心のデボーション6241
「凡て利を貧る者の途はかくの如し 是その持主をして生命をうしなはしむるなり」 箴言1:19 明治元訳聖書
「すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。」 口語訳聖書
「不正の利」
「すべて利をむさぼる者」は「自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらう」のである。しかして、むさぼる者の利は「その持ち主の命を取り去る」。(箴言1:18-19) 「自分のいのち נֶפֶשׁ(nephesh)H5315」は「魂、いのち、自己」の意。LXXは「ψυχή(生命、生命力、息、魂、霊魂」。不正の利は、求める者の魂、いのち、自己を取り去る。
(ψυχή「魂、いのち」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5590参照)
(ζωή「いのち」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2222参照)
(心のデボーション6241)
心のデボーション6242
「神よなんぢはわれらを試みて白銀をねるごとくにわれらを錬たまひたればなり」 詩篇66:10 明治元訳聖書
「神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。」 口語訳聖書
「愚夫愚妻」
青年はより向上し、抜きんでたこと存在になることを目指す。しかし、中年を過ぎるころから、互いの愚夫愚妻が現れるようになる。しかし、何でもない存在としての自分があり、それを自分として受け入れていく、そこに「いのちのうち」に保たれている自分がある。このうえは自らの愚夫愚妻を生きるがよい。愚夫を生き、愚妻を愛することから「魂の精錬」がはじまる。銀を練る「צָרַף(tsaraph)」H6884は「練る、試す、鍛える」の意、LXX「πυρόω」G4448。鉱石は粉砕され、熱を加え、鉱滓を除かれて美しく輝く銀があらわれる。
(πυρόω「精錬される」「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4448参照)
(πειρασμός「試み」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3986参照)
(心のデボーション6242)
心のデボーション6243
「なんぢら眞理に從ふによりて靈魂をきよめ、僞りなく兄弟を愛するに至りたれば、心より熱く相愛せよ。」 Ⅰペテロ1:22 大正文語訳聖書
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。」 口語訳聖書
「互に心から熱く」
「互に心から熱く愛し合いなさい」。(Ⅰペテロ1:22) 「心から熱くἐκτενῶς」は「心から熱心に、忍耐強く」の意。「偽りのない兄弟愛」は「真理に従うことによっる、きよめられたたましい」をもって、「互いを忍耐強く愛し合う愛」からくる。
(ἐκτενῶς「心から熱く」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1619参照)
(φιλαδελφία「兄弟愛」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5360参照)
(心のデボーション6243)
心のデボーション6244
「此の故に互に勸めて各自の徳を建つべし、これ汝らが常に爲す所なり。」 Ⅰテサロニケ5:11 大正文語訳聖書
「だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。」 口語訳聖書
「ストレス」
不思議なことだが、この世には、どこに行っても、ストレスを与える人と受ける人の二種類がいるようだ。しかし、ストレスを「受けるだけの人」「与えるだけの人」というのはない。ある時、相手からストレスを受けながら、それが相手にストレスを与えることになっていたりする。自分だけが一方的にストレスを受けていると感じていたのが、自分も相手に結構ストレスを与えていたとわかると少し気持が楽になったりする。なぜだろうか?
