ(ゾーエー zōē {dzo-ay‘} )G2222 主語となる名詞。「いのち」「生命」を意味し、女性単数主格。文全体の焦点は「いのち」がどこにあるかを指し示す。

ἦν  動詞εἰμί(エイミ{i-mee‘})G1510 「~である」「存在する」の未完了過去形三人称単数。時制的には過去であるが、ヨハネ福音書ではしばしば永遠性や普遍性を暗示し、「存在していた」または「あった」の意。

訳出「ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦ」
「彼のうちにいのちがあった」と訳されるが、ここで重要なことは、ζωή(いのち)が主語であり、ἐν αὐτῷ(彼の中に)が場所的・存在的領域を示す副詞句である点である。

(2) ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦνの用法

ⅰ) ἐν + 与格

「ἐν + 与格」は単に「場所」を示すのではなく、「存在の源泉・領域」を示す。ヨハネ文書では、ἐνはしばしば「存在の場」「本質的結合」を表す。
ヨハネ1:4の ἐν αὐτῷ は「彼〔ロゴス〕の存在の内部に、いのちの源が宿っていた」という意味である。

ⅱ) ζωή

ヨハネによる福音書では、ζωήは生物学的生命(βίος)ではなく、「神的生命・永遠の生命・創造の生命原理」を指す。「ロゴスλόγος」の内奥に、「ζωήいのち」があった。この「いのちζωή」は神に属する「いのちの源」である。

ⅲ) ἦν(未完了過去)

ἦν(未完了過去形)、ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦνは、主語である「いのちζωή」が、始まりも終わりもなく、過去から永遠にわたって、ロゴスの中に存在していることを示すものである。「ことば(λόγος)」そのものが「いのちζωή」であり、創造の源であった。「いのち(ζωή)」はヨハネ福音書全体において、神の本質に関わる重要なテーマである。

ⅳ) 生命の普遍性と神性

この句はこの「いのち(ζωή)」が「ことば(λόγος)」の中に永遠にあるだけでなく、創造(1:3)を通じてすべての被造物に広がり、永遠の命へとひろがることを示唆している。
イエスは「私は羊たちに命(ζωή)を与えるために来た」(ヨハネ10:10)と宣言された。この「いのち」は、βίος(生物学的いのち)ではなく、神のうちにある「いのちζωή」である。「私は道であり、真理であり、命(ζωή)である」(ヨハネ14:6)は、「ζωή」がイエスご自身〔ことば(λόγος)〕と切り離せないことが示されている。
ヨハネ17:3「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることである」。

Ⅱ καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων· そしてこの命は人の光であった。

(1) καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·の文法構造と意味

καί(カイkai {kah-ee})G2532 接続詞「そして/また」。前節「ὁ λόγος ἦν ζωὴ」との結びつきを示し、論理的な連続性が強調される。

ἡ 定冠詞ὁ, ἡ, τό (ホ、へー、トho hē to {ho, hay, to})G3588、(女性単数主格)「この、その」。
ζωὴ( ゾーエーzōē {dzo-ay‘} )G2222 名詞、女性形「生命」「生存」「生命力」「永遠の命」。
ἡ ζωὴ(生命)、定冠詞付きの女性名詞主格単数形。具体的で特定の「生命」を指しており、文脈上、霊的かつ永遠の命として理解される。「そして、そのいのちは」

ἦν  動詞εἰμί(エイミ{i-mee‘})G1510 「~である」「存在する」の未完了過去形三人称単数。時制的には過去であるが、ヨハネ福音書ではしばしば永遠性や普遍性を暗示し、「存在していた」または「あった」の意。

τὸ 定冠詞ὁ, ἡ, τό (ホ、へー、トho hē to {ho, hay, to})G3588、(中性単数主格)「この、その」。
φῶς 名詞φῶς(ふォースphōs {foce})G5457、(n-nn-s主中単) 「光」。
τὸ φῶς 定冠詞付きの中性名詞主格単数形で、物理的な光ではなく、比喩的に用いられている。

τῶν 定冠詞ὁ, ἡ, τό (ホ、へー、トho hē to {ho, hay, to})G3588、(dgmp男性複数属格)「この、その」。
ἀνθρώπων 名詞ἄνθρωπος (アンとローポスanthrōpos {anth‘-ro-pos})G444の「n-gm-p 男性複数属格」、「人、人間」。
τῶν ἀνθρώπων定冠詞付きの男性名詞属格複数形。属格は所有を表し、「人間に属する光」という意味になる。

文構造 καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·
主語 ἡ ζωὴ(命)+ 動詞 ἦν(であった)+ 述語 τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων(人々の光)。

