心のデボーション624

デボーション1
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心のデボーション6231

「ヨブその友のために祈れる時 ヱホバ、ヨブの艱難をときて舊に復ししかしてヱホバつひにヨブの所有物を二倍に増たまへり」 ヨブ42:10  明治元訳聖書

「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」 口語訳聖書

 「未解決の感情」 

人生には、しばしば「未解決の感情」が、未解決のままに整理されることなく永く残る。ヨブは苦悩の果てに神に立ち直り、神は「ヨブのすべての財産を二倍に増された」。しかし、ヨブは「失われた子ら」と「生き残った自分」の間にある「未解決の感情」をどのように整理したのだろうか? たとえ、「倍の子ら」が与えられたとしても、それで失われた子らが、その代わりになることは決してない。「その後のヨブ」を知るには、新たなヨブ記が必要になる。「ヨブ記」は42章をもって終わらない。「その後のヨブ」は主イエス・キリストの「十字架と復活」まで続く。ヨブの「未解決の感情」は「十字架と復活」によって、慰められ、新たな希望として生まれ変わるのである。「その後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。ヨブは年老い、日満ちて死んだ」。(ヨブ42:16-17) 「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」。(マタイ5:4)

(περίλυπος「悲しみ」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4030参照)
(παρακαλέω「慰める」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3870参照)

(心のデボーション6231)

心のデボーション6232

「汝の糧食を水の上に投げよ 多くの日の後に汝ふたたび之を得ん」 伝道11:1  明治元訳聖書

「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」 口語訳聖書

 「ときめき」

大人になることが、ときめきの喪失だとすれば、大人の世界も大したものではない。何かを待つ、ただ、それだけで人は生きていくことができる。しかし、待っているだけではときめきは生まれない。ときめきのために人生にしかけていくことだ。それは「パンを水の上に投げる」ようなものかもしれない。たくさんのしかけをもつ人は、多くのときめきを人生から受けることになる。

(ἐλπίς「希望」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1680参照)
(προσδοκάω「期待する」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4328参照)

(心のデボーション6232)

心のデボーション6233

「其右の手には長壽あり その左の手には富と尊貴とあり」 箴言3:16  明治元訳聖書

「その右の手には長寿があり、左の手には富と、誉がある。」 口語訳聖書

 「茶壽」

108歳を茶壽というが、調べると「茶」分解すると八十八のうえに十がふたつで合わせ108になることからの命名となる。ちなみにこの種の命名は多く、80歳の「傘壽」は「傘」の略字「仐」が八十となり、88歳の「米壽」は「米」を分解すると八十八、90歳の「卒壽」は「卆」が九十、99歳の「白壽」は「白」が百から一を引くと九十九になることからきている。いずれも漢字の数字遊びで、長寿の命名に深い意味はないようだ。箴言は「知恵を求めて得る人」の「右の手には長寿があり、左の手には富と、誉がある」と語る。

(σοφία「智慧」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4678参照)
(ζητέω「求める」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2212参照)

(心のデボーション6233)

心のデボーション6234

「されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり」 ルカ10:42 大正文語訳聖書

「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ」 口語訳聖書

 「くちばしがのびすぎた鷲」

アメリカの心理学者、ジェイムス・ヒルマンが「くちばしののびすぎた鷲」のお話しをしている。古代世界の伝説で「くちばしが内側に曲がりすぎた鷲」は、エサをついばむことができなくなり、ついに自分の喉をくちばしで刺して死んでしまう。「あまりにも多くを求める」と、それが自分を刺し殺す。多くを求めすぎないためには、「一つ」を見る以外にない。しかし、くちばしを永久にのばす「一つ」というのもある。

(χρεία「なくてならぬもの、必要なもの」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5532参照)
(ἐκλέγομαι「選ぶ」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1586参照)

(心のデボーション6234)

心のデボーション6235

「(茲に書きおくる事は、視よ、神の前にて僞らざるなり)」 ガラテヤ1:20  大正文語訳聖書

「ここに書いていることは、神のみまえで言うが、決して偽りではない。」 口語訳聖書

 「神に面と向かって」

パウロはガラテヤの教会に「ここに書いていることは、神のみまえで言うが、決して偽りではない。」と書き送る。(ガラテヤ1:20) 「神のみまえでἐνώπιον τοῦ θεοῦ」、ギリシャ語「ἐνώπιον」は「〔神に〕面と向かって」の意。真実を述べるときに使われる。しかし、神は常に人を御前に置かれ、人のすべての言動は「ἐνώπιον〔神に〕面と向かって」なされるのである。

