心のデボーション6221
「心に謀るところは人にあり 舌の答はヱホバより出づ」 箴言16:1 明治元訳聖書
「心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。」 口語訳聖書
「偶然によって」
モンテーニュは「自分を探すところには自分を見出さず…、偶然によって自分を見出す」ということがあると言う。(モンテーニュ「エセー」原二郎訳 筑摩書房昭和43年より) 精神活動が活発なところに、「意味ある偶然」もよくおこるようだ。「偶然」に目を配ると思わぬ発見がある。
(προνοέω「はかる」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4308参照)
(心のデボーション6221)
心のデボーション6222
「裂に時あり縫に時あり 默すに時あり語るに時あり」 伝道3:7 明治元訳聖書
「裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、」 口語訳聖書
「縫い合わせる時」
「引き裂く」は着物を引き裂くことで、悲しみの表現である。悲しみが去った時には、それを「縫い合わせ」なければならない。引き裂くのは一瞬の行為である。力を込めて一気に引き裂く。しかし、縫い合わせるのは一針一針だ。二つに引き裂かれたのを合わせて、再び縫っていく。それは引き裂かれる悲しみを、指でなぞるようなつらい作業である。神が時を定めたら、裂かれたものを縫い合わせることをはじめなければならない。
(διαῤῥήσσω 「引き裂く」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1284参照)
(δεασπάω「引き裂く」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1288参照)
(ἐπιῤῥάπτω「縫う」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1976参照)
(καταλλαγή「和解」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2643参照)
(心のデボーション6222)
心のデボーション6223
「愛を追求むる者は人の過失をおほふ 人の事を言ひふるる者は朋友をあひ離れしむ」 箴言17:9 明治元訳聖書
「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。」 口語訳聖書
「愛」
「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす」。(箴言17:9) 「過ちを赦す」のヘブル語「כָּסָה」は「覆う、隠す、着せる」の意。LXXは「κρύπτω(秘密にする)」と訳す。「愛」は「人のあやまち」を暴くことをせず、それを赦し、覆い隠し、秘密にする。
(ἀπόκρυφος「秘密」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G614参照)
(κρυπτός「秘密」「秘密」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2927参照)
(κρύπτω「覆う、秘密にする」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2628参照)
(心のデボーション6223)
心のデボーション6224
「憂患にしづむ者はその友これを憐れむべし 然らずば全能者を畏るることを廢ん」 ヨブ6:14 明治元訳聖書
「その友に対するいつくしみをさし控える者は、/全能者を恐れることをすてる。」 口語訳聖書
「変わらぬ愛」
友人の欠点が気になりだしたら注意する必要がある。欠点を指摘するのが友としての務めのようにも思えるし、欠点を支えるのが役割かとも思えるのである。ヨブが落胆の谷底で望んだ「友情」とは「変わらぬ愛」であった。 その人への愛が変わったために見えてきた欠点なら、口にしないことだ。問題は気になって仕方のない彼の欠点にではなく、自分の愛が変わろうとしているところにあるのかもしれない。
(φίλος「友」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5384参照)
(φιλέω「愛、友愛」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5363参照)
(心のデボーション6224)
心のデボーション6225
「命令を守る者は禍患を受るに至らず 智者の心は時期と判斷を知なり」 伝道8:5 明治元訳聖書
「命令を守る者は災にあわない。知者の心は時と方法をわきまえている。」 口語訳聖書
「時のもつれ」
「知者の心は時と方法をわきまえている」。(伝道8:5) 「了解」の「了」は「ものがもつれてぶら下がったさま」をあらわす。「了悟」は「もつれにもつれたさまをはっきりと見知る」ことである。知者の心は、時のもつれの意味を知り、もつれを解く方法をわきまえる。
(γινώσκω「わきまえる」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1097参照)
(σοφός「知者」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4680参照)
(心のデボーション6225)
心のデボーション6226
「イエス答へて言ひ給ふ『ああ信なき曲れる代なるかな、我いつまで汝らと偕にをらん、何時まで汝らを忍ばん。その子を我に連れきたれ』」 マタイ17:17 大正文語訳聖書
「イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。」 口語訳聖書
「不信仰な曲がった時代」
イエスは病の子を癒すことのできない弟子たちをご覧になって、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」と嘆かれた。「不信仰な、曲がった時代γενεὰ ἄπιστος καὶ διεστραμμένη」、「曲がったδιαστρέφω」は「(神の道を)曲げ、(向きを変えて、正しい道から)脇道に入らせる」で、「腐敗し、堕落した」の意である。「曲がった時代」は「不信仰の時代」である。時代が腐敗したのではなく、人間が腐敗し、正しい道をかき乱すのである。
(διαστρέφω「曲がった」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1294参照)
(ἄπιστος「不信仰な」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G571参照)
(心のデボーション6226)
心のデボーション6227
「働く者はその勞して爲ところよりして何の益を得んや」 伝道3:9 明治元訳聖書
「働く者はその労することにより、なんの益を得るか。」 口語訳聖書
「労苦の意味」
思わぬことから一生働かなくてもよい程の遺産が入ったら、あなたは仕事を続けますか、それとも遊んで暮らしますかというアンケートがある。以前は、ほぼ百パーセントの人が「仕事」を選んだが、最近は「遊ぶ」を選ぶ人が少なくないそうである。仕事にどういう意味があるのかという問いに伝道者は「それを楽しむよりほかにない」と答える。遊んで暮らせるほどの遺産はめったに入らないので、真剣に考えることはないのだが…。
(κόπος「労苦」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2873参照)
(ἔργον「業、活動、労働、働き」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2041参照)
(ἐργάτης「仕事」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2040参照)
(心のデボーション6227)
心のデボーション6228
「詐僞をのぶる證人 および兄弟のうちに爭端をおこす者なり」 箴言6:19 明治元訳聖書
「偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。」 口語訳聖書
「争い」
神が「憎み、忌み嫌われるもの」が七つあり、その最後が「兄弟のうちに争いをおこす人」である。(箴言6:16-19)
漢字「争」の会意は「あるものを両者が手でひっぱりあう」さまをあらわす。「分かち合う」べき者が、醜く引き合う結果、ものごとを損なう。神はそれを喜び給わない。「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう」。(箴言10:12)
(ἔρις「争い」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2054参照)
(ἄμαχος「争い」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G269参照)
(ἐρίζω「争い」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2051参照)
(心のデボーション6228)
心のデボーション6229
「なんぢら人を審くな、審かれざらん爲なり」 マタイ7:1 大正文語訳聖書
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」 口語訳聖書
「想像の物語」
人について想像することの大半は事実ではない。相手を想像することは間違いではない。ただ、想像を事実と断定することが間違いを招くのだ。人は常に「物語」を創って相手を理解しようとする。自分に都合の良い「物語」も、都合の悪い「物語」も、事実からのものでないかぎり「最悪の物語」である。しかし、人は不思議なことに、想像の生み出す「物語」によっても救われる(生きていける)ことがあるものだ。
(διήγεσις「物語」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1335参照
(心のデボーション6229)
心のデボーション6230
「この故に我なんぢに告ぐ、この女の多くの罪は赦されたり。その愛すること大なればなり。赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し』」 ルカ7:47 大正文語訳聖書
「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」 口語訳聖書
「無知の罪」
他人から酷いことを言われたとき、「この人は何も知らないのだ」と思える人は、あまり深くは傷つかない。「無知の罪」を許せる人は、もう立ち直っている。「多く許された人は多く愛する」。(ルカ7:47) 「許す」のギリシャ語「ἀφίημι」には「大目に見る、そのままにする、問題を後回しにする」という意味が含まれている。
(ἀφίημι「許す」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G863参照
(心のデボーション6230)
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