心のデボーション611

デボーション1
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心のデボーション6101

「更に進みゆきて、また二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイとともに舟にありて網を繕ひをるを見て呼び給へば、」 マタイ4:21  大正文語訳聖書

「そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、」 口語訳聖書

 「網を繕ひをるを見て」

「網を繕う」は「網を備える」の意味である。
「備える καταρτίζω  カタルティゾー」は2つの意味がある。

1.「整理する、修復する、元の状態に戻す」から「立ち直らせる、正しい心に戻す、完全にする、完成する」の意味にも用いられる(ガラテヤ6:1、Ⅱコリント13:11、Ⅰテサロニケ3:10)

2.「用意する、造る、創造する」で、へブル11:3「この世界が神の言葉によって創造(καταρτίζω  カタルティゾー)され」、「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わされた(用意された καταρτίζω  カタルティゾー)」(マタイ21:16)。

神は私を「修復し、立ち直らせ、完全にし」、「私」を用意される<創造される>。

(心のデボーション6101)

心のデボーション6102

「我は煙のなかの革嚢のごとくなりぬれども 尚なんぢの律法をわすれず」 詩篇119:83  明治元訳聖書

「わたしは煙の中の皮袋のようになりましたが、なお、あなたの定めを忘れませんでした。」 口語訳聖書

 「煙の中の皮袋」

「煙の中の皮袋」(詩篇119:83)とは、もう使わなくなった古い皮袋のことである。それは天井の窓格子に吊され、煙とすすで黒ずんでいる。人生には、自分の役割がそこで終わる時点が幾度かある。新しく神のことばに聞く時がきたのである。一つの役割を終わらせるには、はじめる時と同じ姿勢で祈ることだ。一つをきちんと終わらせないと、新しいことははじまらない。「煙りの中の革袋」になって祈りたい。作者は「煙の中の皮袋のようになりましたが、なお、あなたの定めを忘れません」と祈っている。神は最後まで私に「勤めδιακονία(G1248)」を与えてくださる。

(心のデボーション6102)

心のデボーション6103

「假令われ汝らを破る爲ならずして建つる爲に、主が我らに賜ひたる權威につきて誇ること稍過ぐとも恥とはならじ。」 Ⅱコリント10:8  大正文語訳聖書

「たとい、あなたがたを倒すためではなく高めるために主からわたしたちに賜わった権威について、わたしがやや誇りすぎたとしても、恥にはなるまい。」 口語訳聖書

 「高めるために」

パウロは権威をもって福音を語った。この「権威」は「倒すためではなく高めるために主から賜わった権威ἐξουσία(G1849)」であった。(Ⅱコント10:8) 「高めるためοἰκοδομή(G3619)」は「築き上げるため」の意、新共同訳聖書は「造り上げるため」と訳す。パウロは「人を造りあげるため(人を築き上げ、完成するため)」に使徒と召されて「仕える者」となった。

(心のデボーション6103)

心のデボーション6104

「われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや」 詩篇121:1

「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。」 口語訳聖書

 「縄文杉」

屋久島の縄文杉は巨大なこぶのかたまりに見える。決して「材木として価値のある樹」には見えないことが、伐採もされずに六千年を生き抜けた理由だという。しかし、「それは人間が勝手に決めた価値で、自分とは何の関係もない」と縄文杉は言うに違いない、自分はただ在り続けてきただけだと…。縄文杉の前で、存在(στάσις G4714)の意味を厳しく問われるのは人間の側かもしれない。考えたいのはただ在り続けることの意味と価値である。

(心のデボーション6104)

心のデボーション6105

「そは我らの主イエス・キリストの我に示し給へるごとく、我わが幕屋を脱ぎ去ることの速かなるを知ればなり。」 Ⅱペテロ1:14  大正文語訳聖書

「それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。」 口語訳聖書

 「神の臨在の場」

ペテロは人の地上でのいのちを「地上の幕屋にいる間」と言い、やがて来る「死」を「この幕屋を脱ぎ捨てる時」と言う。(Ⅱペテロ1:13-14) 「幕屋」を意味するギリシャ語は「σκήνωμα(G4638)」は「天幕、仮小屋」の意であり、旧約聖書の「神の幕屋(聖所)をあらわす語である。「肉体」は地に張られた「天幕(仮小屋)」であり、神の臨在の場(祈りと礼拝の場)である。やがて、われらはこの「幕屋を脱ぎ去り」、天の父なる神の懐に抱かれる。

