心のデボーション6361
「キリストは自由を得させん爲に我らを釋き放ちたまへり。されば堅く立ちて再び奴隷の軛に繋がるな」 ガラテヤ5:1 大正文語訳聖書
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」 口語訳聖書
「不羈(ふき)」
「不羈(ふき)」の「羈」は「馬を制御する手綱」のことで、「手綱がない=制御されない」の意である。ありあまる才能に恵まれ自由にふるまう人を言う。しかし、「不羈」は、しばしば「制御不能の暴れ馬」で、誰にも止められない。聖書は「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった」と伝える。(ガラテヤ5:1) この「自由ἐλευθερία」は「放縦ἀκολασία・ἀσέλγεια」から区別される語で、「罪からの解放→愛による奉仕」への「神の子」としての霊的自由を意味し、「内なる制御不能の暴れ馬」からの解放である。「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」。ガラテヤ5:13
関連ギリシャ語
(ἐλευθερία「自由」G1657)
(ἀσέλγεια「放縦」G766)
(心のデボーション6361)
心のデボーション6362
「人は二人の主に兼ね事ふること能はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を輕しむべければなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず。」 マタイ6:24 大正文語訳聖書
「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」 口語訳聖書
「重く見る」
「愛する」は、誰かを「重んじる」ことだ。「憎しむ」はその反対で、人を「軽んじる」ことである。自分は、相手を愛してはいないけれど、憎んではいないと自分をかばう。しかし、イエスは、もし愛していないならその人は憎んでいるのだと私たちをつきはなす。相手をあなどり、疎んじ、意に介さないことが「憎しみ」であり、相手を重く見られないことがすでに「憎しみ」である。
関連ギリシャ語
(μισέω「憎む」G3404)
(καταφρονέω「疎んじる」G2706)
(心のデボーション6362)
心のデボーション6363
「なんぢら優れたる賜物を慕へ、而して我さらに善き道を示さん。」 Ⅰコリント12:31 大正文語訳聖書
「だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道をあなたがたに示そう。」 口語訳聖書
「更に大いなる賜物」
「更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい」。(Ⅰコリント12:31) 「熱心に努めなさいζηλόω(熱望しなさい)」には「ねたみで燃える」の意味もある。「更なる賜物」を「ねたみに燃える」ごとくに熱心に求めよ。「更に大いなる賜物」とは「信仰と希望と愛と、この三つ」であり、「このうちで最も大いなるものは、愛であり」、愛は「いつまでも存続し、滅びることがない。(Ⅰコリント13:13)
関連ギリシャ語
(δωρεά「賜物」G1431)
(ζηλόω「熱望する」G2206)
(心のデボーション6363)
心のデボーション6364
「泣く者は泣かぬが如く、喜ぶ者は喜ばぬが如く、買ふ者は有たぬが如く、」 Ⅰコリント7:30 大正文語訳聖書
「泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、」 口語訳聖書
「泣かない者のように」
ギリシャ語は泣き叫ぶ悲しみを「κλαίω」といい、声をこらえて内に秘める悲しみを「γρύζω」といって区別する。葬儀には「泣き女」が雇われ、「アララ、アララ」と騒がしく泣く、その悲しみを「ἀλαλάζω」と呼ぶ。いくつもの「悲しみ」がある。パウロは泣くことがあっても、「泣かない者のようにありなさい」とすすめる。悲しみがないかのようにふるまう悲しみ方もある。
関連ギリシャ語
(κλαίω「泣き叫ぶ」G2800)
(心のデボーション6364)
心のデボーション6365
「然り、我はわが主キリスト・イエスを知ることの優れたるために、凡ての物を損なりと思ひ、彼のために既に凡ての物を損せしが、之を塵芥のごとく思ふ」 ピリピ3:8 大正文語訳聖書
「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、」 口語訳聖書
「主を知る知識」
「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」。(ピリピ3:8)「損ζημία」は「損実、不利益」の意である。パウロはそれまでの自身の人生を支えてきたものを、「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに」、むしろ「損失、不利益」とさえ思うようになったという。パウロのそれまでの人生が無意味というのではない。パウロに与えられたもののことごとくが、目標を変えて、「主キリスト・イエスを知る」力にもなったのである。主イエスを知ったからには、それを上回るものなど一つもないというのである。
