心のデボーション6201
「又その預じめ定めたる者を召し、召したる者を義とし、義としたる者には光榮を得させ給ふ。」 ロマ8:30 大正文語訳聖書
「そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。」 口語訳聖書
「手に余るもの」
「お前の手に余る重い物を持ち上げるな。お前より力あり金のある人と交わるな。土鍋と鉄鍋が仲間になれようか。ぶつかると土鍋は粉々になってしまう。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵13:2 フランシスコ会訳聖書) 「手に余る物」には「私という存在」も含まれる。人はしばしば「手に余るほどに重い自分」を持ち上げようとする。持ち上がらないばかりか、その重さに潰されて粉々になってしまう。しかし、神が私に与える「私という存在」は、たとえそれが「手に余る」と感じるほどに重く思えても、持ち上げる力を添えて与えられた「私」であると知れよう。
(καλέω「召し」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2464参照)
(κλῆσις「召し」別稿「聖書ギリ シャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2821参照)
(φορτίζω「重荷、担うべきもの、担わせられるもの」(マタイ11:28)」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5412参照)
(心のデボーション6201)
心のデボーション6202
「我いへりねがはくはわが神よわがすべての日のなかばにて我をとりさりたまふなかれ 汝のよはひは世々かぎりなし」 詩篇102:24 明治元訳聖書
「わたしは言いました、「わが神よ、どうか、わたしのよわいの半ばでわたしを取り去らないでください。あなたのよわいはよろず代に及びます」と。」 口語訳聖書
「道の半ば」
道の半ばで神は私の力を弱くされたと詩人は語る。まだ道は遠く、日も暮れてはいない。そこで、詩人は神に「私の日の半ばに私を取り去らないでください」と祈る。まだ、道の途中と思っていたら、もうそこは終わりなのだろうか? いや、終わりも、まだ途中なのかもしれない。たとえ、道の半ばで取り去られても、まだ続く。この道を歩く者は本当に幸せである。
(ὁδός「道」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3598参照)
(心のデボーション6202)
心のデボーション6203
「皆一の所に往く 皆塵より出で皆塵にかへるなり」 伝道3:20 明治元訳聖書
「みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。」 口語訳聖書
「極める」
何事もひとつのことを極めると、それが遊びになるという。遊びの域に入らないと、勝ち負けにこだわり、ついにはそれが重荷に感じるようになるのかもしれない。老人に大切なのは、自分で自分を遊ばせられることであろう。やっかいなのは、自分を遊ばせてくれるほどに何かを極めるには、勝ち負けにこだわる世界も一度は通過しなければならないことか。
(τελειωτής 「完成、成熟」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5046参照)
(ἐκτελέω「完成する」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1615参照)
(ἐπιτελέω「完成する」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2005参照)
(ζάω「生きている」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2198参照)
(ἀναστροφή「生存、生き方」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G391参照)
(心のデボーション6203)
心のデボーション6204
「父の我を愛し給ひしごとく、我も汝らを愛したり、わが愛に居れ。」 ヨハネ15:9 大正文語訳聖書
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。」 口語訳聖書
「二人の恋人」
イソップ童話に二人の恋人をもつ男の話がある。男より年上の女は、恋人が年下であることを恥じて、ひそかに男の白髪頭から黒い毛を抜き、男より若い女は、恋人の白髪頭から白い毛を抜きました。そのため、遂に男は禿げ頭になってしまう。価値観の異なる二人の恋人を満足させることはできない。そもそも、二人の恋人を同時に愛することなど、どうしてできようか?
