心のデボーション6211
「如何なれば膝ありてわれを接しや 如何なれば乳房ありてわれを養ひしや」 ヨブ3:12 明治元訳聖書
「なにゆえ、ひざが、わたしを受けたのか。なにゆえ、乳ぶさがあって、わたしはそれを吸ったのか。」 口語訳聖書
「乳」
試みの後、ヨブは口を開き「自分の生れた日をのろい」、「なにゆえ、乳ぶさがあって、わたしはそれを吸ったのか」と言う。(ヨブ3:1,12) 漢字「乳」は会意文字で、左の部分は「母が子を手でおおってかばう」をあらわし、右の「乙」は「燕」の意形である。ヨブは母の胸に抱かれて乳を飲み、燕が子を育てるように育てられたのだ。試みに中に苦しむヨブは今も、その愛の中に生きている。
(πειρασμός「試み」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3986参照)
(ἀπεκδέχομαι「抱く」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G553参照)
(心のデボーション6211)
心のデボーション6212
「惰者よ汝いづれの時まで臥息むや いづれの時まで睡りて起ざるや」 箴言6:9 明治元訳聖書
「なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。」 口語訳聖書
「お父さんの年ごろ」
怠け者の息子に父親が「ジョージ・ワシントンはお前の年ごろには測量士になって一生懸命に働いていたんだぞ。お前、恥ずかしくないのか?」と意見すると、息子は「だけど父さん、ワシントンはお父さんの年ごろには大統領になっていたんだよ」と答える。(加島祥造編「ユーモア名句」より) さて、父親としては、この生意気な息子に一矢報いたいところだ。父親は息子に何と語ればいいのでだろうか?
(ἀργός「怠け者」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G692参照)
(ἐκνήφω「目をさます」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1594参照)
(心のデボーション6212)
心のデボーション6213
「我が子よ汝の父の敎をきけ 汝の母の法を棄ることなかれ」 箴言1:8 明治元訳聖書
「わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。」 口語訳聖書
「父の教訓と母の教え」
子どもに対して、父には「父の教訓」があり、母には「母の教え」がある。父は母とは別の、母は父とは別の「教訓と教え」がある。この二つは異なるようで、子へ愛において矛盾するものではない。父と母からそれぞれ聞くべき言葉を与えられた子は幸いである。
(πατήρ「父」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3962参照)
(μήτηρ「母」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3384参照)
(κηρύσσω「教え」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2784参照)
(心のデボーション6213)
心のデボーション6214
「人、全世界を贏くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、又その生命の代に何を與へんや。」 マタイ16:26 大正文語訳聖書
「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」 口語訳聖書
「まことのいのち」
いのちは全世界よりも尊いと聖書は語る。しかし、人は自分の内にその尊さが宿っていることを知らない。いのちの価値は、何ができるか、何を残したかで判断するものではない。「まことのいのち」とは、神に造られ、生かされているいのちである。生きている、ただ、それだけで尊い。この喜びの中で、人は自分の内に他人を見いだす。人は生きとし生けるもののいのちを宿している。
(ζωή「いのち」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2222参照)
(τιμή「尊い」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5092参照)
(心のデボーション6214)
心のデボーション6215
「この人は築きかけて成就すること能はざりき」と言はん。」 ルカ14:30 大正文語訳聖書
「『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。」 口語訳聖書
「信仰の完成」
もし人が「〔信仰の〕土台をすえただけで完成することができず」にいれば、「『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった(完成することが出来なかった)』と言ってあざ笑うようになろう」。(ルカ14:29-30) しかし、その不安は不要である。主イエスキリストは「信仰の導き手(「創始者」新改訳聖書)であり、またその完成者」であり、キリスト者は子のイエスを「仰ぎ見つつ、走る」者だからである。「完成するἐκτελέω」は「最後まで成し遂げる」の意である。
(ἐκτελέω「完成する」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1615参照)
(ἀρχηγός「創始者」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G747参照)