(2) καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·の用法

ⅰ) 文法構造

A = B の等式構文(コピュラ文)「ἡ ζωὴ(いのち)」=「τὸ φῶς(光)」
両方に定冠詞が付くため、同一性の強い等式が成立する。「いのちは光であった」:
聖書全体で「光(τὸ φῶς)」は、神の臨在、啓示、聖さを象徴する(創世1:3, 詩篇27:1)。この「光(τὸ φῶς)」は、霊的な無知や罪の暗闇を照らし、人々を救いへと導く。

ⅱ) ἡ ζωὴとτὸ φῶςの関係

この節は、ロゴスの内にあった「ἡ ζωὴいのち」と「τὸ φῶς光」が不可分なものであることを強調する。
「ἡ ζωὴいのち」は「τὸ φῶς光」を内包し、「τὸ φῶς光」として人々を照らす。この関係は、キリストの本性とその働きを示すものである。

ⅲ) 「人間の光」としてのキリスト

ロゴスの「いのち」は「光」として「人間(τῶν ἀνθρώπων)」を照らす。この「光」は単に人間の罪を照らすのではない。「いのちとしての存在」をあますところなく照らす光である。そこでは「罪に生きる人間の実存」が神の前に照らし出される。そして、この「光」は人間の罪のいのちばかりでなく、それを突きぬけて、人間の本質を照らし出すキリストの光である。

C. 神学的小論

目録

神学的小論① テーマ 「ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν, この言にいのちがあった」
神学的小論② テーマ 「καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων· そしてこの命は人の光であった」
神学的小論③ テーマ 「ヨハネ1:1-5のοὖτοςとαὐτός」
神学的小論④ テーマ 「いのちを意味するギリシャ語βίος、ψυχή、ζωήの考察」

神学的小論①

テーマ 「ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν, この言にいのちがあった」

「この(新しい神との関係における)ロゴス」の内に「いのち」があった。そしてヨハネは、今や「私」という存在が「神の直接的創造のいのち」であることの告白に至る。この「いのちζωή」は「神に在る永遠のいのち」であり、「人の光」であった。(ヨハネ1:4) 

Ⅰ 「いのちとἦν」

ヨハネ1:4「ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων」に「在ったἦν」が二度用いられる。
ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν「この言に命があった」
καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων「そしてこの命は人の光であった」
「ἦν」(未完了過去時制)は、「いのち」と「光」が、「始まりも終わりもなく、すでに、常に、存在していた」ことをあらわす。

Ⅱ 「ロゴス」と「いのち」

ヨハネ1:1で「初めに在り、神と共に在り、神で在った」永遠のロゴスは、1:2で「この方」と告白され、「この方」によって「私」は「つくられ」、私に在るもの一つ一つすべては、「この方」すなわち「ロゴス」によって成った。このロゴスに「いのち」が時空を超えた永遠から在った。(ヨハネ1:4)

この「いのち」は、変化や消滅の支配に属さない「永遠のいのち(ζωὴ αἰώνιος)」であり、「神の内に、永遠に在った神的実在」である。この「いのち」は神の属性ではなく、神の存在様式そのものである。それは「神が神として生きておられること」を証しする「いのちζωὴ」であり、「光」として神の存在を照らしたのである。天地創造以前、まだ「人」も「世界」も存在しない時点で、「いのち」は神の内に完全に満ちていた。

Ⅲ 「いのちと人間」

「ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν, この言にいのちがあった」(ヨハネ1:4)

神の口から出る「ロゴス」に聴く者は、「三位一体の神が語られていた、神のうちに完全に満ちていたこと」を、自らの「いのち」に余すところなく聴くのである。

「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。(マタイ22:32)「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。アブラハム、イサク、ヤコブはすでに死んだ。しかし、「神は死んだ者の神」ではなく、「生きている者の神」である。この「いのちの神との関わり」のなかで、人は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」といわれる神のことばを聴くのである。

神学的小論②

テーマ 「καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων· そしてこの命は人の光であった」

ヨハネ1:4は「ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν, このことばにいのちがあった」に続いて「καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων· そしてこの命は人の光であった。」と述べる。「καὶ」で結ばれる「いのち」と「光」の関係は、共に「時空を超えて、すでに、常に、存在していた」ことを示し、それらの神的な意味深い働きを、「いのち」と「光」の関係の内に見出すことは、重要な意味のを持つ事柄である。

