心のデボーション6291
「愛を追求むる者は人の過失をおほふ 人の事を言ひふるる者は朋友をあひ離れしむ」 箴言17:9 明治元訳聖書
「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。」 口語訳聖書
「愛を追い求める人」
「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす」。(箴言17:9) 「許す」を意味するヘブル語は「כָּסָה kâsâh」で「隠す」の意味をもち、対応するギリシャ語は「LXXκαλύπτω覆う」である。「隠す」は「罪の事実を覆って隠す」ではなく、「罪を赦しによって見えなくする」ことをあらわしている。新約聖書は、旧約聖書の「כָּסָה kâsâh 覆う(καλύπτω覆う)から、「ἐξαλείφω完全に消す」、「ἀφίημι「罪を取り除き解放する」へと意味を深めてゆく。
「愛を求める人」は「人のあやまち」を「完全に消しさり」、「過ちからその人を「解放する」。
関連ヘブル語・ギリシャ語
(כָּסָה kâsâh「覆う、ゆるす」H3680)
(καλύπτω「覆う」G2572)
(ἐξαλείφω「完全に消す」G1813)
(ἀφίημι「罪を取り除き解放する」G863)
(心のデボーション6291)
心のデボーション6292
「心の靈を新にし、」 エペソ4:23 大正文語訳聖書
「心の深みまで新たにされて、」 口語訳聖書
「新しい人」
自分の日常は大したものではないという認識は謙遜とはいえない。そういう人に限って自分を誇大視しているものだ。全能感をもちながら、現実には何もしない。今の瞬間を新しく生きる人は「大したものでない日常」に愛をこめる。何でもないことを丁寧に生きる。「最も小さいもののひとりにしたのは、わたしにしたのです」というイエスのことばを聞いたからである。「心の深みまで新たにされἀνανεοῦσθαι δὲ τῶ πνεύματι τοῦ νοὸς ὑμῶν,」は直訳で「あなたの心の霊において絶えず新しくされ」である。「霊の新しさ」が何でもない日常を掘り下げる。
関連ギリシャ語
(ἀνανεόω「新しくする」G365)
(心のデボーション6292)
心のデボーション6293
「あくる日デナリ二つを出し、主人に與へて「この人を介抱せよ。費もし増さば、我が歸りくる時に償はん」と言へり。」 ルカ10:35 大正文語訳聖書
「翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。」 口語訳聖書
「来る道の親切と帰る道の親切」
来る道で、強盗に襲われた人を解放したサマリヤ人は、宿屋の主人に「この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います」と言って出立した。(ルカ10:35) 来る道で親切だった人は、帰りの道でも親切である。そういう人を「善き人χρηστός(chrēstós)」という。この「親切」は「神の慈しみ(χρηστότης)」から来る。(ロマ2:4)
関連ギリシャ語
(ἀγαθός「親切」G4291)
(χρηστεῦομαι「親切」G4441)
(心のデボーション6293)
心のデボーション6294
「イエス此處より進みて、マタイといふ人の收税所に坐しをるを見て『我に從へ』と言ひ給へば、立ちて從へり。」 マタイ9:9 大正文語訳聖書
「さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。」 口語訳聖書
「自分という物語」
人は誰でも自分の物語をもっている。それはいつまでも変化し続ける物語である。マタイは収税人だった。人の嫌がる収税人であることが問題なのではない。収税人という物語の中に座り込んでしまったことが問題だった。マタイの「物語」はもはや流れなくなっていた。そんなマタイにイエスは「私についてきなさい」といわれた。イエスは物語を新しくされる方であった。それでマタイはイエスに従ったのである。あなたの物語は流れているだろうか。
イエスはマタイが収税所にすわっているのを「見つけられるεἶδον」。「εἶδον」は「探し出し、見つける」の意である。人はイエスに「見つけられて」、自分に「新しい物語」を見つける。
関連ギリシャ語
(εἶδον「見つける」G1492)
(心のデボーション6294)
心のデボーション6295
「おのが恥を湧き出す海のあらき波、さまよふ星なり。彼らの爲に暗き闇、とこしへに蓄へ置かれたり。」 ユダ1:13 大正文語訳聖書
「自分の恥をあわにして出す海の荒波、さまよう星である。彼らには、まっくらなやみが永久に用意されている。」 口語訳聖書
「恥を泡として」
「不信仰」は「自分の恥をあわにして出す海の荒波」のようである。(ユダ1:13) 「泡立たせるἐπαφρίζω」というギリシャ語は荒れる海のさまから、不安定で騒々しい心をあらわす。神への不信仰が恥を泡立て荒波と荒れ狂う。その行く先には「まっくらなやみが永久に用意されている」。
関連ギリシャ語
(ἐπαφρίζω「泡立たせる」G1890)
(αἰσχύνη「恥」G152)
(心のデボーション6295)
心のデボーション6296
「(律法は何をも全うせざりしなり)更に優れたる希望を置かれたり、この希望によりて我らは神に近づくなり。」 へブル7:19 大正文語訳聖書
