心のデボーション6111
「ここにイエス弟子たちに言ひたまふ『人もし我に從ひ來らんと思はば、己をすて、己が十字架を負ひて、我に從へ。』」 マタイ16:24 大正文語訳聖書
「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」 口語訳聖書
「自分を捨てて」
この主イエスの御言葉を聴く者は、自分の何を手放すべきかを、すでに知っているはずである。なぜなら、主は手放すべきものを知ったうえでこの御言葉を語られるからである。「すべてを捨て去れ、さすればすべてを見出すだらう」。(アケンピス「基督のまねび」内村達三郎訳 春秋社昭和21/ 2より) 主は「すべてを捨て去った(ἀπαρνέομαιG533)」あとに「見出すすべて」を御存じである。
(心のデボーション6111)
心のデボーション6112
「絶えず汝らのために感謝し、わが祈のうちに汝らを憶え、」 エペソ1:16 大正文語訳聖書
「わたしの祈のたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。」 口語訳聖書
「とりなしの祈り」
「あなたがたのことを覚えて祈っています」は「祈りの中に、あなたがたを思い出します」という意味である。忘れていた人を懐かしく思い出すというよりも、祈りの中にその人が立ち現れるのである。パウロは、その度に「私は神に感謝することを止めません」という。とりなし(ἔντευξις G1783)は、「私は、その人のために(その人に成り代わって)、感謝します」という祈りである。あなたは祈りの中に、誰と出会い、その人に成り代わって彼が見いだせていない神への感謝を見出して喜ぶだろうか。
(心のデボーション6112)
心のデボーション6113
「さらば彼らに效ふな、汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ。」 マタイ6:8 大正文語訳聖書
「だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」 口語訳聖書
「しかが谷川を慕いあえぐように」
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」。(マタイ7:7) しかし、「父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」。(マタイ6:8) 「求めるαἰτέω(G154)」は「乞い求めよ」の意。漢字で「乞」は「詰まった息が漏れ出るさま」をあらわす。思いをつまらせて神を求めるのである。「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」。(詩篇42:1)
(心のデボーション6113)
心のデボーション6114
「互に仁慈と憐憫とあれ、キリストに在りて神の汝らを赦し給ひしごとく、汝らも互に赦せ。」 エペソ4:32 大正文語訳聖書
「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」 口語訳聖書
「スマート」
私は生まれてこのかた、自分がスマートだと思ったことは一度もない。人から(妻を含めて)スマートだといわれたことも一度もない。ですから、スマートについて書くのはおこがましいのだが、「スマートsmart」のもともとの意味は「痛みを感じる」だそうである。ということは、自分がスマートでないと思えることがスマートだろうか?スマートはやさしさ(πραΰ́της G4240)のことである。
(心のデボーション6114)
心のデボーション6115
「モーセまた言けるは請ふ我等を棄去なかれ汝は我儕が曠野に營を張るを知ば願くは我儕の目となれ」 民数10:31 明治元訳聖書
「モーセはまた言った、「どうかわたしたちを見捨てないでください。あなたは、わたしたちが荒野のどこに宿営すべきかを御存じですから、わたしたちの目となってください。」 口語訳聖書
「神は私の目」
「耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、目を造った者は見ることをしないだろうか」。(詩篇94:9)「あなたは、わたしたちが荒野のどこに宿営すべきかを御存じです」。(民数10:31) 神は、私が自分の居場所を見失ったときにも、私の居るべき所を御存知であり、そこに至る道を教えられる。「神は私の目(ὀφθαλμός G3788)」である。
(心のデボーション6115)
心のデボーション6116
「もし神の光のうちに在すごとく光のうちを歩まば、我ら互に交際を得、また其の子イエスの血、すべての罪より我らを潔む。」 Ⅰヨハネ1:7 大正文語訳聖書
「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」 口語訳聖書
「光の中を歩む」
「光の中を歩く者」はいかなるところにも光を見出し、光に歩み、光に歩む者を見出す。「光」は「真理ἀλήθεια(G225)」のことである。「神は光であって、神には少しの暗いところもない」。(Ⅰヨハネ1:5)
(心のデボーション6116)
心のデボーション6117
「是に於て彼等その手にある異神およびその耳にある耳環を盡くヤコブに與へしかばヤコブこれをシケムの邊なる橡樹の下に埋たり」 創世35:4 明治元訳聖書
「そこで彼らは持っている異なる神々と、耳につけている耳輪をことごとくヤコブに与えたので、ヤコブはこれをシケムのほとりにあるテレビンの木の下に埋めた。」 口語訳聖書
「人生の岐路」
ヤコブはエソウとの和解を果たした後にベテルに移動し、そこに祭壇を築いた。ベテルはヤコブが人生のどん底にいた時に、「わたしはあなたとともにある」と約束される神と出会った場所であった。ヤコブの人生は、ベテルからはじまったのである。岐路にたって迷う時には、人生の原点に戻り、苦難の日にともにいてくれたのは誰か、どん底の生活で出会った希望(ἐλπίς G1680)は何だったかを振り返ってみたい。
(心のデボーション6117)
心のデボーション6118
「これ凡ての人の審判をなし、すべて敬虔ならぬ者の不敬虔を行ひたる不敬虔の凡ての業と、敬虔ならぬ罪人の、主に逆ひて語りたる凡ての甚だしき言とを責め給はんとてなり」 ユダ1:15 大正文語訳聖書
「それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」 口語訳聖書
「不信心な罪」
人は無知からも罪を犯す。たとえ無知からの罪であっても、罪には光をあてる必要がある。無知ゆえに罪の影響は大きいのである。「信仰の無知が引き起こす罪」も「主にそむくこと」に他ならない。
(心のデボーション6118)
心のデボーション6119
「是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は、凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり」 マタイ6:32 大正文語訳聖書
「これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」 口語訳聖書
「飲み食い」
神の民」のにとっても「飲み食い」は切に求めるところである。しかし、その求め(χρῄζωG5535)は、「我をして貧しからしめず、また富しめず、ただなくてならぬ糧を与えたまえ」(箴言30:8)との祈りの中にある。
(心のデボーション6119)
心のデボーション6120
「われ振反りて我に語る聲を見んとし、振反り見れば七つの金の燈臺あり。」 黙示1:12 大正文語訳聖書
「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。」 口語訳聖書
「七つの燭台」
ヨハネに語り掛けた「七つの金の燭台」の間に立つ「人の子のような方」は復活のイエスである。それは幕屋の燭台(出エジプト25:31-32)、ソロモンの神殿の燭台(Ⅰ列王7:49)、ゼカリヤの幻のなかの燭台(ゼカリヤ4:2)のいずれとも異なる燭台で、「七つの燭台(λυχνίαG3087)」は「七つの教会」を指す。(黙示1:11) 復活のイエスは地のすべての教会の間に立たれ「光」となり給うのである。地の教会は、「人の子を照らす光」を失ってはならない。
(心のデボーション6120)
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