Ⅰ 「そしてこのいのちは人の光であった」

ここで重要なことは、「いのち(ζωή)」がまず在り、その「いのち」そのものが「光」であったことである。ヨハネ1:4の語順と構造が示すのは「光」が「いのち」を与えるのでも、「いのち」が「光」に変化するのでもなく、「いのち」はその自己表現として「光」であるという記述である。
これらのことが創造以前の神的実在として「ἦν在った」と言われている。ここでもギリシャ語の「在った」を意味するもう一つの動詞「ἐγένετο創造した」ではなく、「ἦν在った」という「未完了過去時制」が用いられことによって、「いのち」が創造の結果ではなく、「光」が現れたのでもなく、「永遠の神的実在として、始まりも終わりもなく、神の内に在った」ということが明らかである。

Ⅱ 創造以前における「いのち」と「光」

創造以前の、まだ天地も人間も存在していない、時空を超えた時点で、「いのち」は神の内に、初めも終わりもなく、完全に満ちていた。「いのち」は神の内にあって、「静的ないのち」ではなく、活発に動く「動的ないのち」である。そそれは「照らす対象を必要としない光」として神の動的ないのちを自ずから照らした。「光」は三位一体の神の「内在的いのち」を照らす光であった。

人間は自らの存在を抜きにして神について何も知る手立てを持たない。「存在が証しするもの」は、間接的で、直接的認識ではない。しかし、創造以前の神の内在する「いのち」は「光」として「三位一体の神」を証ししてやまない。人が「三位一体の神」を認識するのはこの「永遠の光」によるのである。

Ⅲ 「人の光であった」

創造以前の、まだ天地も人間も存在していない時点で、ヨハネ1:4は、神の内在的いのちが「人の光であった」と告げる。「人間」がまだ存在していない永遠の時点から、「いのち」は「やがて創造される人間」を照らし続ける「光」であった。

創世記が神による人間の創造を語るのに対して、ヨハネ1:4の「人の光」は、「人間の創造」を、人間が存在する以前の三位一体の神に置く。「人間」は地につくられる以前から、「三位一体の神」との交わりの中に、実態としてではなく神の意志としてあったのである。三位一体の神の意思としてあった「人間」は、やがて「生きる者」となった。この人間に限りない意味を与えるのは、創造以前からの「人の光」である。

ヨハネ1:4は創世記の人間創造の意味を深め、「人間の本質(意味と関係)」を鮮やかに照らし出す。創世記は「人間がいつ造られたか」を語り、ヨハネは「人間が何者であるか」を根源から語る。人間の存在意味「τέλος(telos)方向性」は、三位一体の神の愛の交わりの中に先在的にあり、人間は存在する以前から「神と交わるための存在」であった。

「人間は何か?」という問いに、聖書は「人間は神ではない」と答える。三位一体の神は「その交わりの対象としての人間」を「神ではない存在としての人間」をつくられ、それを「生きる者」とされたのである。

三位一体の神の交わりは完全であり、「他者」を必要としない。神は欠けを補うためにではなく、交わりを共有するために人間を「地の塵」からつくられた。それは「限りあるいのちを生きる生活者」としての人間であった。人間は自ら「神ではない」と認識し、告白する。この告白は非常に深い意義をもち、人間の尊厳はそこにあらわされる。この告白をもって、人間は三位一体の神の交わり入り、愛を受け、愛を生きる者となる。「光」はその「存在の意味」を照らし、存在を成らしめる力である。「神ではない」ことこそが栄光の条件であり、その尊さゆえに、恵みとして立ち上がるのである。「永遠の光」なしには、その栄光はあらわれることがない。「光」は「人間をして人間ならしめる力」である。人間が「生きる者」であることの尊さは、その生が永遠のいのちに照らされていることにある。

「神ではない人間」の栄光は、ヨハネの「ロゴス」と深い関わりがある。「ロゴスの神」に対して、人間は「聴く器」であり、「聴くために開かれた存在」である。「永遠の光」は神のロゴス(ことば)をあますところなく照らし出す。神は、人間にロゴスのすべてを聴くことの祝福を与え、その口に「ロゴス」を伝えることばを与えらえる。人間は「ただ聴くだけの存在」ではない。神は人間に「ことば(ロゴス)」を与えらえる。人間の口を通して、「ロゴス」は世界の中で響く。それによって人間は「生きる者」とされる。聴くことと語ることが途絶えたとき、人間は生きていても「生きる者」ではなくなる。「神ではない人間」は「神を語る人間」である。それゆえに人間は「神のロゴスを担う存在」となる。ここに創造の深い喜びと栄光がある。