(ἐνώπιον「面と向かって」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1799参照)

(心のデボーション6235)

心のデボーション6236

「我は凡ての聖徒のうちの最小き者よりも小き者なるに、キリストの測るべからざる富を異邦人に傳へ」 エペソ3:8  大正文語訳聖書

「すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、」 口語訳聖書

 「聖徒のうちの最小き者よりも小き者」

パウロは好んで自らを「聖徒のうちの最小き者よりも小き者」と証言する。(エペソ3:8) 「最小き者よりも小き者」と訳されるギリシャ語「ἐλάχῐστος」は「ἐλάχῐστος最も小さい」の最上級で、「最も小さい者」の中で、さらに「最も小さい者」の意。謙遜は聖徒の証しである。

(ἐλάχῐστος「小さき者、小さきものの中でさらに小さき者」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1647参照)
(ταπεινοφροσύνη「謙遜」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5012参照)

(心のデボーション6236)

心のデボーション6237

「生命にいたる門は狹く、その路は細く、之を見出す者すくなし。」 マタイ7:14  大正文語訳聖書

「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」 口語訳聖書

 「誤った答」

悩む人は、人生の問題に誤った答を出し、それに甘んじているところがある。正しい答がわからないというよりも、それを認めたくないのかもしれない。誤った物語を生きることで何かを避けようとしているのかもしれない。避けようとしているものの中に解決の道がある。しり込みしたくなるようなものに、しばしば「いのちに至る門」は開かれている。この狭くて小さな道は、やがて、広くて大きな世界へと導く。

(ἡ ὁδὸς ἡ ἀπάγουσα εἰς τὴν ζωὴν「いのちにいたる道」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2222参照)
(στενὴ  ἡ  πύλη「狭き門」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4439参照)

(心のデボーション6237)

心のデボーション6238

「心の苦みは心みづから知る其よろこびには他人あづからず」 箴言14:10  明治元訳聖書

「心の苦しみは心みずからが知る、その喜びには他人はあずからない。」 口語訳聖書

 「雪娘」

昔話「雪娘」は、ある雪の降る日に爺と婆が道に倒れれいる娘をみつけ、家に連れ帰って、囲炉裏の火をおこし、温めようとするが娘は「火にあたらなくていい」という。炬燵にもはいらない娘が寝ると、可哀そうに思って布団に「火箱」を入れてやると、翌朝、雪娘は溶けてしまう。(「おばばの夜語り」水沢謙一 平凡社 1978/6より)

病める心は温めさえすればよいのではない。余りに強く温めるといのちが溶けてしまう。本人が程よく感じる暖かさで温めるのがよい。

(καρδία「心」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2588参照)
(ἀπεκδέχομαι「抱く」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G553参照)

(心のデボーション6238)

心のデボーション6239

「招かるるとき、寧ろ往きて末席に著け、さらば招きたる者きたりて「友よ、上に進め」と言はん。その時なんぢ同席の者の前に譽あるべし。」 ルカ14:10  大正文語訳聖書

「むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。」 口語訳聖書

 「私の座る席」

教会では長い間に、「自分の座る席」ができるものだ。そこに、先に来た他人に座られると、自分が無視されたような思いになることもある。だが、あえて「末席につく」ことをして、「友よ、上座の方へお進みください」と言わせるのも心無い。心から友と礼拝を守るのが「自分の座る席(末席)」であろう。特定の場所のことではない。

(ἔσχατος「末席」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2078参照)
(ταπεινοφροσύνη「謙遜」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5012参照)

(心のデボーション6239)

心のデボーション6240

「驕傲は滅亡にさきだち誇る心は傾跌にさきだつ 」 箴言16:18 明治元訳聖書

「高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。」 口語訳聖書

  「高ぶりは滅びにさきだつ」

「高ぶりは滅びにさきだつ」(箴言16:18)、「人の高ぶりはその人を低くし、心にへりくだる者は誉を得る」。(箴言29:23) 「高ぶり」が現れるとき、「滅び」が近い。その「高ぶり」は「低くされ」、「へりくだる者」が「誉れ」を得る。高ぶりのもたらす「滅び」は、へりくだる者にも及ぶ。高ぶりの危機はへりくだる者の危機でもある。

(φυσιόω「高ぶり」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5448参照)
(ὑπερηφανία「高慢」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5243参照)

(心のデボーション6240)

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