心のデボーション6081
「あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。」 ヨハネ10:26 大正文語訳聖書
「しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。」 口語訳聖書
「イエスの群れの羊」
もし、羊が羊飼い信頼しないなら、その羊は羊飼いに属さない羊である。もし、イエスを信じるといいながら、イエスを信用しない(信頼しない)なら、彼はイエスに属さない。「あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。わたしの羊(τὰ πρόβατα τὰ ἐμὰ)はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」。(ヨハネ10:26-27)
(心のデボーション6081)
心のデボーション6082
「ペテロこの人を見てイエスに言ふ『主よ、この人は如何に』」 ヨハネ21:21 大正文語訳聖書
「ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」 口語訳聖書
「召命」
復活されたイエスはペテロに「わたしに従いなさい」と語られた。このときペテロは「主よ。この人はどうですか」と、近くにいた「イエスの愛弟子」を気づかった。イエスはペテロに「それが、あなたに何のかかわりがありますか」と答えられる。召命について、他人と自分をくらべるのはいらぬ詮索である。私一人の問題として神の前に立つしかない。他人はどうであれ「わたし」の問題なのである。
(心のデボーション6082)
心のデボーション6083
「汝らは明かに我らの職によりて書かれたるキリストの書なり。而も墨にあらで活ける神の御靈にて録され、石碑にあらで心の肉碑に録されたるなり。」 Ⅱコリント3:3 大正文語訳聖書
「そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。」 口語訳聖書
「キリストの手紙」
証しのために教会に遣わされる人々は、神からの「キリストの手紙」である。「墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれた」活ける手紙であり、神の栄光をあらわす。
(心のデボーション6083)
心のデボーション6084
「父と母とを敬へ」また「己のごとく汝の隣を愛すべし」 マタイ19:19 大正文語訳聖書
「父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」 口語訳聖書
「合わないタイプ」
気持ちの通じる人と親しくなりたいと思いながら、いつも、自分と合わないタイプの人ばかりを選んでいることがある。少しつき合うと、相手のいやな部分が見えてきて、それに耐えられなくなって別れてしまう、その繰り返しである。「自分と合わないタイプの人」とは、本当は自分自身なのかもしれない。つまり、自分自身とも合っていないのだ。自分を愛し、親しくなれば、「合わないタイプ」ばかりを選ぶ必要などなくなる。
「愛には偽りがあってはならな(ἀνυπόκριτος)。悪は憎み退け、善には親しみ結び、」 ロマ12:9
(心のデボーション6084)
心のデボーション6085
「我なんぢに勸む、なんぢ我より火にて煉りたる金を買ひて富め、白き衣を買ひて身に纏ひ、なんぢの裸體の恥を露さざれ、眼藥を買ひて汝の目に塗り、見ることを得よ。」 黙示3:18 大正文語訳聖書
「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。」 口語訳聖書
「裸の恥」
「恥」という漢字は「耳」と「心」からなり、「耳が赤くなる心」が「恥」である。ギリシャ語で「恥αἰσχύνη」も「赤面すべきこと」をさす。しかし、聖書の「恥」は「裸の恥ἡ αἰσχύνη τῆς γυμνότητός σου」(黙示3:18)、すなわち、罪を犯したアダムとエバが神の目から隠そうとしていちじくの葉で身を覆い、園の樹の間に身を隠さねばならなかった罪の恥である。(創世3:7-10)
(心のデボーション6085)
心のデボーション6086
「又いづれの御使に曾て斯くは言ひ給ひしぞ 『われ汝の仇を汝の足臺となすまでは、 我が右に坐せよ』 と。」 へブル1:13 大正文語訳聖書
「神は、御使たちのだれに対して、/「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは、/わたしの右に座していなさい」/と言われたことがあるか。」 口語訳聖書
「仕える霊」
神は天と地を創造され、その「御手のわざ」は休むことがない。(へブル1:10) 神の御使いも「神の右に座してはいない」。「御使たちはすべて仕える霊(πνεύματα εἰς διακονίαν)であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたもの」である。だから、救われたわれらも御使いとともに働くのである。(へブル1:14)
(心のデボーション6086)
心のデボーション6087
「地とそれに充るもの世界とその中にすむものとは皆ヱホバのものなり」 詩篇24:1 明治元訳聖書
「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」 口語訳聖書
「コスモス」
コスモスは群生しても、ちっともじゃまにならない、ひかえめな花である。メキシコ原産で十八世紀末にスペインの植物園長カヴァニレスが「コスモス」と名づけたのだそうである。「コスモス」はギリシャ語κόσμοςで「秩序、世界」を意味する。宇宙には秩序があり、それはひかえめで美しい。この「秩序」を聖書は「平和」と呼ぶ。(Ⅰコリント14:33)コスモスの花言葉は「秩序」である。
(心のデボーション6087)
心のデボーション6088
「且おほくの證人の前にて、我より聽きし所のことを他の者に教へ得る忠實なる人々に委ねよ。」 Ⅱテモテ2:2 大正文語訳聖書
「そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。」 口語訳聖書
「言葉に緩慢な者」
モンテーニュは、言葉に緩慢な者は説教家に、俊敏な人は弁護士に向いているという。その理由は、説教はあらかじめ念入りに考えてからでないと語れないからであり、弁護士は常に融通自在で常に論争に飛び込まねばならないからである。(モンテーニュ「エセー」原二郎訳 筑摩書房昭和43年)弁護士的説教家は聞いて面白いが、その場だけのものに聞こえるのはそのためか?
(心のデボーション6088)
心のデボーション6089
「さらば何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな」 マタイ6:31 大正文語訳聖書
「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」 口語訳聖書
「ぼのぼの」
いがらしみきおさんの漫画「ぼのぼの」の主人公ラッコの「ぼのぼの」は、いつも貝を手に持っているか、わきの下にある袋に貝を入れている。作家の南木佳士さんは、ある日のぼのぼのと乱暴者のアライグマとの会話をひろっている。
手持ちの貝を全部食べてしまってぼのぼのはアライグマ君に
「貝を全部たべちゃったなぁ」
「それがどうしたわけ? 何かこまるわけ?」
「うん、食べ物がなくなると後でこまるとおもうなぁ…」
「後でこまることを、なんで今こまるわけ?」
「・・・」
南木佳士さんは、「アリとキギリス」を思い出し、「ぼくは、アリの生活で蓄えた財を使ってキリギリスの老後をおくれたら最高ではないかと考えた」という。(南木佳士『猫の領分』より)だが、今、困っておかないと、後になって困ることができなくなるのではないか?
(心のデボーション6089)
心のデボーション6090
「我は善き牧者にして、我がものを知り、我がものは我を知る、」 ヨハネ10:14 大正文語訳聖書
「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。」 口語訳聖書
「わたしの羊を知る」
主は「わたしの羊を知る」と言われる。それまで、私は自分が「主の羊」であることを知らなかった。主に知られることによって私は「主を知る」のである。詳訳聖書(いのちのことば社)は「知る」を「見分ける」と説明する。主は「私」を見分け、見極められる。だから、私は神を見分け、見極めたいと願うのである。
(心のデボーション6090)
コメント