「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。マタイ4:4

神学的小論③

テーマ 「ヨハネ1:1-5のοὖτοςとαὐτός」

ヨハネは「ロゴス」を1:2で指示代名詞「οὖτος(この方)」と呼び、1:3-4はそれを受けて「ロゴス」は人称代名詞「αὐτός」で呼ばれる。このギリシャ語の文法上で自然な流れにも神学的に重要な意味が隠されている。

Ⅰ οὖτοςとαὐτόςの用法

指示代名詞οὖτοςは、直前に述べられた人物・概念を「これだ、この方だ!」と指し示す働きをもち、ここから新しい主題が提示される。

人称代名詞「αὐτός」は文脈上すでに確立した主語を受けて、叙述を進める働きをなす。「指示代名詞οὖτος」が指し示した人物・概念を、その流れのなかの主語を保持する。

Ⅱ οὖτοςからαὐτόςへ

ヨハネ1:2の「οὖτος」は単なる文法的指示代名詞ではない。ヨハネは1:1で「ロゴス」が「(時空を超えた)初め」に在り、神と共にあり、神であった」と、「始まりも終わりもない、永遠の存在」としての「ロゴス」を述べた。そして1:2でヨハネは、「(時空を超えた)永遠のロゴス」を「οὖτοςこの方こそが、私に直接語り掛ける創造のロゴスだ」と告白する」。その瞬間に「ロゴス」は「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」(Ⅰヨハネ1:1)になる。ヨハネ1:2の「οὖτος」は、信仰が、「永遠のロゴス」から「私に向かって語り掛けるロゴス」と受け取る、神との関係が決定的に変わる瞬間である。

ヨハネ1:3 -4は、神との関係が決定的に変わる中で聴く「神のことば(ロゴス)」である。
1:3「πάντα δι᾽ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν 万物は言(αὐτός)によって成った。成ったもので、言(αὐτός)によらずに成ったものは何一つなかった。」
1:4 「ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων· 言(αὐτός)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」が

ここでの「αὐτός」は、「私」という「存在そのもの」のが、「ロゴス」によって成り、そして成るもので「ロゴス」によって成らなかったものは一つもないという告白を通して、創造の主体としてのロゴスの働きを「私」という存在に受け取る信仰へと展開してゆくのである。
「この(新しい神との関係における)ロゴス」の内に「いのち」があり、この「根源的いのち」は、今や、「私といういのち」の「直接的創造のいのち」となったことを告白する「αὐτός」である。

神は「いのちの息πνοὴν ζωῆς」によって人間を「ψυχὴν ζῶσαν生きる者」とされた。(創世2:7)人間は「ψυχή」として「地に限りあるいのちを生きる者」すなわち「生活者βίος」である。「ψυχὴν ζῶσανのいのち」は「ζωή(永遠の神のいのち)」の「光」に照らされて、はじめて、「人間のいのちβίος、ψυχή」が、意味をもって立ち顕れてくる。

ヨハネ1:1-5はヨハネによる福音書の序として記されているが、単なる序ではなく、それ自体が生きた信仰の軌跡をあますところなく告げる神の書である。そこにある神との決定的な関係を、身に経験しつつ読むとき、神の口から出る「創造のロゴス」が、「私」という「存在」と直接的に関わるロゴスとして「οὖτος」と呼ぶ関係に入ることが恵みとともに立ち上がるのである。神は「限りなく小さき者」を「ロゴスを証しする限りなく尊き器」とし給う。

(「βίος、ψυχή、ζωή」については、詳細を神学的小論②「いのちを意味するギリシャ語βίος、ψυχή、ζωήの考察」に項改めて論じる。)

神学的小論④

テーマ 「いのちを意味するギリシャ語βίος、ψυχή、ζωήの考察」

「いのち」を意味するギリシャ語にβίος、ψυχή、ζωήがある。
βίος (ビオㇲbios {bee‘-os})G979 「生活・生計・生き方・人生」
ψυχή (プスゆけーpsuchē {psoo-khay‘})G5590 「自己・魂・個としての命」
ζωή (ゾーエー zōē {dzo-ay‘})G2222 「生命、生存、生命力、永遠の生命」

ヨハネ1:4「ἐν αὐτῶ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(新共同訳聖書)」は「ロゴスの内に「ζωήいのち」があった。その「いのちζωή」は「人間を照らす光であった」と告げる。このζωήはβίος とψυχήにどのように関わるのであろうか?