「(律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。」 口語訳聖書
「望み」
「律法」は「何事をも全うし得なかった」。しかし、キリストにより「さらにすぐれた望みが現れた」。(へブル7:17) 「現れるἐπεισαγωγή」は「持ち込まれる」の意。この「神が私に持ち込まれる望み」は「わたしたちを〔ためらうことなく、大胆に〕神に近づかせる」。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう』。(ヤコブ4:8)
関連ギリシャ語
(ἐπεισαγωγή「現れる」G1898)
(ἐλπίς「望み」G1680)
(心のデボーション6296)
心のデボーション6297
「我は柔和にして心卑ければ、我が軛を負ひて我に學べ、さらば靈魂に休息を得ん。」 マタイ11:29 大正文語訳聖書
「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」 口語訳聖書
「やさしさ」
「やさしさ」は拒否してはいけないものでしょうか? 拒否すれば相手を傷つけることになる。やさしさにはやさしさをもって応じるのがやさしさだという。しかし、そういう「やさしさ」は、時にとても暴力的である。聖書には「やさしさ」と「へりくだり」が同時に語られる。拒否によって傷つかな「へりくだった心」が本当のやさしさであろう。拒否することがやさしさであることも少なくない。
関連ギリシャ語
(εὔσπλαγχνος「心の優しい人」G2155)
(ταπεινοφροσύνη「謙遜・へりくだり」G5012)
(心のデボーション6297)
心のデボーション6298
「夜半ごろパウロとシラスと祈りて神を讃美する囚人ら聞きゐたるに、」 使徒16:25 大正文語訳聖書
「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。」 口語訳聖書
「真夜中の祈りと賛美」
投獄されたパウロとシラスが夜中に「神に祈り、さんびを歌う」と、「囚人たちは囚人たちは耳をすまして聞きいった。」(使徒16:25) 「耳をすまして聞きいるἐπακροάομαι」は「心に聴く、聴き入る、傾聴する」の意。投獄されながらも、不運を語らず、神に祈り賛美する声に、囚人たちは「しみじみと聴き入った」のである。その夜、大地震があり牢獄の戸が壊れたが、囚人たちはパウロと共にとどまり、逃亡する者は一人もいなかった。それを知って獄吏とその家族は神を信じた。(使徒16:16-34) 信仰の賛美と祈りは、時に説教よりも強く神を証しする。
関連ギリシャ語
(ἐπακροάομαι「聴き入る」G1874)
(心のデボーション6298)
心のデボーション6299
「己がさばく審判(さばき)にて己もさばかれ、己がはかる量(はかり)にて己も量(はか)らるべし」 マタイ7:2 大正文語訳聖書
「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」 口語訳聖書
「運命の三女神」
ギリシャ神話で「運命の三女神」を「モイラ Μοιραι(複数形 モイライ、μοίρα は「割り当て」の意味) と呼ぶ。「運命の三女神」は糸を紡ぎながら予言の歌をうたう。ラケシス(Λάχεσισ Lakhesis 割り当てる者)が運命の長さをはかり、クロート(Κλωθω Klotho 紡ぐ者)が「運命の糸」を紡ぎ、アトロポス(Ατροπος Atropos 不可避な者)が大きな鋏で糸を切断する。人は誰よりも運命の三姉妹の末娘を恐れる。しかし、「運命」にも「自分の量る秤で量り与えられる」という側面は含まれているのかもしれない。いたずらに「運命」に自分を譲り渡すことなく、「運命」が自分に与えるものはみな受け取るがよい。
関連ギリシャ語
(μετρέω「量る・量り与える」G3354)
(心のデボーション6299)
心のデボーション6300
「二人の者もまた途にて有りし事と、パンを擘き給ふによりてイエスを認めし事とを述ぶ。」 ルカ24:35 大正文語訳聖書
「そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。」 口語訳聖書
「内に燃えたではないか」
イエスが復活された後、クレオパともう一人の弟子がエマオの途上でイエスの復活について話しながら歩いていると復活のイエスが彼らに語り掛けた。二人の弟子はそれが復活のイエスであることに気づかなかったが、宿で、なお話を聞くうちに「お互の心が内に燃える」のを感じ、その人が復活されたイエスであることを知った。二人の弟子は、身におきた出来事を他の弟子たちに「話して聞かせた」。(ルカ24:35) ここでの「話した」にはギリシャ語ἐξηγέομαιが使われ、「詳しく述べる」の意をあらわず。「内に燃えるもの」を語るのは、「詳しく述べる」ことも難しいが、そうせざるを得ない。「内に燃えるκαίω」は「燃エ続けていた」を現わし、この火は燃え尽きることがない。
関連ギリシャ語
(καίω「内に燃える」G2545)
(心のデボーション6300)

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