「互いに慰め」の「慰める」のギリシャ語は「παρακαλέω」で「側へ呼び寄せる、呼び求める、呼び掛ける」の意である。「互いに側へ呼び寄せる、呼び求める、呼び掛ける」ことからストレスは消えていくようだ。聖書協会共同訳聖書は「互いに励まし合い、互いを造り上げるようにしなさい」と訳す。「相互の徳を高めるοἰκοδομέω」は「互いを造り上げる(たち上げる)」である。
(παρακαλέω「互いに慰める」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3870参照)
(οἰκοδομέω「たち上げる」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3618参照)
(心のデボーション6244)
心のデボーション6245
「亡びんとせし者われを祝せり 我また寡婦の心をして喜び歌はしめたり」 ヨブ29:13 明治元訳聖書
「今にも滅びようとした者の祝福がわたしに来た。わたしはまたやもめの心をして喜び歌わせた。」 口語訳聖書
「死にかかっている者の祝福」
ヨブは試みを受ける以前から、「助けを求める貧しい者を救い、また、みなしごおよび助ける人のない者を救った」。ヨブの良き行為を受けて「死にかかっている者」がヨブを祝福し、「やもめの心」は喜びの歌を歌った。そして、今や彼らの祝福と賛美が「死にかけているヨブ」に届き、「死にかけているヨブ」を祝福する声を聞くのである。彼らの声は今や死にかかっているヨブが神に向けて発する祝福と賛美と重なって、ヨブは喜ぶのである。(ヨブ29:11-13)
(πειρασμός「試み」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3986参照)
(μακάριος「幸い」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3107参照)
(εὐλογία「祝福」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」2129参照)
(心のデボーション6245)
心のデボーション6246
「愛を追求むる者は人の過失をおほふ 人の事を言ひふるる者は朋友をあひ離れしむ」 箴言17:9 明治元訳聖書
「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。」 口語訳聖書
「愚かさを繰り返す」
「人のことを言いふらす者は友を離れさせる」。(箴言17:9) 「人のことを言いふらす」はへブル語「שָׁנָה」H8138で「同じことを繰り返す」(新改訳聖書)である。新共同訳聖書は「前言を翻す者は友情を裂く」と訳す。箴言26:11「犬が帰って来てその吐いた物を食べるように、愚かな者はその愚かさをくり返す(שָׁנָה)」。「人に愚かな言葉を繰り返す者は友情を引き裂く」。
(μωρία「愚か」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3572参照)
(心のデボーション6246)
心のデボーション6247
「イスラエルよ然ば我かく汝に行はん 我是を汝に行ふべければイスラエルよ汝の神に會ふ準備をせよ」 アモス4:12 明治元訳聖書
「それゆえイスラエルよ、わたしはこのようにあなたに行う。わたしはこれを行うゆえ、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」 口語訳聖書
「離層」
落葉樹は秋になると葉柄のつけ根にコルク質の細胞層ができる。それによって養分が遮断され、葉を紅や黄に色づかせる。弱い細胞で、それが崩壊すると葉は樹から離れるのである。つまり、散るための備えをする細胞で、「離層」と呼ぶ。一枚の葉にも散るための備えのあるのは慰めかもしれない。神はそのときを美しく計らってくださるからである。
(ἑτοιμάζω「備え」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2090参照)
(心のデボーション6247)
心のデボーション6248
「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず」 Ⅰコリント13:4 大正文語訳聖書
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」 新改訳聖書
「悲しむことは愛を伝えること」
1985年日本航空123便の御巣鷹山墜落事故で一人旅の小学三年生の次男を失い、その後、8.12連絡会を立ち上げた美谷島邦子さんは「悲しむことは愛を伝えること」「悲しむ能力を高めることはやさしさを見つけること」と語っている。
(μακροθυμώς 「寛容」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3116参照)
(ἀγαθός「善・親切」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G18参照)
(χρηστεῦομαι「親切」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4441参照)
(心のデボーション6248)
心のデボーション6249
「なんぢら人を審くな、審かれざらん爲なり」 マタイ7:1 大正文語訳聖書
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」 口語訳聖書
「人を審くな」
「人を審くな」はラゲ訳聖書では「人を是非することなかれ」である。「人のよしあしの判断をするな」という。もし、私が人のよしあしを判断しないなら、神も私のよしあしを判断されない。
(κρίνω「裁く」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2919参照)
(心のデボーション6249)
心のデボーション6250
「願はくは希望の神、信仰より出づる凡ての喜悦と平安とを汝らに滿たしめ、聖靈の能力によりて希望を豐ならしめ給はんことを。」 ロマ15:13 大正文語訳聖書
「どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」 口語訳聖書
「望みの神」
「望みの神ὁ θεὸς τῆς ἐλπίδος」の「τῆς ἐλπίδος」は「ἐλπίς」の属格で「希望の源である神、希望を与える神」をあらわす。しかし、この構文は同時に神が「望みを抱かれる神」であるという霊的読み方を許容する。「神の望み」の対象は、望みに外れ、その資格のない「私」である。神は「私」を望まれ「我渇く」と言われる。(ヨハネ4:7) 「神の私への望み(渇き)」を知って、私は「望み」を知り、「望みにあふれる」のである。(ロマ15:13)
(ἐλπίς「希望・望み」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1680参照)
(心のデボーション6250)
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