関連ギリシャ語
(ζημία「損」G2209)
(δόξα「栄光」G1391)
(心のデボーション6365)
心のデボーション6366
「爰にモーセ登て神に詣るにヱホバ山より彼を呼て言たまはく汝かくヤコブの家に言ひイスラエルの子孫に告べし」 出エジプト19:3 明治元訳聖書
「さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、」 口語訳聖書
「山から」
「富士山」は様々な名称をもつ山である。古文書には、二つとない山の意味で「不二山」、竹取物語には「不死山」、万葉集には素晴らしさが尽きないの意味で「不尽山」、奈良時代の古文書『常陸国風土記』には「福慈山」とあるそうである。モーセが十戒を授けられた「シナイ山」は「神の山」と呼ばれる。シナイ山には二つの峰がありその一方は「ジェベルムーサ(モーセの山)」と呼ばれ、中腹に最古の修道院が建ち、世界でもっとも静寂な地とされる。人の心は、しばしば「山」に向かう。
関連ギリシャ語
(ὄρος「山」G3735)
(心のデボーション6366)
心のデボーション6367
「そはかぞへがたき禍害われをかこみ わが不義われに追及てあふぎみること能はぬまでになりぬ その多きことわが首の髮にもまさり わが心きえうするばかりなればなり」 詩篇40:12 明治元訳聖書
「数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました。」 口語訳聖書
「心を見捨てる」
数え切れないほどの災いにあって、作者は「私の心も私を見捨てました」と祈る。しかし、祈る心がある限り、人は生きていける。祈りの心を失った時、人は本当の意味で「私は私の心を見捨てまるした」というのかもしれない。自分が解体し、いのちが枯れ、世界は動きを止める。それは、数え切れないほどの災いにあうより、もっと辛いことである。
関連ギリシャ語
(ἐγκαταλείπω 「見捨てる」G1459)
(心のデボーション6367)
心のデボーション6368
「また我等はもはや幼童ならず、人の欺騙と誘惑の術たる惡巧とより起る樣々の教の風に吹きまはされず、人を欺く悪賢い策略」 エぺソ4:14 大正文語訳聖書
「こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、」 口語訳聖書
「手触り」
イソップ寓話に、ある目の不自由な人の話がある。彼は何でも手で触れて、それがどういうたちのものかが分かる。或る時、狼の子に手を触れると、「自分には、この動物が狼の子か狐の子かわからないが、この動物は羊の群れと一緒に行くには適さない」と言う。「危険な気質」は手で触れてみればわかるものだとイソップは言う。(「イソップ寓話集」 山本光雄訳 岩波書店1942/2)
関連ギリシャ語
(πανουργία「たくらみ」G3834)
(心のデボーション6368)
心のデボーション6369
「視よ、おのが目に梁木のあるに、いかで兄弟にむかひて、汝の目より塵をとり除かせよと言ひ得んや」 マタイ7:4 大正文語訳聖書
「自分の目に丸太があるのに、兄弟に向かって、『あなたの目からおがくずを取らせてくれ』とどうして言えるだろうか」 フランシスコ会訳聖書
「目の丸太」
自分の目に「丸太」のある者ほど、他人の目の「おが屑」が気になり、取り除きたがる。親切からではなく、自らの目の「丸太」がそうさせる。『あなたの目からおが屑を取らせてください』が「丸太」である。
他人の欠点が気になるのは、自分の認めがたい欠点を他人に見ているからである。それを他人に見ることで自分はそうではないと思い込もうとする。その欠点を自分に認めると、他人のことは気にならなくなる。
関連ギリシャ語
(λείπω「欠点」G3007)
(心のデボーション6369)
心のデボーション6370
「人、全世界を贏くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、」 マルコ8:36 大正文語訳聖書
「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」 口語訳聖書
「魂を損したら」
たとえ「全世界をもうけても」、「自分の命を損したら、なんの得になろうか?」。(マルコ8:36) 「いのちψυχή」は「魂」とも訳せる。全世界の富を得ても「魂を損したらζημιόω(傷つけたら、喪失したら、没収されたら)」何の得になるだろうか。
関連ギリシャ語
(ζημιόω「損じる」G2210)
(ψυχή「魂、いのち」G5590)
(心のデボーション6370)

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