G102 ἀδύνατος アドゆナトス adunatos {ad-oo‘-nat-os} できない
〔品詞〕形容詞
〔語源〕ἀ否定+δυνατόςできる、力のある
〔意味〕できない、能力のない、不可能な
〔使用頻度〕6回
Ⅰ 偽ることのありえない神
ヘブル6:18
ἵνα διὰ δύο πραγμάτων ἀμεταθέτων, ἐν οἷς ἀδύνατον ψεύσασθαι [τὸν] θεόν, ἰσχυρὰν παράκλησιν ἔχωμεν οἱ καταφυγόντες κρατῆσαι τῆς προκειμένης ἐλπίδος·
口語訳聖書
それは、偽ることのあり得ない(ἀδύνατος)神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。
Ⅱ 神が成し遂げられたこと
ロマ8:3
τὸ γὰρ ἀδύνατον τοῦ νόμου, ἐν ᾧ ἠσθένει διὰ τῆς σαρκός, ὁ θεὸς τὸν ἑαυτοῦ υἱὸν πέμψας ἐν ὁμοιώματι σαρκὸς ἁμαρτίας καὶ περὶ ἁμαρτίας κατέκρινεν τὴν ἁμαρτίαν ἐν τῇ σαρκί,
口語訳聖書
律法が肉により無力になっているためになし得なかった事(ἀδύνατος)を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
ヘブル10:4
ἀδύνατον γὰρ αἷμα ταύρων καὶ τράγων ἀφαιρεῖν ἁμαρτίας.
口語訳聖書
なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができない(ἀδύνατος)からである。
マタイ19:26
ἐμβλέψας δὲ ὁ ἰησοῦς εἶπεν αὐτοῖς, παρὰ ἀνθρώποις τοῦτο ἀδύνατόν ἐστιν, παρὰ δὲ θεῶ πάντα δυνατά.
口語訳聖書
イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできない(ἀδύνατος)が、神にはなんでもできない事はない」。
マルコ10:27
ἐμβλέψας αὐτοῖς ὁ ἰησοῦς λέγει, παρὰ ἀνθρώποις ἀδύνατον ἀλλ᾽ οὐ παρὰ θεῶ, πάντα γὰρ δυνατὰ παρὰ τῶ θεῶ.
口語訳聖書
イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが(ἀδύνατος)、神にはできる。神はなんでもできるからである」。
ルカ18:27
ὁ δὲ εἶπεν, τὰ ἀδύνατα παρὰ ἀνθρώποις δυνατὰ παρὰ τῶ θεῶ ἐστιν.
口語訳聖書
イエスは言われた、「人にはできない事も(ἀδύνατος)、神にはできる」。
Ⅲ 身体的な弱さ
使徒14:8
καί τις ἀνὴρ ἀδύνατος ἐν λύστροις τοῖς ποσὶν ἐκάθητο, χωλὸς ἐκ κοιλίας μητρὸς αὐτοῦ, ὃς οὐδέποτε περιεπάτησεν.
口語訳聖書
ところが、ルステラに足のきかない人(ἀδύνατος)が、すわっていた。彼は生れながらの足なえで、歩いた経験が全くなかった。
Ⅳ 信仰なくしては
ロマ15:1
ὀφείλομεν δὲ ἡμεῖς οἱ δυνατοὶ τὰ ἀσθενήματα τῶν ἀδυνάτων βαστάζειν, καὶ μὴ ἑαυτοῖς ἀρέσκειν.
口語訳聖書
わたしたち強い者は、強くない者たち(ἀδύνατος)の弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。
ヘブル11:6
χωρὶς δὲ πίστεως ἀδύνατον εὐαρεστῆσαι, πιστεῦσαι γὰρ δεῖ τὸν προσερχόμενον τῶ θεῶ ὅτι ἔστιν καὶ τοῖς ἐκζητοῦσιν αὐτὸν μισθαποδότης γίνεται.
口語訳聖書
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない(ἀδύνατος)。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
ヘブル6:4
ἀδύνατον γὰρ τοὺς ἅπαξ φωτισθέντας, γευσαμένους τε τῆς δωρεᾶς τῆς ἐπουρανίου καὶ μετόχους γενηθέντας πνεύματος ἁγίου
口語訳聖書
いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、(また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能(ἀδύνατος)である。)である)