Ⅰ βίος とψυχή

βίοςは「生きる、生活する」を意味し、生きるための営みとしての「いのち」をあらわし、物質的な、世俗的な活動で、生存のために必要な生計、生活手段である。しばしば、βίοςは「平穏で落ち着いた生活」(Ⅰテモテ2:2)を妨げ「思い煩い」の元になることもある「生きるための営み」である。(ルカ8:4)

ψυχήは「心、感情、意思、魂」を意味し、全人格的いのちであり、「τί γὰρ ὠφελεῖ ἄνθρωπον κερδῆσαι τὸν κόσμον ὅλον καὶ ζημιωθῆναι τὴν ψυχὴν αὐτοῦ;人が全世界をもうけても、自分の命(ψυχή)を損したら、なんの得になろうか」(マルコ8:36)と言われる「人間を形作るいのち・心・魂」である。しかし、ψυχήは「永遠」ではない。「ζημιόω 損なう、没収されるいのち」であり、「限りあるいのち」である。

βίος とψυχήによってあらわされる「人間」は「死ぬべきいのちを生きる者」である。「死」は「罪」によって始まるのではなく、創造のはじめから「死」は深い意味をもっていのちとともにあったのである。

信仰は「βίος とψυχή」から「ζωή」への移行を意味するのであろうか? そうではない。神はアダムを「土のちりで人を造りκαὶ ἔπλασεν ὁ θεὸς τὸν ἄνθρωπον χοῦν ἀπὸ τῆς γῆς」、「命の息をその鼻に吹きいれられたἐνεφύσησεν εἰς τὸ πρόσωπον αὐτοῦ πνοὴν ζωῆς」、「そこで人は生きた者となったκαὶ ἐγένετο ὁ ἄνθρωπος εἰς ψυχὴν ζῶσαν」。(創世記2:7) 神は「いのちの息πνοὴν ζωῆς」によって人間を「ψυχὴν ζῶσαν生きる者」とされた。人間は「ψυχή」として地に「生きる者、生活者βίος」とつくられ、死によって限られるいのちを「ψυχὴν ζῶσαν生きる者」である。

Ⅱ 「βίοςやψυχή」に内在する「いのち」

神は人間を、それぞれに固有の「ψυχή」として、地に「生きる者、生活者βίος」とされた。人間は一人生きる者ではない。すべての信仰いのちは他者との関係の中にあ。固有に内在する「βίοςとψυχή」は他者との関係を成らせる力である。では、人は如何にして自らの「魂の生活者」たり得るのだろうか?

Ⅲ 「βίοςやψυχή」を照らす「光」

ヨハネ1:4「ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπωνこの命は人の光であった」。

神のうちにあった「いのちζωὴ」は「人を照らす光」である。「人」とは「ἄνθρωπος」であり、このギリシャ語は「人、人間、人類」を指すことばである。「いのちζωὴ」は「人、人間、人類」を照らす神の光である。この「ζωή」の「光」に照らされて、はじめて、「人間のいのちβίος、ψυχή」が現れる。人間に固有にあたえられる「βίος、ψυχή」が意味をもって立ち現れ、人間は地に存在する者となる。

ここで重要なことは、神は「βίοςやψυχή」そのものの中にζωήを注入するのではなく、βίος・ψυχήという具体的ないのちのかたちの上に、ζωήが「顕現する」ことの意味である。
人間は固有の存在として、「βίοςやψυχή」の限りあるいのちを生きることによって、「βίοςやψυχή」に神の「ζωή」の栄光をあらわす存在である。神は「βίοςとψυχή」のいのちを、神の栄光を証しする器とされたのである。

D. ギリシャ語からのShort message

目録

Ⅰ 心のデボーション2190 「いのちの起源」 ヨハネ1:4
Ⅱ 心のデボーション2195 「命」 「命」

Ⅰ 心のデボーション2190

「之に生命あり、この生命は人の光なりき」 ヨハネ1:4 大正文語訳聖書
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」 新共同訳聖書

 「いのちの起源」

聖書は「いのちの起源」を神に見ている。天地創造の以前から、いのちは神の内にあり、生ける神と共にあった(成った)。人のいのちの尊厳は起源である神からくる。地のあらゆるいのちは神とともにある。

関連ギリシャ語
(ζωή「いのち」G2222)
(ψυχή「魂、いのち」G5590)
(ἀναστροφή「生存、生き方」G391)

Ⅱ 心のデボーション2195

「之に生命あり、この生命は人の光なりき」 ヨハネ1:4 大正文語訳聖書
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」 新共同訳聖書

 「命」

漢字の「命」という漢字は「令」に「口」を添えたもので、礼を尽くしてひざまずき、神に聴く人の姿を示す象形文字である。神に聴くことが、人をいのちある者とする。
(†心のデボーション02195)

関連ギリシャ語
(πνεῦμα「息、霊、御霊」G4151)
(ζωγρέω「生かす」G2221)