心のデボーション6051
「神を知りつつも尚これを神として崇めず、感謝せず、その念は虚しく、その愚なる心は暗くなれり。」 ロマ1:21 大正文語訳聖書
「なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。」 口語訳聖書
「神をあがめる」
「神を知っている」が喜びがないという人は、経験の中に神を知るということがないためかもしれない。まず、「感謝をすることεὐχαριστέω」から始めるがよい。神への感謝は「神へのうやまい」に結びつくからである。「神をあがめるδοξάζω」は「栄光をもって飾る、崇める、誉めたたえる」の意で「感謝」はひとつの礼拝である。
(心のデボーション6051)
心のデボーション6052
「なんぢ海の泉源にいたりしことありや 淵の底を歩みしことありや」 ヨブ38:16 明治元訳聖書
「あなたは海の源に行ったことがあるか。淵の底を歩いたことがあるか。」 口語訳聖書
「空想虚言」
あきれるほど見事にだまされることがある。はじめは小さなうそなのだが、それを繰り返すうちに本人にも空想と現実の区別がつかなくなり、本気で笑ったり、悲しんだりするので、うそと見抜けない。当人に人をだますつもりはない。ただ心に暗黒の淵が口をひろげていて、そこに吸い込まれるような不安に怯えながら、「深い淵の奥底を歩き回って」いるのかもしれない。空想虚言とは、深い淵の不安や悲しみの物語である。
(心のデボーション6052)
心のデボーション6053
「若邑の中に五十人の義者あるも汝尚ほ其處を滅ぼし其中の五十人の義者のためにこれを恕したまはざるや」 創世記18:24 明治元訳聖書
「たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。」 口語訳聖書
「地の祝福の基」
アブラハムは「正しい人」のために神が堕落したソドムとゴモラへの審判を思い止めるように祈った。(創世記18:22-33) 信仰は個人に始まり、個人に終わらない。アブラハムが信じたのは、常に全体を負う個人、すなわち「地の祝福の基」としての個人であった。(創世記12:1-4)
(心のデボーション6053)
心のデボーション6054
「ヱホバいふイスラエルの家よこの陶人のなすが如くわれ汝になすことをえざるかイスラエルの家よ陶人の手に泥のあるごとく汝らはわが手にあり」 エレミヤ18:6 明治元訳聖書
「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」 口語訳聖書
「神の作品」
ある陶芸家は失敗作が「もったいなく」て、砕くことができないという。もう一度釉薬をかけ、火に入れてやると、思わぬ作品に生まれ変わることがあるというのである。神は決してあきらめない陶器師だ。砕くのはもったいないと、幾度でもねり、火にかける。神の作品に失敗はない。それは「神のわざがこの人に現われるため」(ヨハネ9:3)である。すべての人はそのような「思わぬ神の作品」かもしれない。
(心のデボーション6054)
心のデボーション6055
「されば我らは、汝らが忍べる凡ての迫害と患難との中にありて保ちたる忍耐と信仰とを、神の諸教會の間に誇る。」 Ⅰテサロニケ1:4 大正文語訳聖書
「そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。」 口語訳聖書
「忍耐と信仰」
テサロニケ教会は「迫害と患難との中」で、よく「忍耐と信仰」を示した。(Ⅰテサロニケ1:4) 「忍耐」と訳されるギリシャ語「ὑπομονη」は「重荷の下で踏みとどまって動かいこと」の意で、この語には「待望」の意もある。迫害と患難の中にあって望みを失うことなく、そこにしっかりと踏みとどまると信仰である
(心のデボーション6055)
心のデボーション6056
「されど靈の汝らに服するを喜ぶな、汝らの名の天に録されたるを喜べ」 ルカ10:20 大正文語訳聖書
「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」 口語訳聖書
「名が天に記入される」
宣教に派遣されたイエスの72人の弟子たちが戻って、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」と宣教の成果を報告した。するとイエスは「霊があなたがたに服従することを喜ぶな」と戒められ、「むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」と教えられた。(ルカ10:20) 「名が天にしるされるἐγγράφω」は「名を天に書き込まれる、名を天に記入される」の意。イエスの名によって悪霊があなたに服従するしても、そのようなことで喜ぶな。それは主がなされたことである。むしろ、自分の名が天に記録され、神が自分を記憶し給うことをこそ驚き、喜べ。
(心のデボーション6056)
心のデボーション6057
「而してヨシユア語りけらく活神なんぢらの中に在してカナン人ヘテ人ヒビ人ペリジ人ギルガジ人アモリ人ヱブス人を汝らの前より必ず逐はらひたまふべきを左の事によりてなんぢら知るべし」 ヨシュア3:10 明治元訳聖書
「そしてヨシュアは言った、「生ける神があなたがたのうちにおいでになり、あなたがたの前から、カナンびと、ヘテびと、ヒビびと、ペリジびと、ギルガシびと、アモリびと、エブスびとを、必ず追い払われることを、次のことによって、あなたがたは知るであろう。」 口語訳聖書
「今日から」
神はヨシュアに「きょうから、あなたを大いなる者としょう」と告げる。朝ごとに「今日から」という神のことばを聞きたい。「大いなる者」とは偉大な仕事をした者のことではない。夕になって、神が「私とともにいる」と感じられたらその日、何もしなくても「大いなる者」だったのだ。ですから、ドキドキするようなことがおこらなくても、ドキドキして朝を迎えることができる。
(心のデボーション6057)
心のデボーション6058
「ペテロ答ふ『なんぢら悔改めて、おのおの罪の赦を得んために、イエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ、然らば聖靈の賜物を受けん。」 使徒2:38 大正文語訳聖書
「すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」 口語訳聖書
「聖霊の賜物を受け」
「聖霊」は神からの賜物である。信仰によって聖霊が与えれるのはない。神は、まず聖霊を遣わされ、それによって人は神に立ち返り、罪を悔い改めることができたのである。「賜物」と訳されたギリシャ語は「δωρεά」で、この語は「受け取る者の功績や資質とは全く無関係に、神の愛と慈悲により無償で与えられる賜物」である。人が神の御言葉を読み、理解する力は「神からの聖霊の賜物」による。それはすべての人に無条件に与えられている。
(心のデボーション6058)
心のデボーション6059
「さらば何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな」 マタイ6:31 大正文語訳聖書
「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」 口語訳聖書
「何を着ようか」
「着る衣のゆえに誇るな、誉れの日におのれを高しとすな」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵11:4 日本聖公会訳)
「誉れの日」に「何を着ようか」と思い悩むな。尊き人は、神からの身に着けるべき衣をすでにもっている。それでよい。
(心のデボーション6059)
心のデボーション6060
「凡ての事は汝らの益なり。これ多くの人によりて御惠の増し加はり、感謝いや増りて神の榮光の顯れん爲なり。」 Ⅱコリント4:15 大正文語訳聖書
「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」 口語訳聖書
「凡ての事は汝の益なり」
「神の御恵みのいや増すところ」、「凡ての事は汝の益なり」、「感謝いや増りて、神の榮光の顯る」。(Ⅱコリント4:15) 恵みがいや増すにつれて感謝が満ち溢れ、感謝いや増すつれて神のめぐみは満ち溢れ、神の栄光は栄光から栄光へと輝く。小さな感謝から神の恵みが溢れ流れる。すべてことは「益τὰ γὰρ πάντα δι᾽ ὑμᾶς,(すべてのことはあなたがたのため)」である。
(心のデボーション6060)
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