(心のデボーション6105)

心のデボーション6106

「さらば何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな」 マタイ6:31 大正文語訳聖書

「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」 口語訳聖書

 「思い煩い」

「思い煩う」を意味するギリシャ語はμέριμνα(G3308)で、この語は動詞μερίζω「分ける、分割する」から派生し「心が分割された状態、気が散っている状態」をあらわす。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言う問題で思い煩い、心を鈍らせてはならない。(ルカ21:34) 「あなたがたの思い煩い(μέριμνα)を、ことごとく神にゆだねなさい。神があなたがたを顧みてくださるからです」。(Ⅰペテロ5:7)

(心のデボーション6106)

心のデボーション6107

「汝深く自ら愼み汝の心を善く守れ恐くは汝その目に觀たる事を忘れん恐くは汝らの生存らふる日の中に其等の事汝の心を離れん汝それらの事を汝の子汝の孫に敎へよ」 申命4:9  明治元訳聖書

「ただあなたはみずから慎み、またあなた自身をよく守りなさい。そして目に見たことを忘れず、生きながらえている間、それらの事をあなたの心から離してはならない。またそれらのことを、あなたの子孫に知らせなければならない。」 口語訳聖書

 「意味を伝える」

子どもの心にはさまざまな感情がおきている。しかし、幼い子どもには、自分の内におこる感情の意味δύναμις(G1411)がわからない。これが悲しみというものだということを大人は子どもに伝える責任がある。子どもはそれを受けて、自分の力で悲しみを乗り越えていく。それには大人自身が「慎み」と「用心深さ」をもっていのちの営みに向かう必要がある。自分が生き得た世界しか、子どもには伝えられない。 

(心のデボーション6107)

心のデボーション6108

「なんぢを贖ひなんぢを胎内につくれるヱホバかく言たまふ 我はヱホバなり我よろづのものを創造し ただ我のみ天をのべ みづから地をひらき」 イザヤ44:24  明治元訳聖書

「あなたをあがない、あなたを胎内に造られた主はこう言われる、「わたしは主である。わたしはよろずの物を造り、ただわたしだけが天をのべ、地をひらき、だれがわたしと共にいたか」 口語訳聖書、

 「助け主」

「あなたを胎内に造られた主」が「あなたをあがなわれる」。(イザヤ44:24) 神は「はじめからわたしと共におられる」からである。神は「あなたを造り、あなたを胎内に形造り、あなたを助ける主」(イザヤ44:2)である。「助け主παράκλητος(G3875)」は「傍らに呼ぶ」の意味で、「聖霊」はπαράκλητοςと呼ばれる。「「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない」。(へブル13:6)

(心のデボーション6108)

心のデボーション6109

「是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は、凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり」 マタイ6:32 大正文語訳聖書

「これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」 口語訳聖書

 「必要であること」

「何が欠けているか」人は「私」に何が満たされるべきか(何が足りないか)を、神によって知る。そして、人は自らに満たされ、また欠けているものによって、神を知る。祈りは自分に必要χρῄζω(G5535)なものを神に求めることではない。自分に何が必要か(何が欠けているか)を神に聞くことである。ギリシャ語χρῄζω(G5535)は「必要とするもの、足りないもの、欠けているもの、望むもの」の意である。

(心のデボーション6109)

心のデボーション6110

「明哲はこれを持つものに生命の泉となる 愚なる者をいましむる者はおのれの痴是なり」 箴言16:22  明治元訳聖書

「知恵はこれを持つ者に命の泉となる、しかし、愚かさは愚かな者の受ける懲らしめである。」 口語訳聖書

 「命の泉」

「知恵は、その人の中で永遠に住まい、その子孫とともに永久にとどまる」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:15  フランシスコ会訳聖書) 「神の知恵」は人の中に「永遠に住い」、「その子孫とともに永久にとどまる」。この「知恵* חָכְמָ֣ה *H2451」は「悟り」であり、神とのかかわりにおける認識である。「知恵はこれを持つ者に命の泉(πηγήG4077)となり」、その水は枯れることがない。(箴言16:22)

(心のデボーション6110)

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