(τελείωσις「完成者」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5050参照)
(心のデボーション6215)
心のデボーション6216
「イエスは斯くも優れたる契約の保證となり給へり。」 へブル7:22 大正文語訳聖書
「このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。」 口語訳聖書
「さらに優れて契約」
イエスは「モーセの律法」よりも「更にすぐれた〔新しい〕契約」の保証となられた。(へブル7:22) 「保証ἔγγυος」は「保証、保証人」の意である。主イエスは単なる保証人ではなく、自ら十字架の犠牲を身に負い、神の確実な救いの「保証」となられたのである。主イエスは、イエスによって「神に来る者」を、みな「いつも救うことができる」。
(διαθήκη「契約」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1242参照)
(ἔγγυος「保証」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1450参照)
(心のデボーション6216)
心のデボーション6217
「何事をも思ひ煩ふな、ただ事ごとに祈をなし、願をなし、感謝して汝らの求を神に告げよ。」 ピリピ4:6 大正文語訳聖書
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」 口語訳聖書
「健康管理」
四十~六十歳の人を六百人選び、すぐれた医療チームに徹底した健康管理をさせた。そして同じ条件で更に六百人を選び、こちらには健康管理を一切させずに放置した。一年後、二つのグループを調べたところ、健康管理をしなかった方が健康状態が良かったという。健康管理が無駄なのではなく、健康をチェックし、いちいちそれを気にして、むしろ健康を損ねる人が多いということである。
(μεριμνάω「思い煩い」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3308参照)
(ὑγιαίνω「健康」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5198参照)
(心のデボーション6217)
心のデボーション6218
「これらの誡命は、みづから定めたる禮拜と謙遜と身を惜まぬ事とによりて知慧あるごとく見ゆれど、實は肉慾の放縱を防ぐ力なし。」 コロサイ2:23 大正文語訳聖書
「これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。」 口語訳聖書
「ひとりよがりの礼拝」
「ひとりよがりの礼拝」というものがある。如何に敬虔を装っても「わざとらしい謙遜」である。「知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない」。(コロサイ2:23)
「ひとりよがりの礼拝ἐθελοθρησκεία」は「自作の礼拝」のことで、「人間の規定や教による」礼拝である。
(ἐθελοθρησκεία「ひとりよがりの礼拝」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1479参照)
(προσκυνητής「礼拝」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4353参照)
(心のデボーション6218)
心のデボーション6219
「なんぢら人を審くな、審かれざらん爲なり」 マタイ7:1 大正文語訳聖書
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」 口語訳聖書
「無関心」
裁かれないように、一切人に近づかない人もいる。だが、それは一種の無関心に逃げこむことであり、その無関心が裁かれるだろう。「人に近づく」ことは、「裁き」と無縁にはできない。裁かずして人に近づき、彼によって自らを知れ。
(κρίνω「裁く」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2919参照)
(ἀπαλγέω「無感覚」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G524参照)
(心のデボーション6219)
心のデボーション6220
「互に虚言をいふな、汝らは既に舊き人とその行爲とを脱ぎて、」 コロサイ3:9 大正文語訳聖書
「互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、」 口語訳聖書
「互にうそを言ってはならない」
「互にうそを言ってはならないμὴ ψεύδεσθε εἰς ἀλλήλους,」。(コロサイ3:9) 「嘘を言う」のギリシャ語は「ψεύδομαι」で「自分で嘘を作り出す」の意。ラテン語訳は「mentīrī」で「心に反して語る」 を意味する。ギリシャ語ψεύδομαιは「嘘をつく」という言葉や行為などの外的行為を指し、ラテン語mentīrīは「心に反して、心の真実に反して、心を欺て」言う、という嘘の内的行為を指す。これら二つは一つである。
(ψεύδομαι「嘘を言う」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5574参照)
(παλαιός「古き人」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3820参照)
(心のデボーション6220)
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