(ἀγάπη「愛」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G26参照)
(φιλία「友愛」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5373参照)
(心のデボーション6204)
心のデボーション6205
「祭の終の大なる日に、イエス立ちて呼はりて言ひたまふ『人もし渇かば我に來りて飮め。」 ヨハネ7:37 大正文語訳聖書
「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」 口語訳聖書
「だれでもかわく者は」
主は、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」と、「〔聞き逃す者が一人もないように!〕大声で叫んで」言われた。(ヨハネ7:37) 「誰でも」を意味するギリシャ語「εἴ τις」は、渇くものは「誰でも」その渇きが「何でも」の意である。人は自分が何に渇いているかを知らない。イエスに招かれてはじめて、その渇きを知る。自分のかすかな渇きを覚えることもの主の恵みによるのである。
(εἴ τις「〔かわく者は〕誰でも」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1536参照)
(διψάω 「渇く者」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1372参照)
(心のデボーション6205)
心のデボーション6206
「高きも深きも、此の他の造られたるものも、我らの主キリスト・イエスにある神の愛より、我らを離れしむるを得ざることを」 ロマ8:39 大正文語訳聖書
「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」 口語訳聖書
「北極点」
和泉雅子さんは日本人女性としてはじめて北極点に到達した。その後、北極点に立つ前と後では「人生が変わった」といいう。「何事もすべて気にせず、自由にのびのびと生きられるようになった。そして、何より人が好きになった」という。北極点といっても、そこは何もない、ただ氷点下五十度の白い世界である。人は自由にのびのびと生き、人を好きになるために、それぞれの到達すべき北極点があるようだ。
(ἐλεύθερος「自由」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1658参照)
(ἄφεσις「解放」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1859参照)
(心のデボーション6206)
心のデボーション6207
「われはエジプトの國よりなんぢを携へいでたる汝の神ヱホバなり なんぢの口をひろくあけよ われ物をみたしめん」 詩篇81:10 明治元訳聖書
「わたしはエジプトの国から、あなたをつれ出したあなたの神、主である。あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」 口語訳聖書
「あなたの口を広くあけよ」
「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう」。(詩篇81:10) 神は「わたしは麦の最も良いものをもってあなたを養い、岩から出た蜜をもってあなたを飽かせるであろう」と言われているが、イスラエルの民は「〔神の〕声に聞き従わず、〔神を〕好まなかった」。(詩篇81:11)
(χάρις「恵み」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5485参照)
(心のデボーション6207)
心のデボーション6208
「直者はその正義によりて救はれ 悖逆者は自己の惡によりて執へらる」 箴言11:6 明治元訳聖書
「正しい者はその正義によって救われ、不信実な者は自分の欲によって捕えられる。」 口語訳聖書
「やぶの二羽」
「A bird in the hand is worth two in the bush. 手の中の一羽はやぶの二羽にまさる」。とはいえ、やぶの中で鳴く鳥は、手の中の鳥より大きく見え、それも二羽だ。これを手に入れれば三羽ではないか! 「欲」はいつもそうして、人からすべてを奪う。
(ἐπιθυμία「欲」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1939参照)
(心のデボーション6208)
心のデボーション6209
「なんぢら人を審くな、審かれざらん爲なり」 マタイ7:1 大正文語訳聖書
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。」 口語訳聖書
「裁く」
「裁くκρίνω」は「判断する、意見である、裁判する、裁く、審判する、判定する、分離する、別々にする、分ける、区別する、識別する」ことである。人は「裁く」とき、相手を自分から「分離し」、自分とは「分け、区別」する。どのような理由によっても、その存在ゆえに人を自分から「分離」することはできない。人が何者であるかを断定するとき、人は「神」になる。
(κρίνω「裁く」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2919参照)
(心のデボーション6209)
心のデボーション6210
「怠ることなく、信仰と耐忍とをもて約束を嗣ぐ人々に效はんことを求む。」 ヘブル6:12 大正文語訳聖書
「怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。」 口語訳聖書
「ヤブラン」
ヤブラン(藪蘭、学名Liriope muscari)は木陰や草陰の厳しい環境でもしっかり根を張り、紫の綺麗な花を咲かせる。そこから花言葉は「忍耐、謙虚、隠された心」などと呼ばれる。「忍耐」はいつか人知れず花を咲かせる。忍耐のともなわない成功はない。「忍耐μακροθυμία」は「柔らかさ」である。
(μακροθυμία「忍耐」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3119参照)
(心のデボーション6210)
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